第3話

 栄養士の資格を得るには、大学や短大、専門学校といった施設で必要となる勉強をしなければならない。卒業と同時に資格は取得できる。一日も早く就職したい涼子は、専門学校の二年制を選んだ。最初の一年は、体と栄養の関係、公衆衛生などの基礎分野を学ぶ。二年目には栄養について専門的な知識を勉強する。

 授業は朝早くから始まって夕方に終わる。忙しいスケジュールをぬってアルバイトをしているクラスメートもいて、涼子もパートでもしようかと考えたが、いざ学校に通い始めてみれば勉強だけで手一杯だった。往復二時間の通学時間を勉強にあてても授業についていくのがやっとである。秋が深まるにつれ次第に夜遅い時間まで学校の図書館に残って勉強することが多くなっていった。

 二週間後に試験を控えたある日、涼子はいつものように図書館に引きこもっていた。

「遠藤さん」

 声をかけてきたのは大木克弥だった。学生には高校をでたばかりの若者が多い。二十代、三十代だろうと思われる年代の学生もいるが、少数派だ。学生のほとんどは女性で、涼子のクラスには男性の学生は三人しかいない。そのうち二人は少年の面影を色濃く残しているが、残る一人、二十代の青年が克弥だった。

 人懐っこい性格なのか、克弥は年の差を気にすることなく誰にでも声をかけては親しくしていた。他の生徒たちとは距離を置いていた涼子だが、年が近いせいもあって、大木克弥とは気軽に口をきけた。涼子は克弥を二十七、八ぐらいに思っていて、克弥の方は涼子を自分と同じ年、二十五だと思っていたと後で知った。

「試験勉強? 俺もそろそろ勉強はじめないとまずいかな」

「まだ二週間もあるじゃん。余裕、余裕」

 克弥と涼子の間に割り込むようにして顔を見せたのはクラスメートの長友由紀だった。

「試験勉強なんて一週間あれば十分でしょ」

 そう言って由紀と笑顔を交わしたのは、山谷恵美だった。

 夏以降、克弥には由紀と恵美がまとわりついていた。華奢な体つきで大きな目をした人形のような恵美に、ショートカットで健康美あふれる由紀。タイプのまるで違う二人だが、ともに美女である。

 三人はそのまま、立ち話を始めた。勉強したい涼子には、彼らの世間話が耳障りで仕方なかった。これなら、家に帰って誠の相手をしながら勉強する方がましだ。バスのある時間かどうか時計を確かめたとたん、美恵が叫んだ。

「やだ、バイトの時間!」

 美恵は慌てて腕に抱えていた教科書をカバンに投げ入れ始めた。

「大木さん、バイト先まで送ってもらえる?」

 美恵が上目づかいで克弥をうかがっていた。

「私も送ってもらってもいい? うち、美恵のバイト先と同じ方向だから」

 由紀も手にしていたプリントをそそくさとカバンにしまい始めた。

「いいよ」

 克弥の返事は気前よかった。克弥は車で通ってきていた。

「遠藤さんは? よかったら送っていくけど」

 克弥はその場で涼子を待っていた。机の上に広げられたままの教科書とノートを書片づける様子もなく涼子は言った。

「私はもう少し勉強していくから」

「そう。じゃ、また明日」

 リュックを背に、克弥はすでに先を行く恵美と由紀のもとへとかけていった。これでやっと勉強できると、涼子は大きく息を吸いこみ、教科書の海へと潜っていった。

 克弥たちが去ってからどれくらいの時間が経ったのだろう、肩をもみながら首をまわしていて見えた外の景色はすっかり暗闇に包まれていた。走れば七時のバスに間に合うと時計を見て確認し、誠は起きて待っていてくれるだろうかと思いながら荷物をまとめ始めた時だった。机の横に誰かが立った。

「やっぱり、まだ残ってた」

 克弥は、机の上にあった涼子のペンケースを手に取って渡した。

「帰るとこ?」

「そう。急がないとバスに乗り遅れちゃう」

 涼子は克弥から受け取ったペンケースをリュックにしまった。

「美恵ちゃんたちは?」

「ちゃんと送ってきましたよ」

「そのまま家に帰らなかったの?」

「帰ってもよかったんだけど――」

「私、バスの時間があるから、もう行くわね」

 リュックをつかんで立ち去ろうとする涼子の腕に克弥が触れた。

「バスだと一時間かかるって言ってたよね。車ならすぐだから、送るよ」

 そのまま、連行されるかのような格好で涼子は駐車場まで連れていかれ、克弥の車に押し込められてしまった。助手席にはほんのりと甘い空気が居座っていた。美恵のつけている香水の香りだ。

