第15話

 春になった。誠の経過は順調だった。今では涼子の心配をよそに、元気に走り回るまで回復した。まるで誠の身には何も起きなかったかのように錯覚するそんな時に限って、あの夏の出来事がすべて夢であったらならどんなにいいかという気になる。しかし、過去は変えられないのだから、涼子は前に進むしかない。母親として今できること、将来へのリスクを出来るだけ少なくすることを心がけるしかない。

 秋から冬にかけての間に、涼子は車の免許も取得した。自分の車を買う余裕はないので、父親の車を借りて使っている。復学した専門学校にも今では車で通っている。

 教習所では恵美に出くわした。停学した理由を正直に話したところ、次の日に恵美からCDを手渡された。

「後期の授業の資料と、私の書いたレポートです。参考になれば」

 涼子は恵美の親切を素直に受け取った。二年目の前記までの授業は頭に入っているが、後期は未知の世界である。安定しているとはいえ、油断ならない誠を面倒を見ながら勉強するのに、恵美の資料は、砂漠のオアシスなみの価値があった。

 克弥とは別れたと恵美は聞かれないうちに言った。克弥は復職し、希望通り、栄養相談にものってもらえるインストラクターをしているという。恵美自身は保育園に就職が決まったということだった。

 涼子よりも一足先に免許を取った恵美は、授業のことでわからないことがあったら連絡くださいと言い残し、教習所を去っていった。人生のトラックを走り始めた恵美の背中を見送りながら、涼子は気を引き締めた。次は自分が走り出す番だ。


 その日、涼子は久しぶりにバスに乗った。父が終日車を使う用があるというので、いつもより早起きをしてバスに乗り、帰りのバスの時間を気にしながら授業を受けた。一年前の同じ授業内容、同じ講師。くらりとするような既視感のなかで、涼子の気持ちだけが確実に変化を遂げていた。

 涼子は五時のバスを待った。ベンチにはグリーンのショッピングカートに両手をもたれかけさせた老婦人が座っている。五時少し前、バスがやってきた。

 運転手は修一ではなかった。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか、つるりとした肌がほんのりと赤く染まっていた。修一はシフトが変わったか、ひょっとしたら運転業務にはまだ復帰していないのかもしれない。

 もしかしたら会えるだろうかと期待していた涼子は苦笑いを浮かべて席についた。修一にはしばらく会っていない。退院するまでは誠を連れて時々見舞いに行っていたが、その後は涼子から連絡を取るのをやめた。

 ギプスの取れた修一は、踵に書かれた涼子のメッセージを目にしたはずだった。涼子の意思表示に対する修一の答えを待とうと自分からは連絡を絶った涼子だったが、修一からの連絡はふつりと途絶えた。沈黙は修一の答えなのだろうと、涼子は身を引いた。

 気持ちだけではどうにもならない恋愛もある。踏み出せないでいる修一を、涼子は責める気にはなれない。立場が逆であれば、涼子も躊躇しただろうから。

 二人掛けの隣の席にリュックをおろすなり、涼子は我知らずのうちにふっとため息をついていた。リュックをあけ、中から分厚い教科書を取り出し、膝の上に広げた。儀式として身についてしまった習慣だ。

 最後に乗ってきた客は老婦人だった。ショッピングカートを引き上げ、ポシェットからパスを取り出し、運転手に見せる。見慣れた光景が繰り返された。

 だが、バスは老婦人が席に着くのを待たずに発車した。正確には発車しようとしたが、乗客の男性が運転手に声をかけたため、バスは発車できなかった。

 後ろの席から運転席にむかって歩いていく男は修一だった。修一は運転手にむかって何か語りかけていた。話を終えると、修一は涼子の座っている席の隣に立った。

「隣、いいかな」

「どうぞ」

 リュックを移動させて空いた席に、修一は腰かけた。老婦人は涼子たちの座る席の少し前に腰かけた。老婦人が席に着いたのを確認するかように運転手が客席を振り返り、バスは発車した。

「新人の運転手なんだ。乗客が全員席に着くのを確認してから発車しろって言ってるけど、つい忘れるんだな」

「都筑くんは、いつもあのおばあさんが席に着くまで発車しなかったものね」

「年寄りは足腰が弱っているんだから、特に気をつけてみてやらないといけないんだ」

「バスに乗っていたの、気づかなかった。新人ドライバーの教育係りなの?」

「いや、たまたまこのバスに乗る用事があったから……」

 涼子は修一の横顔を眩しそうに見つめた。最後に修一に会ったのは退院直前で、その時には顔下半分を覆っていた髭はきれいに剃り落されて影も形もなかった。

「元気そうね。もうすっかりいいの?」

「まだリハビリに通っている。完全に元に戻るまでにはもう少しかかりそうなんだ」

「仕事は?」

「内勤を主にやってる。いつか運転業務に戻れたらいいけど。誠くんはどうしてる?」

「定期的にお医者さまに診てもらっていて、元気にしているわ」

「小原は?」

「私?」

「元気か?」

「ええ、おかげさまで」

「学校に戻ったんだな」

 修一の目が涼子の膝の上の教科書をとらえていた。

「勉強、大変なのか」

「そうね、最後の一年だから。でも何とかなりそう」

 恵美からの情報提供で何とか授業と通院とをやりくりできそうだという話を涼子は語って聞かせた。その間中、修一は穏やかな微笑みを浮かべたまま、涼子の話に耳を傾けていた。

