第2話

玄関の戸を開けるなり、転がり出てきたのは誠だった。短い両腕を車輪のようにグルグルまわしながら駆けてきて、涼子の膝に突進した。

「ママ! ママ!」

 舌足らずな口ぶりでくりかえし、涼子に靴を脱ぐ暇も与えずに誠は涼子の足元にまとわりついた。

「ただいま。誠、いい子にしてた?」

「うん、いい子にしてた」

 誠を抱き上げ、居間に入っていくと、玄関でかすかに嗅いだ栗の香りが強くなった。

「おかえり。今日は栗ごはんよ」

 エプロンで両手をぬぐいながら、母が台所から顔をのぞかせた。

「だと思った。玄関まで栗のにおいがしたもの」

「あなた、昔から鼻がいいわね。着替えてらっしゃい。その間におかずの鮭焼いちゃうから」

「はあい」

 誠をソファーに座らせ、二階の部屋にあがろうとすると、ちょうど風呂からあがったばかりの父に出くわした。

「お、帰ったのか」

「うん」

 パジャマ姿の父は冷蔵庫を開け、ビール缶を取り出した。風呂上りに一杯飲んでそのまま寝てしまうのが父の習慣だ。持病の糖尿病にはよくないのだが、注意しても聞かない父なので、この頃では母も諦めてしまって、涼子にむかって無言で首を振って見せるだけだった。

 離婚するという話をした時、母は我慢が足りないと涼子を叱った。浮気ぐらい、男なら誰でも一度はあることだからぐっと堪えなさいと言われたのは同じ女として心外だった。逆に、結婚する時、男にはいろいろとあるのだから片目をつぶっておけと言った父が、雅弘の浮気に激怒し、そんな男とはさっさと別れろと言った。自分の娘が泣かされるとなると話が違ってくるものらしい。実家でしばらく面倒をみてもらえないかという話をした時、母はいい顔をしなかったのに、娘が戻ってくると手放しで喜んだのは父だった。昔から一人娘の涼子には甘い父だった。

 父はこの町で生まれ育ち、就職も地元で、結婚相手にも地元の人間を選んだ。母とは高校時代の知り合いだった。三年前に公務員を退職し、今は誠の相手をするか、庭いじりをして一日を過ごしている。糖尿病と医者から言われたのは退職する直前、涼子が結婚したばかりの頃だった。食事制限がきつくて献立を考えるのが一苦労よと母はよく愚痴をこぼしていた。そうは言いながら、母ははりきって父のために食事を用意していた。もともと料理は好きな方で、手をかけるのを厭わない。白飯は涼子が中学に入学するまでは釜で炊いていて、「はじめちょろちょろ、なかはっぱ、赤子が泣いても蓋とるな」と、火加減を教えてくれたのは母だった。味噌汁も出汁から取る。母は、煮干しと鰹節を使った。苦味があるので頭とはらわたを取り、水から煮出す。沸騰したところで鰹節を投入して出汁を取る。そうやって作った味噌汁は海の味がした。味噌汁はそうやって作るものだとばかり思って雅弘にも母直伝の味噌汁を作って出したら、魚臭いと不評を買った。何も言わずに細粒の出汁を使って作った味噌汁はうまいと絶賛された。料理に手間をかけなくなるとともに、愛情も薄れていったのかもしれない。


「青味が足りないね」

 食卓には、栗ごはんにキノコの味噌汁、鮭の塩焼き、ちくわとぜんまいの煮物が並んでいた。食欲をそそられはするが、茶色の服に茶色の靴をあわせているようなものだから、センスがないと一刀両断されるような彩の悪さである。

「この季節、葉物はなかなかないわねえ。あ、キュウリの糠漬けならあるわよ。食べる?」

「うん」

 母は用意するからと言って台所に引っ込んだ。

 涼子はいただきますと言って両手を合わせ、味噌汁に口をつけた。海の味がする。体だけでなく、気持ちまであたたまっていく。

「おいしいでしょ、その栗。お向かいの野山さんからいただいたの。週末に栗拾いに行ったんですって」

 糠漬けを手に、母がむかいの席に座った。ちゃっかり自分の分も用意していて、お茶うけに糠漬けをかじっていた。父はすでに二階の寝室にあがっていた。年寄りの夜は早い。夕食はとうに済ませてあり、涼子の顔を見て二階にあがるのがもうひとつの父の習慣だ。母の習慣は、夕食をとる涼子とおしゃべりに耽ることだ。

