キャッチアップ
あじろ けい
第1話
視線は感じるものらしい。
それも痛く、熱く。
頬から顎、首筋から胸元へと男の視線は滑り落ちていく。男に見られている間中、涼子はまるで絵のモデルをしているかのように、窓の外を見つめるというポーズをとり続ける。
信号が青に変わり、バスは再び走り始めた。車窓を、見慣れた景色が流れ去っていく。
見られていると気づいたのは、つい一か月前だ。いつものようにバスに揺られながら膝の上に広げた教科書を読みふけっていると、額を何かが這っているような感触があった。虫かと思い、顔をあげると、男の視線とかち合った。
視線の主はバスの運転手だった。バックミラー越しに涼子と目が合うと運転手の男は慌てて視線を逸らした。はじめはただの偶然だと思っていた。火曜日、夕方五時のバスに乗る時に限ってと、偶然が重なるにつれ、見られていると気づいた。
女を求める時の男の目。強い眼差しだけれど、どこかに甘ったるさのある視線。見られる者をがんじがらめにし、蕩かしてしまう。
三十過ぎでもまだ女として意識してもらえるものなのだなと、みぞおちのあたりがくすぐったくなった。まばらな乗客には年寄りの姿が目立つ。この町では涼子はまだ若いうちに入る。
涼子の生まれ育った町は小京都と称えられる。古くは江戸時代からの町並みが続き、近隣には歴史ある神社・仏閣が点在する。訪れるには趣のある町だが、住む者には重苦しさがある。
時の止まったような黴臭いこの町が、涼子は嫌いだった。いつまで経っても変わらない町並み、そこに住む変わり映えのしない人々。時間の澱みに堪えられず、短大進学を機に涼子は町を飛び出した。
東京では、人も時間も速足で駆け抜けていく。わずらわしさを感じたならば、ヤドカリのように貝を変えればいい。住む場所だったり、付き合う人間だったり、時には自分というものでさえも、風に吹かれるままに変えた。卒業後も地元には帰らず、東京で就職し、東京の人間と結婚した。
実家まで電車でわずか数時間だというのに、涼子は上京以来、足を向けようとはしなかった。盆暮れであっても何かと理由をつけて帰郷を拒否し、結婚の挨拶をしにはさすがに戻ったが、滞在はわずか数時間だった。郷愁の思いなど沸くはずもなく、感じたのは息苦しさだけだった。心まで黴てしまいそうな田舎特有の風通しの悪さに身震いするほどの嫌悪感を覚え、涼子はそそくさと故郷を後にした。出産の時も、頑として実家には戻ろうとしなかった。
ちょうど一年前の今頃、季節が秋めいてくる時期だった。離婚した涼子は誠を連れて実家に戻ってきた。上京以来、十年余りの歳月が経っていた。
離婚の原因は雅弘の浮気だった。離婚はしたくないという雅弘と何度も話し合いを重ね、ようやく去年の春に離婚が成立した。二歳になったばかりだった誠は涼子が引き取った。
誠とふたりで生きていく、女ひとりでも立派に育ててみせると意気込んでいた涼子はすぐに現実の分厚い壁にぶつかった。仕事をしようと思えば誠の面倒を誰かにみていてもらわなければならない。だが、仕事をしているなどの理由がない限り、保育園は子どもを優先的に預かってはくれなかった。幼い子どもを抱えていては就職活動すらままならなかった。結婚後半年で仕事を辞めてしまい、その後は専業主婦に甘んじていたから、ろくなキャリアも積んでいなかった。たちまち涼子は行き詰った。
誠が幼いうちは、レジ打ちのパートなどで何とかやりくりできるだろうが、大学へ進学させようとなると目もくらむような金が必要になる。結婚していた時には当たり前のように考えていた誠の進路が、現実の壁の向こうへと消えてしまった。
自分が甘かった。夫の浮気に腹を立て、感情的に離婚を選択してしまった。もっと真剣に現実をとらえ、計画的に離婚を押し進めるのだったと後悔しても後の祭りだった。
涼子は実家の両親に頭を下げ、就職に役立つ資格を取るからそれまでの間、親子ともども面倒をみてくれと頼み込んだ。父は快諾したが、母は渋い顔をした。それでも孫の誠かわいさに結局は涼子たちを受け入れてくれた。
この春からは、栄養士専門学校に通っている。食べることも料理も好きだからと栄養士の資格を取ることにしたのだ。