「道、わかります?」

 運転席に乗り込んできた克弥が顔をぐいと近づけるようにして尋ねた。

 涼子は首を横にふった。

「ごめんなさい、車運転しないから分からないの」

「いいや、ナビに頼るから。住所、教えて」

 涼子は住所を告げ、克弥はナビに言われたままの番地を入力した。

 エンジンがかかり、車はすべるように走り出していった。

 駐車場を出、市内の中心地へと車がむかうと、見慣れた景色が車窓を流れていった。どうやらバスと同じ道を走っているらしい。通い慣れたバス停の並ぶ道路をしばらく走った後、バスなら左折する場所を、涼子を乗せた車は直進し続けた。

「最近、図書館で夜遅くまで勉強してるよね」

「試験も近いし。もう若くないから、若い人の三倍は勉強しないと頭に入らないの」

「わかるなあ。若い時は一夜漬けでも何とかなったけど、今はそうはいかないんだよね」

 克弥は声をたてて笑った。自虐的な言い草とは裏腹に、明るい笑い声だった。涼子は男性の笑い声を聞くのが好きで、特に屈託のない無邪気な笑い声が好きだった。克弥の笑い声は、涼子の耳を喜ばせた。

「何で栄養士の勉強してんの?」

 密室の距離感がそうさせるのか、いつの間にか、克弥は軽い口をきくようになっていた。

「食べるのが好きだから」

 シングルマザーとして子どもを育てていくには専門職の資格があったほうがいいからという理由の九割は伏せた。年齢からして一目瞭然だろうと社会人であったことはクラスメートにも克弥にも話してあったが、離婚歴と子どもについては誰にも言っていなかったし、言うつもりもなかった。

「大木君は?」

「俺?」

「男性の学生って珍しいから」

「そうなんだよね。周りはみんな女の子ばっかりで、今、人生で一番もててる」

 克弥は照れ臭そうな微笑みを浮かべた。男が少ない環境だからもてるのだろうと克弥は言うが、それは謙遜だった。閉ざされた環境でなくても克弥は十分魅力的だ。

 優に190センチはあるだろうというほど背が高く、スポーツをしているらしくがっしりとした体格をしていた。異国情緒を漂わせる彫りの深い顔立ちで、大人の男性としての固さが見えつつも、時折みせる笑顔は小動物のような愛くるしさがあった。

「俺、ジムでインストラクターをしてたんだ」

「ああ、それで……」

 いい体をしているんだと続けそうになり、涼子は慌てて両手で口を覆った。

「なに?」

「なんでもない」

 “いい体”という言い方にはエロティックな響きがあって、口にするのはためらわれた。

「マシーンを使って体を鍛えているうちに、そもそも体を作っている食べ物に興味がわいてきてさ、栄養の勉強でもしてみるかって」

「卒業したら栄養士として働く気はないの?」

「ないなあ。体を鍛えることだけじゃなくて、栄養の面からもアドバイスできるような、そんなインストラクターを目指してる」

「ふうん」

 涼子は目を細めた。対向車のライトがまぶしかったせいではない。まぶしいのは、克弥そのものだった。彼の若さと、将来への揺るぎない確信とは真昼の太陽のように光輝いていた。

 窓の外の景色にバス停が目立ち始めた。どうやら再びバスの路線を走っているらしい。バス停がひとつまたひとつと過ぎて家に近づいていくにつれ、現実が涼子の胸に迫ってきた。バツイチ、子持ち、シングルマザー、就職、子育て……克弥の車に乗せられた瞬間から忘れていたそれらが涼子の体をピンクッションにして次々と突き刺さってきた。バス停たちを見送りながら、涼子は克弥がこのまま走り続けていってくれたらと秘かに祈った。車窓を過ぎ去るバス停たちのように、現実も前から後ろへと流れていってくれたらいいのに。

 だが、克弥の車のナビは非情にも涼子の家の前まで涼子たちを導いた。車を停めるなり、克弥は運転席を降り、助手席のドアを開けた。美恵たちにもそうしているのだろう、慣れた身のこなしだった。

「送ってくれてどうもありがとう」

 助手席の窓にむかってかがみこみ、涼子は運転席の克弥にむかって礼を言った。

「それじゃ、今度こそ、また明日」

 克弥の車が去っていくのを名残惜しげに見送りながら、涼子はふと、克弥は涼子を送るつもりで図書館に引き返してきたのではないかという考えを抱いた。その考えは、涼子を甘ったるい気持ちにさせた。克弥の車のテールランプと、近くでみた克弥の瞳とが重なった。大きな潤んだ瞳だった

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