【11】

 ヴィオッティ家の客人用の応接室ではすでにベロニカの父親とロベルトが会話に花を咲かせていた。ベロニカがアダムと共に部屋の中に姿を現すと、ロベルトは席を立って彼女のことを出迎えた。

「やあやっと来たか」

 ロベルトは言った。

「薔薇園はどうだったかな?」

「はい。とても美しくて、感動してしまいました」

「そうだろう。実はあれはわたしの妻が自ら手入れしているものでね。わたしにとっても自慢なのだ。気に入ってもらえたようで何よりだ。妻も喜ぶことだろう」

 ロベルトは満足げに笑った。ベロニカを椅子に座らせた。アダムは彼女の対面に座った。

「さっきも言ったかもしれないがね。わたしは今、この上なく喜ばしい気分なんだ。なぜならわたしの愚息はあまり他人に興味も抱かない質のようでね。特に特定の女性と親しげにしているところだなんてものは、わたしは見たことが無かったんだ。けれど驚いたことに、お嬢さんに対してだけは、愚息もとても親しげにしているじゃないか。しかも君と二人だけで会話をしたいと申し出たんだ。こんなことを言われたのは、これが初めてだったのだよ。改めて、感謝をさせてほしい。この愚息にとって君と出逢えたことは、きっと素晴らしいことだったに違いないからね」

「そ、そんな……私もアダム様には大変よくしていただいているのです」

 ロベルトに頭を下げられ、ベロニカは慌てて言った。

「感謝をするべきなのは私の方です。あの舞踏会の夜にアダム様に声を掛けていただけてよかったと心から思っています」

「――君は、本当に素晴らしいお嬢さんだ」

 ロベルトは言った。

「ラフマニノフ殿。あなたはこのようなすばらしいお嬢さんを娘に持ってとても幸せ者ですな」

「……恐れ入ります。ですがまだまだ至らぬ点ばかりでございます」

 父親の謙遜に、ロベルトは苦笑を浮かべた。

「そうだ。忘れてしまうところだった」

 ロベルトが手を軽く叩いた。かわいた音が二回、小気味よく鳴った。彼は控えていた侍女に屋敷にある茶葉の中で最も高級なものを使って紅茶を入れるようにと言った。しばらくすると侍女によって美しい色をした紅茶が運ばれてきた。それは少しオレンジがかった紅茶だった。

「いただきます」

 と言ってベロニカは紅茶を一口飲んだ。ほのかに鼻を抜ける爽やかな味わいだった。

「これは、ダージリンですか?」

「ほう。お嬢さんは紅茶が分かるのかな?」

 ベロニカが言うと、ロベルトは少し驚いた。そしてベロニカが紅茶の味を分かることを彼は喜んだ。

「ダージリンは紅茶の中でも有名ですから」

「いやいや。この茶葉はある高地で、特別に作られたものでね。一般に市販には出回らないものなんだ。だからよく親しまれているものよりも風味が異なるのだ。わたしも初めて飲んだときはこれがダージリンだとは気づけなかったんだよ」

 ロベルトが言った。

「お嬢さん、参考までに聞かせてくれないだろうか。一体なぜこの紅茶がダージリンだと気が付いたんだい?」

「えっと……」

 ベロニカは困惑した。彼女はただ感じた感想を呟いただけで、紅茶にそれほど造詣が深いわけではなかった。

「その、私もただ何となくそう感じただけでして……。強いて上げるなら、確かにいろいろ貴賓高い味付けがされているその奥に、ダージリン特有の香り高さを感じたような気がしたのです」

「なるほど」

 ロベルトは感心して頷いていた。彼がまだ何か言おうと口を開くと、その様子を見かねたアダムが割って入った。

「父上、いい加減にしてください。ベロニカさんが困っているじゃないですか」

「うっ、す、すまない」

 息子に指摘され、ロベルトは気まずそうに居住まいを正した。

「少々興奮してしまったようだね」

「父上は紅茶のこと見境がなくなるのです」

 とアダムがため息をついて言った。

「この癖さえなくなれば、もっと素晴らしい父になるのにと、僕もよく母と話しているのですよ」

「はは……いや、すまなかったよ。わたしとしてもお嬢さんとこのような話をするつもりはなかったのだけれどね」

 ロベルトは言った。

「けれど、なるほど。お嬢さんの人となりは非常によく分かったよ。君になら、愚息のことを任せてもよさそうだ。きっと妻も反対はするまい。わたしは紅茶と人を見る眼には自信があるんだ」

