【9】

 舞踏会から数日後、ベロニカはいつものように屋敷を抜け出して街へと出かけていた。今日は休日で、ロトとこの街へとやってくるという大道芸人たちを観に行くのだった。ロトとの待ち合わせの場所はいつも教会跡だった。

 ロトは既に来ていた。彼は教会の崩れた石壁に腰かけて空を飛ぶ鳥を眺めていた。そこはベロニカがいつも座って彼の剣の練習を眺めている場所だった。

「ごめんなさい。待った?」

「いいや。そんなじゃない」

 ロトは言った。彼は目の前で風に揺れる花々と木々に目を向けていた。

「こうしてここに座っていると、いつもの場所がまるで違う場所みたいに見えるんだな」

「そうかしら? 私にはいつもと変わらない光景よ」

「それはベロニカにとってはそうだろうけど。……まあいいや」

 ロトは立ち上がった。ベロニカに手を差し出す。その顔はほんのりと赤くなっていた。

「行こう」

「ええ」

 ベロニカはそれが嬉しくてはにかみながら手を取った。ロトの手は剣を振り続けて豆が出来て硬くなっていた。



    ☆



 街は、サーカスたちが芸を披露するという街で一番大きな広場に向かうにつれて人通りが増えていった。

「すごい人通りね」

 ベロニカが感心して言った。

「道がこんなに他人でごった返すところなんて私、初めて見たわ」

「サーカスは滅多にこないからな。ちょっとしたお祭り騒ぎになるのも無理ないよな」

 広場に向かう道の通りには今日が書き入れ時とばかりに食べ物屋や土産屋の露店が立ち並んでいた。どの店も必死に声を張り上げて道行く人を呼び止めていた。

「逸れないようにしないとな」

 ロトはベロニカの手を握り直してさらに強く握った。ベロニカの心臓がとくんと大きく脈打った。

「そ、そうね」

 ベロニカは言ってほんの少し力を強くして握り返した。

 やがて人々の頭越しにドーム型のテントが見えた。そのテントは周りにある家々よりもはるかに大きかった。テントの周りには宣伝文句が書かれた看板を持っている客引きが何人か見えた。彼らからチケットを買おうと大勢の行列が出来ていた。この広場だけまるで別の国のような活気にあふれていた。

「チケットを買ってくるからベロニカはちょっとここで待っててくれ」

「えっ? 私も一緒に行くわよ」

 ベロニカが言った。ロトは視線を行列に向けた。列は随分と乱れていた。チケット奪い取るように人々が殺到して客引きはもみくしゃになっていた。なかには隣の客をぶんなぐってチケットを奪っていく荒くれ者もいた。

「……あの中に?」

「……そうね。私はここで待っていた方がいいかも」

 ベロニカは言った。

「でも、ロトも気を付けてね」

「大丈夫だよ」

 ロトは腕の力こぶを見せて笑った。行列の人混みの中に入っていく彼の姿はすぐに見えなくなった。

 ロトの消えて行った人混みをベロニカは心配そうに眺めた。すると横から声を掛けられた。

「お嬢ちゃん、一つどうだい?」

 それは露店のおじさんだった。彼は手にくしに刺さったリンゴを持っていた。けれどベロニカの知っているリンゴよりも赤くて、てかてかとしていた。

「それってリンゴ?」

「リンゴ飴さ。美味いぜ」

「ふ~ん。いくら?」

「銅貨二枚だ」

「じゃあ二個ちょうだい」

「はいよ」

 ベロニカは銅貨を四枚支払ってリンゴ飴を二個受け取った。一口齧ってみると彼女が知っているリンゴよりも甘くて、とても美味しかった。

 数分後、ロトが戻ってきた。彼の右手には勝ち取ったチケットが二枚握られていた。

「はあ~……。ったく、思いっきり殴られたぞ」

 ロトは後頭部を摩りながら言った。

「お疲れさま」

 ベロニカは言ってリンゴ飴を渡した。

「……これは?」

「そこで買ったの。リンゴ飴って初めて食べたけどすごい美味しいのね」

 ベロニカは言った。

「さあ、チケットも手に入ったことだし、早く行きましょ」

 テントを潜るとすぐに階段が現れた。客は階段を上がり上に向かってテントに沿って円形になった客席のどこかに座るのだった。そして一番下のテントの中心には演者たちが芸を披露する舞台があった。陽の光が遮られたテントの中は薄暗かった。所々に据え付けられたランプの灯りが唯一の光源だった。

 テントの中は外とは別のにぎやかさがあった。外は物珍しさや露店の主人たちの騒がしさからくるものだったが、テントの中のそれはこれから始まるすばらしい芸に対する楽しみと緊張からくるものだった。

