【13】
「浮かない顔だな」
ロトの隣を歩くロドリゴが呟いた。二人は憲兵隊の制服で、帯剣をしていた。街中ですれ違う人々がちらりと二人の姿を流し見ていた。憲兵隊の制服は街中ではとても目立った。
「初めての見回りで緊張でもしたか?」
「いえ……そう言うわけじゃないんですけど」
ロトは頭を振った。彼の頭の中にはカインとエノクのことがあった。昨日彼らの家に向かったが会えず、二人の身を案じていたということをロドリゴに言おうかと彼は思ったが、やめた。彼らと共にいたマタティアという人物が本当に危険な人物なのかも分からないのに、これ以上彼らのことに気を取られて眼の前の仕事がおろそかになるということは、やはり間違っていることだと思ったのだ。
「いえ、なんでもないです」
ロトは言った。俯けていた視線を街中に配った。ロドリゴは眉を寄せてロトの様子を訝っていたが、それ以上は何も言わなかった。
「まあ肩の力を抜け」
ロドリゴが言った。
「これはただの見回りだ。見回りでそうそう大事件に出くわすことなんてありゃしない。それにもし何か起きてもオレがフォローしてやるから安心しろ」
「はは、かっこいですね先輩」
ロトははにかんで言った。
「女だったら惚れてたかも」
「なら女になってから惚れてくれ。オレは男には興味ないからな」
そう言われてロトはまた笑った。
憲兵隊の見回りは区画ごとに分かれていていた。貴族の屋敷が多く立ち並ぶ区画と、一般階級の人々が多くクラス区画、そして貧民街の区画だった。ロトはこの日、貴族の屋敷が多く立ち並ぶ区画の見回りをするように命じられていた。
貴族の屋敷が多く立ち並ぶ区画といっても、通りを歩けば貴族の人々は殆ど見かけず、一般の人々が多かった。それは貴族の人々は馬車を使って移動することが殆どで、彼らが外を出歩くことは珍しかったからだ。
ロトは貴族の屋敷の近くに足を運んだことは今まで一度もなかった。別に貧民街の人間は立ち入ってはいけないというわけではなかったが、みすぼらしい格好の自分が立ち入るのは気後れしてしまう場所が、この貴族の家々の立つ場所だったのだ。
「はぁ~」
持ち回りの区画に入ると、ロトは初めて見る立派な屋敷に感嘆した。どの屋敷もきらきらと輝いて見えた。
「なんだか、すごいですね」
「なんだ、おまえはこの辺初めてか?」
ロドリゴが訊ねた。ロトは頷いた。
「なら確かに驚くかもな。ここは他とはまるで別世界みたいな景観だからな。だが、だからこそ用心しないといけない場所でもある」
ロドリゴは少し真面目な調子で言った。彼は憲兵隊の先輩としてロトに見回りの時に注意するべきことを告げた。
「ここは貴族の家、もしくは金持ちの商人が済んでいると一発で分かるからな。豪華絢爛な屋敷はそれだけで十分よこしまな考えを持っている連中の標的になりやすい。だからオレたち憲兵は常に怪しい奴がいないか注意を払っておく必要がある」
「怪しい人物の見つけ方は?」
「立ち姿、姿勢、視線、挙動、そう言うのが普通と違うと感じるかどうかだ。まあ、こいつは経験で身に着けるしかないんだが――」
ロドリゴは人目に付きにくい路地の一か所を指さした。
「注意して見るべき場所はああいうところだな。人の目に付きにくい場所だ。もしくは、人が大勢いる場所だ」
「大勢いる場所もですか?」
「人が多ければそれだけおれたち憲兵の視線も周囲に散る。危険思想を抱いた奴らがいたとしても発見は間違いなく遅れる」
ロドリゴの教えをロトは胸に刻み込んだ。そして教えられた通り、人目に付きにくい場所や人が固まっているところに注意深く視線を投げた。けれど危険思想(それは一般的には王家に対する批判的な言論や国に不利益をもたらすような言動を指している)どころか、強盗や泥棒だって見つけることは出来なかった。そもそも王国の治安は比較的安定していた。それは憲兵隊の日々の治安維持の活動から始まり、さらには騎士団の存在が犯罪そのものの抑止力に担っている証左だった。