栄養士専門学校は、実家からバスで一時間の市内中心部にある。往復にかかる二時間は貴重な勉強時間だ。家に帰れば、誠の世話で勉強どころではない。バスに乗るなり、膝の上に教科書をひろげ、脇目もふらずに読み耽る。そんな生活を続けて半年近くになろうとしている。
信号待ちのたびに、運転手の男はバックミラー越しに涼子を見つめていた。見るだけである。声をかけてくるわけでもない。もう少し若かったら気味悪く思っただろうが、酸いも甘いも噛み分ける今は、男に見られるという甘さだけを啜り、心地よく酔うことにしている。
それにしてもどんな男なのだろう。
ふと気になった。見られるばかりで、涼子は視線の主を知らない。運転手だということはわかっているが、バスを乗る時も降りる時も、運転手の顔をいちいち確かめたりなどしない。
涼子は窓に向けていた顔を正面に戻した。視線の先にバックミラーがあった。運転席からこちらが見えるのなら、こちらから運転席にいる人間が見えるはずだ。運転中なら前を向いているから気づかれまい。涼子は大胆にも席から身を乗り出して運転手の顔をうかがった。
黒々とした眉に大きな瞳、鼻筋の通った大き目の鼻が顔の中心に居座っている。ふっくらと厚みのある唇は富士山を彷彿とさせる優雅な佇まいで、口を閉じていても微笑みを浮かべているように見えた。髪は、坊主頭とまでは言わないにしろ、短く刈り込んであった。
見とれるほど良いわけでもなく、かといって目を背けたくなるほど悪い顔というわけでもない。特に特徴らしい特徴もない、次に会っても初対面だと思って挨拶してしまいそうな平凡な三十男の顔に、涼子は見覚えがあった。
だが、記憶の引き出しから出てきた男の顔には名前というラベルがついていなかった。はがれてしまったのか、はじめからついていなかったのか。
誰ともわからない運転手の顔をぶしつけに眺めまわしていると、バックミラー越しに運転手と目があった。静電気の弾けるような軽い刺激がこめかみを走る。
涼子は慌てて首を折り、膝の上の教科書を読むふりをした。
いつの間にやらバスは交差点でエンジンをかけたまま停まっていた。信号が青に変わると、バスは再び走りだした。
涼子は教科書を読むふりで、その端から目だけを突き出して運転席をみやった。運転手は正面を向いて、運転に集中している。
見られていたと気づかれただろうか――
怒りのようなマイナスの感情は感じられなかった。それどころかプラスの、慈しむような、懐かしむような感情を、涼子は目のあった一瞬のうちに感じとっていた。
知り合いだろうか。三十過ぎと年頃も近い。小学校か中学校か、ひょっとしたら高校の同級生といったところか。親の仕事を継いだり、地元で就職したりと町に残っている同級生たちは少なくない。
それにしても、見覚えのある顔なのに何故誰であるかが思い出せないのだろう。
目は教科書の字を追いながら、脳は記憶の整理にせいを出していた。
バスは走り続ける。
そもそも知り合いなどではないのかもしれない。芸能人かスポーツ選手に似ている、案外そんな簡単なことだったりするのかもしれない。
バスが停まった。信号が赤なのだろう。視線を額に感じる。
車体は小刻みに揺れていた。ずいぶんと長い信号だ。
信号待ちにしては停車している時間が長すぎる。
どうしたのだろうかと窓の外を見たのと、声をかけられたのとが同時だった。
「小原さん、ここ、降りるとこだよ」
バスは、家の近くのバス停の前で停まっていた。隣の席においたリュックをひっつかむなり、教科書を胸に抱え、涼子はバスを飛び下りた。
背後でドアが閉まり、バスは走り去っていった。
声をかけてもらわなければ終点まで乗り過ごしてしまうところだった。
それにしても声をかけてくれたのは誰だったのだろう。乗客の誰かだったのだろうか。しかし、終点近くとあって、客はそうは残っていなかったはずだ。下手したら涼子が最後の客だったかもしれない。
“小原さん”
男の声だった。そして呼びかけられた名前は、涼子の旧姓だった。
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