 ベロニカとロトはなるべく舞台が見えやすい場所を選んで二人並んで座った。席はすぐに満席になった。

「なんだかドキドキしてきちゃった」

 ベロニカが言った。客たちの期待が最高潮になったところでたくさんのランプで舞台がひときわ明るくなった。

「レディース&ジェントルマン!」

 舞台に現れた男が言った。彼は黒いタキシードで、全体的にふっくらとしていた。おまけに背が小さかったのでなんだかボールのようだった。彼がこのサーカスの一座の座長だった。

「本日はようこそ我々『笑う道化師』の舞台にお集まりいただき、座長であるわたくしは感謝感激でございます!」

 コミカルに言う座長の立ち振る舞いはそれだけで観客の笑いを誘った。

「此度は皆さまの一生の記憶に残りますような芸の数々を披露いたしましょう! 先ずはこの芸からでございます!」

 暗幕の向こう側から舞台上に現れたのはきらびやかな衣装をまとった女性と見るからに獰猛そうな白い毛並みの虎だった。女性と一匹の虎は自分たちの雄姿を観客たちに見せつけるように舞台の上を歩き回った。

 女性が小瓶に入った液体を口に含んだ。火の付いた松明をアシスタントの人から受け取り、口の中の液体を置きおいよく空中に吹き出した。あいさつ代わりの大きな炎の柱が舞台上を猛り踊った。客席から悲鳴と歓声が鳴り響いた。

 女性は次に舞台上に現れた大きな輪っかに向けて火を吐いた。輪っかに火が燃え移ると見る見るうちに燃え盛る炎の輪が現れた。女性の掛け声で白い虎が唸りを上げて火の輪を華麗に潜った。

 女性と猛獣が芸を披露するたびに観客のボルテージは上がっていき、歓声が空気を震わせた。そして彼女たちが披露する芸はどんどん難しいものとなっていった。

彼女たちの芸が終わると次の組が出て来た。彼らは空中ブランコやとても真似できないようなアクロバットを披露した。

 どんな芸もベロニカが見たことのない動物や道具を使ったりしていて華やかだった。そしてとても危険なものだった。彼女は終始ドキドキして、ロトの手を強く握っていることに気が付かなかった。



    ☆



「以上で本日の演目は全て終了となります! 皆様に楽しいひと時を過ごしていただけたのなら我々至上の喜びであります!」

 座長の締めの挨拶でその日の演目は終了した。

 ベロニカはしばらくの間、今日体験した興奮に浸っていたくて客席から誰もいなくなるまで立ち上がろうとしなかった。

「どうだった?」

 ロトが訊ねた。

「最高だった!」

 ベロニカは答えた。そこで自分の手がロトと繋がったままだったことに気が付いた。

「ご、ごめんさい! 私ったら……」

 ベロニカが慌てて手を放そうとすると、逆にロトが強く握り返してきた。

「……えっと」

「せっかくなんだ。今日はこのままじゃダメか?」

 戸惑うベロニカにロトが言った。彼の顔は少ない灯りの中でも分かるほど赤くなっていた。

「……ダメじゃないわ」

 ベロニカは消え入りそうな声で言った。芸を見る前にも手を繋いでいたが、今はその時よりもなんだか恥ずかしかった。

 ベロニカとロトはそのまま手を繋いでテントを出た。外は演目が終わってもまだ賑わっていた。

「露店、回らないか?」

 ロトが言った。ベロニカは頷いた。

 露店は本当にいろいろな種類の店があった。そして値段も驚くほど安い店から一体誰が立ち寄るのだろうかというほど高い店まであった。ベロニカは特に何かを買うわけではなかった。彼女たちが立ち寄る店は今まで見たことがないような珍しいものを売る店が多かった。それは異国の絨毯やアクセサリー、装飾品や食べ物などだった。

「これとか何に使うのかな?」

 ベロニカが手に取ったのは二つの小さなリングが付いた錠だった。

「そいつは異国のまじないに使うのさ」

「まじない?」

 店主の言葉にベロニカは身構えた。まじないということは呪いや呪術、すなわち悪魔術に関わるものということだろうか。この国で悪魔信仰は禁止されていて、彼女自身も子どもの頃から悪魔にかかわる事柄には関わってはいけないと教え込まれていた。

「ははは、そんなに身構えなくてもいいさ」

 店主は笑った。

「まじないって言ってもこいつは悪魔術みたいなやつじゃない。むしろもっといいものさ」

「いいもの?」

「いいかい? こいつは遠い国の伝統なんだがね。錠に付いているリングにお互いの名前を刻んで、相手の名前が書かれているリングをひと月身に付けた後、それを錠に戻して川の底に沈めるのさ。そうすりゃ名前の刻まれた者同士は錠によって結び付けられ、永遠に別たれることはないっていう話さ」

「へえ~。そんな伝統がある国があるのね」

 ベロニカは感心した。まだ見ぬ遠い国の人々に彼女は思いを馳せた。

「お嬢ちゃんたちも一つ試してみたらどうだい」

 店主が言った。

「見たところ、お嬢ちゃんたちも恋人ってところだろ? これも何かの縁だからな」

「こ、恋人⁉」

 ベロニカの喉から変な声が出た。

「なんだい? 違うのかい?」

 店主が意外そうに言った。ベロニカはロトと顔を見合わせた。お互いの関係をどう言葉で表したらいいのか、彼女には分からなかった。友達ではない。ロトとはそれ以上の関係であると彼女は思っていた。けれど恋人かと問われればそれもまた疑問だった。まだどちらからも付き合おうとも好きだとも明確には言っていないのだから!