「そんな……」

 ベロニカは恐縮した。ロベルトの評価は純粋にうれしいものだったが、それは自分とアダムの関係性を誤解しているからなのだと彼女は思った。彼女にはアダムと恋仲になる気は全くなかった。そしてそれはアダムも同様だった。

「ええ。僕も彼女とはよい友人になれると思っています」

 アダムが言った。彼の言葉にロベルトと、なによりベロニカの父親はひどく驚いていた。

「ゆ、友人……?」

 ロベルトは思わず訊き返した。

「ええ。彼女とはよい友人となるでしょう」

「……アダム。わたしはな、彼女こそお前の伴侶に相応しいと思っているのだ」

 ロベルトは言い聞かせるようにいた。

「今まで近寄ってくる女性たちをお前はにべもなく袖にしてきたが、このお嬢さんは初めてお前がまともに関係を築こうとしている女性なのだ。お前とて、このお嬢さんと家族になることを嫌とは思うまい?」

 アダムはこの状況を一体どうするつもりなのかとベロニカは思った。彼の父親にここまではっきりと結婚相手の候補として見られているということを宣言されてしまっては、さすがの彼もむげに断ることは出来ないのだった。それはベロニカやラフマニノフ家に対する礼儀を欠いてしまう言動だからだった。そしてアダムが少しでも受け入れるような姿勢を見せれば、ベロニカの父親は間違いなくこの縁談を進めようとするに違いなかった。

「そうですね。彼女は実に魅力的な女性だと思います」

 アダムは言った。

「しかし、だからこそ僕は思うのです。僕のように自由を愛する男の下に嫁いでしまったりしたら、彼女はきっと不幸になってしまうだろうと。何故なら多くの女性は一人の男性に、永遠に愛して欲しいと願っているからです。しかし僕の心は常に自由であろうとしてしまうのです。そしてそれは決して一か所の場所に留まったりはしないのです。心から生じる愛もまた同様です。それは愛を求める女性にとっては大変つらいことだと思います。しかし友人同士なら、その自由すらも共有できるのです。愛は多くのものを育み、育てますが、友人同士が繋ぐ絆はお互いを縛ったりすることなく、ただ繋がっていることが出来るのです。だから僕は彼女とはよき友人としての関係を築きたいと思うのです」

 アダムの言は雄弁だった。

「し、しかしそのようなことを言っていては、お前は妻を得ることが出来なくなってしまうではないか」

 ロベルトが反駁した。

「お前はヴィオッティ家を継ぐ責任があるのだ。だというのにお前は――ヴィオッティ家を潰すつもりなのか?」

「確かに父上のおっしゃる通りですが、それは何も今すぐに決めなければならないことではありません。僕はまだまだ若いですし、時間はあります。その中で僕の心と愛が自由を捨て、一人の女性を愛することを決めるその時をもう少し待ってもらいたいのです」

「それはこのお嬢さんではだめなのか?」

「彼女の問題ではないのです」

 アダムは言った。

「すべては僕の問題なのです。僕の心はまだ、自由を捨てることは出来ないのです」

 ロベルトは息子の考えに頭を抱え、ベロニカの父親は二人のやり取りを見て愕然としていた。けれど彼が二人の会話の口を挿むことはしなかった。彼にその権利はまだなかった。

 やがて長い沈黙の後、ロベルトは深く嘆息した。彼はベロニカと彼女の父親に向き直った。

「お見苦しいものをお見せしてしまい、申し訳ない」

 ロベルトは言った。

「ラフマニノフ殿。聞いての通り、わたしの愚息は今婚約をするつもりはないそうだ。当人たち同士の合意をなくして婚姻を結ぶことは、わたしとしても本意ではない。なので、誠に勝手な話ではあるが、はもうしばらく待っていただけないだろうか。その間にわたしも愚息の説得をして見ることにするし、もしかしたらこれの考えも変わるかも知れぬ」

 ベロニカの父親は何とも言えない渋い表情を作っていた。

「……かしこまりました」

 やがて力なく絞り出したのはそんな言葉だった。



    ☆



 帰りの馬車の中は奇妙な沈黙に包まれていた。ベロニカの父親は、馬車が動き出してから一言もしゃべらなかった。腕を組んで揺れる馬車の床を見やっていた。ベロニカも何も言わなかった。