 誠はソファーでうたた寝をしていた。母がかけてくれたブランケットが規則正しく上下に波打っていた。

「たくさんあるから、明日は渋皮煮を作ってみようかしら。キュウリ、どう? ちゃんとつかってる?」

「ちょっと浅いけど、これはこれでおいしいと思う」

「塩分控えたからね」

「塩控えると雑菌が増えるよ」

「そうはいっても、ほら、お母さん、高血圧だから」

 父も母も年を取った。つくづく涼子はそう思う。父は白髪頭になり、母も染めてはいるが生え際に白いものが目立ち、髪そのものにもはりがすっかりなくなってしまった。

 食卓の話題も健康に関するものが多くなった。涼子は専門学校で得てきた知識を母に披露する。塩分や糖分の話は、父や母の健康状態にも関係あることで、母はおもしろがって涼子の話を聞く。調理実習で教えてもらった料理を、家で一緒に作ることもある。

 母と並んで台所にたつと、まるで娘時代にかえったような錯覚に陥る。それは母も同じなようで、はじめは家事を半分は手伝えと言っていたのに、この頃では勉強が忙しいでしょうと言ってせっせと涼子の面倒をみている。いくつになっても、結婚して離婚して、子どもがいようとも、父と母にとって涼子は娘でしかなかった。

「そうそう、角の魚屋さんとこの辰雄ちゃん、今度結婚するんだって」

「へえ、タッちゃんが」

 タッちゃんこと藤山辰雄は、近くの商店街にある魚屋の息子で、涼子とは隣に一軒家を隔てたご近所だ。小学校、中学校までは同じ学校に通ったが、市内の高校に進学した涼子に対し、タッちゃんは地元の高校に進学し、卒業後は魚屋を手伝っている。

「お相手は、お店の手伝いをしている女の子なんですって。商売のこともわかってくれてる人だからいいんじゃないのかしらねえ」

 母はまるで自分の息子が結婚するかのように目を細めて喜んでいた。

 結婚します、結婚しました、そんな知らせが最近多くなってきた。三十一歳、昔なら遅いくらいだが、今は、適齢期といってもいいかもしれない。むしろ早いくらいで、昔の職場の同期はまだ誰も結婚していない。

 結婚は早い方だった。短大を卒業し、家電メーカーの事務職に就いた。仕事にも慣れてきた三年目、同じ営業部に勤めていた雅弘と付き合い始め、一年後に結婚した。誠が生まれたのは結婚して三年後だった。

 涼子が結婚、出産、育児、離婚と目まぐるしく動きまわっている間、他の人間は人生のトラックをゆっくりした速度で走っていた。彼らを周回遅れにしたつもりでいた涼子だったが、独身という意味では今や彼らと並んで走っている。しかしそれは見た目だけで実際には涼子はいつの間にか周回遅れにされていた。人生を軽やかに駆け抜けていく彼らに追いつくには、涼子は倍以上のスピードを上げなければならない。その上、就職、再婚といったハードルも飛び越えていかなければならない。追いつくどころか、脱落するのではないかと不安に陥ることすらある。就職というハードルをはたして乗り越えられるのかどうか。

「ベッドでねんねしようね」

 ぐずる誠を抱えて、涼子は二階の寝室にあがった。結婚していた時から、誠を寝かしつけるのは涼子の役目だった。離婚しても誠との生活に変化はない。雅弘は物理的に存在はしていたが、涼子にも誠にも積極的に関わってこようとしない雅弘はいないも同然だった。

 涼子は誠の丸く盛り上がった腹を規則正しく叩きながら、その寝顔を見つめた。心臓の動きにあわせたリズムを体に感じていると安心して眠くなるらしく、腹を叩いていると誠はすぐに寝入ってしまう。叩いている涼子もまた、気持ちが穏やかになる。何がなんでもこの腹を満たし続けよう。そんな強い気持ちが体の奥底からふつふつと湧いてくるのだった。

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