 ベロニカは悩んだ。悩んで悩んで、ようやっと言った。

「おじさん、それ貰うわ」

 横ではロトが驚いていた。ベロニカは少し考えて言った。

「……えっと、別に恋人同士じゃなきゃ使っちゃいけないだなんてこともないでしょ? このまじないって要は離れ離れになりたくない人同士を結び付けるっていうものなんだから。私はロトとはずっと一緒にいたいと思ってるから、使っても構わないわ」

「お、おう……」

 ロトは短く頷いただけでそれ以上何も言わなかった。思いがけない答えを飲み込むのに時間を要しているのかもしれなかった。

 二人のやり取りを店主は呆れた様子で眺めていた。

「はいよ。銅貨十枚だ」

「ありがとう、おじさん」

 ベロニカは錠を受け取るとロトを連れて少し静かな場所に移動した。

 錠からリングを二つ取り出し、一つをロトに渡した。それぞれに店主に教わったように自分の名前を刻みつけていく。小さくて少し苦戦したけれど、無事に名前を刻めることが出来た。それをお互いの指にはめることで交換した。

「……なんだか照れるわね」

「……だな」

 ベロニカは大胆なことをしてしまったと思った。ロトと眼を合わせることが出来なかった。

「……これであとはひと月たったら錠に戻して川に沈めればいいのか」

 しばらくしてロトが口を開いた。

「なんだか簡単なまじないだな」

「そんな言い方ってないと思うわよ。こういうのは気持ちの問題なのよ」

 ベロニカは笑って言った。

 空は沈み行く太陽に照らされて黄金色に染まっていた。

「なあ、ベロニカ」

 空を見上げていたロトが言った。

「最後に一か所、行きたい所があるんだけど。いいか?」



    ☆



 ベロニカがロトに連れてこられたのはいつもの教会跡だった。朝待ち合わせで使った場所でもある。

「ここに何かあるの?」

 ベロニカが訊ねた。一見していつも通りの教会跡だった。

「まあ、ちょっとな」

 ロトは短く言ってそのまま歩き続けた。ベロニカは彼の後を黙って付いて行った。やがて樹がなくなり、開けた場所に出た。

「っ!」

 ベロニカは驚いて息を呑んだ。そこは百花繚乱に咲き誇る花々が黄金色の夕日に揺れていて、とても幻想的だった。ベロニカは長くこの教会跡に足を運んでいたが、こんな光景を見たのは初めてだった。

「すごい……」

「ベロニカはいつも日が暮れだすと家に帰っちゃうからな。見たことがないだろうと思ったんだ」

 ロトが言った。

「……だから今日、ここに連れて来てくれたの?」

「この光景を、ベロニカと一緒に見たいと思ったんだ」

 ロトは気恥ずかしそうに頬を掻きながら言った。ベロニカはその言葉だけで胸がいっぱいになった。あぁ、やっぱりロトといる時間がどんな時間よりも楽しくて、どうしようもないと彼女は思った。

「ねえ、少し踊らない?」

 ベロニカが言った。

「……どうした急に?」

 ロトは眼を丸くした。

「え~と、ほら、貴族の人たちってよく舞踏会とかやるじゃない? だからちょっとした真似よ」

 ベロニカは少し考えながら言った。

「それに、こんなに幻想的な光景なんだから、少しくらい踊りたくなったっておかしくないわ」

「……前に舞踏会はそんなに楽しいものじゃないって言ってなかったけ?」

「それは周りに人がいるからでしょ? 今ここには私とあなたしかいないんだから関係ないわ」

 ベロニカが言った。ロトは困って逡巡した。

「……俺は踊りなんてやったことないから踊れないぞ?」

「適当で大丈夫よ。ほら、ね?」

 ベロニカはそう言ってロトの手を取った。ロトは力なく苦笑を浮かべた。

 ベロニカのリードでリズムを刻んでいく。オーケストラの伴奏はなかったが、そんなことは問題なかった。たどたどしい足取りで必死に自分について来るロトと至近距離で眼が合った。

「こんなんでいいのか……?」

「大丈夫よ。力をもっと抜いて。私に身を任せて……――そうそう、そんな感じ」

 黄金色の世界で、花畑の上を男女の寄り添った影が踊っていく。最初外れていた二つの影の動きがだんだんと重なり合っていった。

 ベロニカは、この時間が永遠に続けばいいのにと思った。

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