でもそれは油断していいということじゃないとロトは思った。実際彼は強盗事件に一度遭遇している。治安が安定していると言っても、まるっきり犯罪がないわけではないのだった。
ロトはそこであることに気が付いた。街を見回していると、やけに憲兵隊の人数が多かったのだ。ロトとロドリゴのように二人ペアで巡回している組が、目に付く範囲でも五組はいた。彼が憲兵隊に入隊してすぐに教えられた規則では、憲兵隊の巡回は持ち回り制で、ひと区画につき一組、多くても二組までだった。
「なんだか、憲兵隊の巡回が多くないですか?」
ロトは訊ねた。するとロドリゴは口端に笑みを刻んだ。
「ああ、あれは巡回じゃない。この辺りの屋敷の警備をしてる連中だな」
「警備?」
ロトは眉を顰めた。
「警備って、いつもこの区画にはこんなに憲兵隊が?」
「まさか。今だけ、特別だよ」
ロドリゴは言った。
「おまえ、来月に王城で三権採決権を持つ貴族の方々の間で議会が開かれることは知ってるか?」
「知りませんよ。というか、逆になんで先輩が知ってるんですか。普通一般人はいつ議会が開かれているかなんて知らないでしょ」
「普通はそうなんだけどな」
ロドリゴはどこか自慢げだった。けれどロトは議会が開かれるという情報を彼が知っているのは決して彼自身のなにかに由来するものではないと直感した。それが分かるほど、滲み出る何かがある笑みだった。
「今回のメインはどちらかと言えば議会の後に開かれるパーティーの方なんだ」
「パーティー?」
「王太子殿下の十五歳の誕生日を祝うのさ。その為に議会だけなら各貴族家のご当主が集まるだけなんだが、今回は当主以外のご家族も参列するために王城に集まるってんで、貴族の方々に万が一があってはいけないと一か月前からこうして不審な連中がうろついていないか警備に人員が割かれてるのさ」
「なるほど、それで」
ロトは納得して、改めて彼らを見た。
「でも、これだけ憲兵がいると、誰も何かをしようとは思わないだろうな」
「まっ、よほどのバカじゃなけりゃな」
そうしてロトは憲兵になって初めての巡回を続けた。
その日、怪しい人物を見つけることはなかった。
☆
ロトは自宅の前に見知らぬ人物が立っていることに気が付いた。憲兵隊の初めての任務を終えて、一日を終えた時のことだった。空は既に暗く、青い月明りが辺りを照らしていた。
家の前に立つその人物は女性だった。黒いワンピースにレースのあしらわられた白いエプロンを着ていた。
「――ロト様、で間違いないでしょうか?」
ロトに気が付いた女性が、彼に向き直って言った。『様』だなんて呼ばれたことがなかった彼は一瞬別の人物のことかと思ってしまった。けれど女性の瞳が間違いなく自分を見据えていることを認めて、彼はぎこちなく頷いた。
「一応、俺はロトですけど……」
なぜこの人は俺の名前を知っているんだろう? とロトは思った。どこかで会ったことがあっただろうかと考えてみるが、さっぱり分からなかった。女性の衣服は生地も上等なもののようだった。加えて彼女の佇まいからはどこか気品のようなものが伺えて、貧民街で生きてきた彼とでは普通に生きていれば接点などないように思われた。
「申し遅れました。わたくしはメアリーと申します」
女性は言った。
「ベロニカ様の使いで貴方様をお迎えに上がりました」
「ベロニカ⁉」
思いもしなかった名前が出て、ロトは驚いた。一体どういうことなのか問いただそうとすると、しかし彼が口開くよりも早く、メアリーが歩き出した。
