第4話

「ママ!」

 克弥の車が完全に視界から消えてなくなるのを確認してから玄関のドアを開けると、パジャマ姿の誠が転がり出てきた。

「ごめんね、遅くなっちゃったね。さびしかったね」

 涼子は誠を抱き上げ、玄関を上がった。誠は涼子の胸にすがるように抱きついて離れなかった。シャンプーのかおりにまじって、ミルク風味のやわらかい誠の体臭が鼻先をくすぐった。

「マコちゃん、いいにおいがする」

 涼子は誠の首筋に顔をうずめた。鼻を鳴らして誠のにおいを嗅ぐと、誠はくすぐったいと身をよじらせ、声をたてて笑った。

「おかえり。今日は遅かったね」

 居間に入っていくと、エプロンで両手をふきながら母が台所から顔を出した。あたためられた味噌汁のにおいが漂ってきた。

「車の音がしたけど、送ってもらったの?」

「うん、学校の友達」

「男の人?」

 母はさぐるような目をしていた。涼子は何気ないそぶりで「そう」と簡単に言い、誠をソファーにおろした。

「気をつけなさいね。男の人に車で送ってもらうなんて、いい年の出戻り娘が子どもをほったらかして男と遊んでいるっていう風に近所の人に噂されるわよ」

 母は涼子の遅い夕食の支度を済ませると、誠の手を引いて二階の寝室へと上がっていった。

 レンジであたためた鯵フライをつついていると、誠を寝かしつけた母が食卓へと戻ってきた。とたんに体が硬くなった。ただ送ってもらっただけだというのに、まるで親に顔向けできないようなことをしてきたような罪悪感が胸をかすめた。

 涼子の向いの椅子に座った母は、食卓の上に一枚の葉書を差し出した。それは中学の同窓会の案内だった。ちらっと見ただけで、涼子は手にも取ろうとせず、黙々と食事を続けた。

「今朝届いていたの。行くでしょ、同窓会」

 涼子は母にむかって黙って首を横に振った。

「どうして? 行ってらっしゃいよ。誠の面倒ならみておくわよ」

 涼子は再び、案内の葉書に目を落とした。書面には2か月後の土曜日の日付、夕方の時間が印刷されていた。

「誠の面倒みてくれるのはありがたいけど、勉強しないといけないし」

 試験も終わってひと段落ついているだろう時期だから、机にかじりついていないといけないわけではない。むしろ一息入れたいくらいだが、同窓会への出席にはなぜか気のりがしなかった。

「勉強も大事だろうけど、同窓会に出てコネを作っておくのも大事なのじゃない? こっちで就職しようと思ったら、地元にコネをもっていないとね。小さな町なんだから、仕事なんてそうはないし、あっても、口利きで知り合いに回っていくものなのよ。あなたは東京で就職しちゃって、こっちの人間関係は薄くなっているんだから、仕事を探すのには不利なのよ。同窓会にでも出て、こっちにいる人たちに声かけて、『何かあったら連絡ちょうだい』とでも粉をかけておいたほうがいいわよ」

 淡々とした母の口調がかえって耳に痛かった。母の言い分はまったくもって正しい。口に食べ物が入っていなかったとしても涼子は黙って聞くしかなかった。

 まずは資格を取ることに専念しよう、就職は卒業してからのことだと安穏としていたが、二年の学生生活のうち、一年目が終わろうとしている。ただでさえ、就職困難と言われているこの頃だというのに、涼子の場合、バツイチ、子持ち、三十過ぎとハンディキャップを二重にも三重にも抱えている。資格さえ取ってしまえば就職は何とかなるだろうと軽い気持ちでいたが、母の言葉に気が重くなった。単位さえ取ってしまえば栄養士の資格は与えられる。だが、資格があるからといって、確実に就職できるとは限らない。地元で就職しようと思ったら、就職先をリストアップしておくといった準備ぐらいは今からでもしておかないといけないだろう。だが、そもそも地元で就職するのか、仕事は東京へ戻って探すのか、それすらも涼子は考えていなかった。教科書に顔をうずめて現実から目をそらす涼子にむかって、現実の方がスピードをあげてむかってきていた。

「就職、こっちでするのよね?」

 母が涼子の顔をのぞきこんだ。噛めば噛むほど甘くなるはずの米は味も形も失って、胃の底へと流れ落ちていった。

「わからない」

「わからないって……。また東京へ戻るの?」

「東京の方が仕事はあると思う」

「それはそうだろうけど……」

 さびしげな母の口ぶりだった。夫婦二人で静かに暮らしていたところに涼子と誠が戻ってきて賑やかになった生活を手放したくはないのだろう。戻ってきたばかりの頃、年老いた母の姿に少なからず衝撃を受けたが、涼子や誠の世話を焼いているうちに母はかつての生気を取り戻しつつあった。

「働きながら誠の世話をするのは、一人だと大変なのじゃない?」

「保育園もあるし。それは何とかなると思う」

「でも空きがないってニュースや新聞でよく言ってるわよ」

 これには反論できなかった。もともと、誠を預けられないことがきっかけで実家に出戻ってきたのだ。

「お父さんもお母さんも、今のところまだ元気だし、誠の面倒ぐらいなら見てあげられるわよ」

「東京に戻るか、こっちに残るかはまだ何も考えていないから」

 涼子は苛々とした口調で言い捨てた。焦りと苛立ちとがこみ上げて食欲がなくなったので、食器を手に台所へとむかった。

「就職のことを考えるのはまだ早いかもしれないけど、誠のこともあるんだし、考えないといけないことはたくさんあるのよ」

 食器を洗う涼子の背中にむかって母が言った。責めるような口調ではなく、むしろ諭すような優しい言い方だというのに、一言一言が重くのしかかってくる。涼子は母の声をかき消すようにわざと音をたてて食器を洗った。

「お父さんもお母さんも、いつまでも若いわけじゃないし、自分の将来について、きちんと考えなさいね」

 若いのかもう若くないのか、矛盾する母の言葉を右から左に聞き流し、涼子は洗い物を拭き、食器棚へと戻した。

「同窓会、いってらっしゃい。いいわね」

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