「……お父様」

 しばらくしてベロニカは言った。父親は僅かに視線を上げて彼女を見た。

「ロベルト様がおっしゃっていたお話というのは何でしょうか?」

「まあ、構うまい」

 父親は少し考えてから言った。

「私がヴィオッティ殿と話していたのは貧民街のことなのだ。私はこれまで陛下に貧民街の区画整理をするべきだと進言してきた。それは彼らの住処がこの美しい王国の景観を損ねてしまっているからだ」

「ま、待ってください! それではあそこに住む人々はどうなってしまうのですか?」

「多くが国を追われることになるのではないだろうか」

「彼らもこの王国の臣民です。それ無下にすることなど許されるはずが……」

 ベロニカは我を忘れて叫んでいた。父親の話は、ともすればロトも王国から追い出されるかもしれないということだった。けれど父親は平然としていた。

「臣民は王国に何らかの形で寄与しなければならない。だが彼らは何も仕事をしていないではないか。貧しさの上に胡坐を掻き、我々からの施しをただ待っているだけではないか。そして施しを受けられなければ彼らは怒る。とんだ人でなしが彼らなのだよ。そんな人々を私は臣民とは思わない」

「多くの人々は、貧しい中でも必死に働いています!」

 ベロニカはロトと彼の母親を想った。

「それでも彼らが貧困から抜け出せないのは、彼らが働く際に貧民街の出身だということで冷遇されているからです。区画整理などということの前に、まずは彼らの労働環境を整えることの方が先決ではないでしょうか」

「残念ながらお前の言っているような人々はほんのごく僅かなのだよ。それに、彼らを冷遇というが、それこそありえない話だ。我々は臣民の労働環境を一定期間の後に調査しているのだ。そして冷遇などと言う非人道的な行いが行われているという報告は受けていない。それなのに彼らが貧民街から抜け出せないというのは、彼らに問題があると思わなか?」

 ベロニカは父親のことが恐ろしくなった。この人にはまるで物事の本質が見えていないのだと思った。調査なんて、報告なんて、そんな上辺はいくらでも取り繕える。彼はその上辺だけで物事を理解した気になっているのだった。

「少し話が逸れたが」

 と父親は言った。

「ヴィオッティ殿とは今回の婚姻が結ばれた暁には、彼にも殿下に助言をお願いしようと思っていたのだよ。そういう話と彼とはしていたのだ。残念ながらそれは少し先延ばしになってしまったがな」

 ベロニカは内心でアダムに感謝した。彼には二重の意味で助けられていたのだった。

「それにしても。ヴィオッティ殿のご子息にも困ったものだな」

 父親は言った。

「随分と風変わりな青年だとは聞いていたが、まさかあそこまでとは」

「安心しなさい。彼も必ずお前の美しさと素晴らしさに気が付くはずだ。そうすれば彼は必ずお前を愛してくださることだろう」

 ベロニカは何も言わなかった。彼女は屋敷に帰り着くまで沈黙していた。



    ☆



 屋敷に着くと空は既に夕暮れだった。馬車から降りると数人の侍女が出迎えてくれていた。その中にはメアリーの姿もあった。彼女たちはベロニカと当主である父親に深々と礼をしていた。ベロニカは彼女たちの中に今まで一度も見たことのない顔がいることに気が付いた。

「あら? あなた見ない顔ね」

 ベロニカが訊ねた。尋ねられた侍女が顔を上げた。年はベロニカと大して変わらないように思えた。若干年上ぐらいだろうか。

「はい。本日よりこのお屋敷でお世話になることになりました。ローザと申します。よろしくお願いいたします」

 ローザと名乗った彼女は丁寧にお辞儀をした。

「そうなの?」

 とベロニカは周囲を見渡した。侍女長と眼が合った。

「お嬢様方がお出かけになられてすぐに雇ってもらいたいといらしたのです」

 侍女長が言った。

「能力は問題ありませんでしたし、ちょうど先日侍女が一名抜けたのでその補充には十分かと判断し、雇わせていただきました。彼女にはこれからベロニカ様の髪の手入れなどを任せるつもりですので、ベロニカ様もよろしくお願いいたします」

「あなた、美容師さんなの?」

 ベロニカは驚いて言った。

「はい」

 とローザは侍女服の裾から散髪用のハサミを取り出した。

「これからよろしくお願いいたします。ベロニカ様」

 彼女はにこりと笑った。とても感じのいい人だなとベロニカは思った。

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