「詳しいことはベロニカ様からお聞きください。貴方様におかれましても、そちらの方がよろしいと思われます」
そう言われてしまえば、ロトは口を噤むほかなかった。
メアリーの後に続いてロトは街を歩いた。二人の間に会話は殆どなく、黙々と歩いていた。けれどロトの内心では幾つもの疑問が渦巻いていた。メアリーと名乗った彼女は一体何者なのか。ベロニカとはどういった関係なのか。そして、ベロニカのことだった。ベロニカのことを想うと、彼は心がざわつくのを感じた。それは緊張によるものだった。もしかしたら俺はベロニカのことを何も知らなかったのかもしれない、と彼は思った。そして今、彼はベロニカのなにか途轍もない秘密に触れようとしているという気がして緊張していたのだ。
メアリーの後について歩いていると、いつの間にか周りから人気がなくなっていた。彼女は夜の賑わっている街から外れ、森に続く細い道を歩いていた。ロトはそこでようやくその道が森の中の崩れた教会跡に続く道であることに気が付いた。
森の中に入ってしまえば街の灯りも届かなくなり、足元を照らすのは月明かりのみとなった。
「わたくしの案内はここまででございます」
メアリーは道の途中で立ち止まって言った。
「ここから先は、ロト様お一人でお願いいたします」
小さく首を垂れるメアリーから視線を外し、ロトは坂の上を見やった。教会跡まであと半分という距離だった。
「……この先にベロニカが?」
ロトが言った。メアリーは頷いた。
「分かった。ここまで案内してくれて、ありがとう」
そう言ってロトは坂を上り始めた。
教会跡が近づくにつれて、坂を上る足が緊張を帯びた。森もしんと静まり返っていた。
やがて、教会跡が見えた。最初、ロトはベロニカのことを見つけることが出来なかった。周囲に目を配り、探していると、物陰に隠れて見えなかったベロニカを見つけた。彼女は崩れた石壁に腰かけていた。それはいつもロトの剣の練習を眺めていた時、彼女が座っていた場所だった。
ベロニカ、と声を掛けようとして、ロトは言葉を呑んだ。月明かりに照らされる彼女があまりにも普段の――ロトが知っている彼女と違って見えたからだった。彼女はとても綺麗なドレスを着ていた。黄色いドレスだった。綺麗に結わえられた髪は、とても上品だった。儚げに瞼を瞑り物思いに耽っている横顔は、普段の明るい彼女からは想像も出来なかった。何よりそれらすべてが些細なもので、霞んでしまうほど、ロトの目に映る彼女は美しかったのだ。もう少し、このまま彼女のことを見ていたいとロトは思った。
ベロニカの瞼が震えた。ゆっくりと開かれた両の瞳がロトの姿を捉えた。その瞬間、ロトの心がドキリと跳ねた。
「来て、くれたんだ」
ベロニカが言った。少し、寂しさが籠っているようにロトは感じた。
「憲兵隊の制服姿、初めて見たけど……うん。似合ってるよ」
「ありがとう……」
ロトはあまりに雰囲気の違うベロニカに戸惑っていた。緊張を伴った沈黙が落ちた。先に沈黙を破ったのはベロニカだった。
「急に呼び出したりしちゃってごめんね」
「それは構わないけど……」
ロトは頬を掻いた。
「そう言えばおれをここまで案内してくれた女の人は、知り合いか?」
「うん。それについてもちゃんと話すよ」
ベロニカはしばらく俯いた。こぶしを握り、ドレスの裾を掴んでいた。その様子は、何かを決心しているようにも見えた。何度か深呼吸をして――。
ベロニカは顔を上げた。真っ直ぐロトを見据えて、口を開く。
「今日はロトに、聞いてもらいたい話があるの」
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