 市内を出たバスは、降りる客も乗る客もいないバス停を次々と走り去っていった。スピードに乗ったバスの車体はカーブを曲がるたびに大きく揺れ、そのたびに、乗客の多くが前のシートの背もたれに手をかけてバランスを取っていた。

「ちょっと」

 信号待ちでバスが停車すると、修一は席を立って運転席へとむかった。二言三言言葉を交わし、信号が青に変わる直前に席へと戻ってきた。

「運転が荒いって注意してきたの?」

「小原もそう思った?」

 修一は鼻頭に皺を寄せていた。

「人を乗せているってことを忘れるなって言っておいた」

 修一の忠告が効いたらしく、信号が青に変わった後のバスの走りは穏やかになった。カーブを曲がるたびに膝にあたっていた修一の腿が当たらなくなったので、涼子はほんの少しだけ、修一の真面目さを恨んだ。

「都筑くんの運転するバスはいつもゆったりした走りだったわ。あまり揺れないからバスに乗っているような気がしなかった」

 自分も運転するようになり、隣に誠を乗せている時と一人の時とではまるで運転の仕方が違うと知った。大切な人を乗せている時は、気配りが二倍や三倍は増す。誠は車酔いしやすい方だったから、なおさら、揺れを感じさせないよう、涼子は運転には気をつかった。

 住宅街が近づいてくると、降りる客が多くなった。わずか数十メートルの距離を、バスは走っては停車しを繰り返し、乗客を降ろしていく。乗客の数が少なくなるのとともに修一の口数も重くなっていった。

 修一が口をきいたのは、商店街の少し手前のバス停を過ぎた時だった。そこから住宅街へと走っていくバスは再び商店街近くのバス停へと戻り、そこから涼子が乗り降りするバス停へとむかう。

「相合傘、書いたの、小原か」

 涼子は黙って頷いた。

 自分の気持ちを伝えるのに相合傘を使ったのには、真紀との思い出話がヒントになっていた。中学時代、修一が涼子に思いを寄せていたと真紀は話してくれた。修一が真紀に恋の話を打ち明けるとは考えられなかったので、涼子はなぜわかったのかと尋ねた。

「流行っていたでしょ。黒板とか掲示板に好きな人と自分の名前を並べて相合傘を書くのが。一種の告白みたいなものだったけど。山下くんとも、相合傘に名前を書かれたことがきっかけで付き合い始めたんだよね」

 朝、登校したら教室の黒板に、涼子と孝輔の名前の入った相合傘が書かれていた。クラスメートに散々からかわれながら、まんざらでもない気で涼子は大輔と付き合い始めたのだった。

「あの相合傘ね、最初は涼子と都筑くんの名前だったんだよ。少なくとも私が見た時は都筑くんの名前だった。朝礼の直前には山下くんの名前に変わっていて、あれって思ったんだけども」

 真紀から昔物語を聞かされた涼子は、修一のギプスに自分と修一の名前を連ねた相合傘を書いた。修一になら意味がわかるだろう。だが、ギプスの取れた修一からは連絡がなかった。

「人を好きになる気持ちって不思議ね。いつもの風景に出現した見慣れない物のように、ある日突然、ああ、私はこの人が好きなんだって気づくけど、きっとそれまでもずっと目にしていたものなのよね。ただ、気にとめていなかったというだけで」

 涼子の目は車窓の景色を追っていた。九か月の間に変わったものもあれば、変わらぬものもあった。

「今も昔も、人を好きになるということがどういうことかよくわからない……。中学時代、山下に小原をとられて悔しかったけど、何もできなかった。本当に小原のことが好きなのかもよくわからなくなった。こっちに戻ってきてるって聞いて、バスで見かけた時、やっぱり好きだって思ったけど、どうすればいいのかわからなかった。誤解してほしくないんだけど、小原に好きになってもらおうとして誠くんに取り入ったわけじゃない――」

「私だって……。誠がなついたから、都筑くんを好きになったわけじゃない。誠が都筑くんに会う前に、私はあなたを好きになっていた」

 バスは商店街近くのバス停で停車した。買い物帰りの主婦と老人夫婦をおろし、バスは発車した。涼子が降りるバス停まではあと五分もない。

「ずっと小原が好きだった。中学の頃から、ずっと小原だけを見てきたんだ――」

 左頬に修一の熱い視線を感じた。バックミラー越しではない視線の強さは増していた。

「小原、俺と付き合ってくれないか」

 修一の手が、膝の上の教科書にそえた涼子の手を握った。

「中学生みたいな告白ね」

 そう言うと、修一は照れたように笑った。オヤジと揶揄された中学時代とそっくり同じな笑顔だった。


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キャッチアップ あじろ けい @ajiro_kei

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