第9話
「そういうことかよ」
開口一番、克弥は吐き捨てた。
「そういう事って何」
「ごまかすなよ。他の男と遊んでたんだろ」
克弥の語気が一層荒くなった。涼子はケータイを耳から遠ざけた。祭りから戻って誠を寝かしつけるなり、克弥に電話をかけた。すぐには繋がらず、夜中近くになってやっと電話に出たかと思ったら、克弥は真っ先に自分の怒りをぶつけてきた。
会って話そうかと思っていたが、考え直してケータイを手にしてよかったと胸をなでおろした。同じ部屋で寝ている誠を起こさないようにと静かに話そうとする分、冷静でいられる気がする。疲れが出たのか、誠は少し熱を出していた。
「中学の時の同級生だって言ったじゃないの」
祭りの会場のはずれで出くわした克弥に修一を紹介した時と同じ台詞を繰り返した。言い訳でも何でもなく、修一は元同級生でしかない。
「どうだかな」
「そっちこそ、どうなの? 恵美ちゃんと付き合ってるの?」
克弥は山谷恵美を連れていた。涼子たちに気づいたのは恵美が先で、声をかけてきたのも恵美だった。涼子は、修一に、学校のクラスメートだと言って二人を紹介した。
「祭りに誘われただけだって。何もないよ」
どこかで聞いたことのある台詞た。顔色はうかがい知れないが、面と向かって話していたのなら克弥は涼子とは目を合わせようとしなかっただろう。
浮気を問いただした時、雅弘は誘われて食事に行っただけと言い、あらぬ方向に目をむけていた。はじめのうちこそ関係を否定してみせた雅弘だったが、そのうちに開き直った。
雅弘の浮気相手は、部下の女だった。雅弘が結婚していると知っていながら雅弘に近づいた。雅弘の主張するように女から誘ってきたのだとしても、断るべきだった。それなのに雅弘は女の誘いを受けた。断ることができなかったのではなく、断らなかった。女を拒否する意思がなかったのだ。その時、涼子は誠を妊娠中だった。
「俺、涼子とのこと、真面目に考えてた――」
うってかわったように克弥はしんみりとした口調になった。
「真面目にって何」
「涼子の子どものこととかもちゃんと考えてたんだ」
思わず吹き出しそうになり、涼子は口を押えた。芝居をするならもっとうまくやってもらいたいものだ。
「いつか涼子の子どもにも会いたいって思ってたし。将来のことも俺なりに考えてたんだ」
克弥は言外に結婚をにおわせた。逃げていきそうな女を引き止めようとして思いついた策だろうが、子持ちの女なら結婚を軽々しくは口にしないだろうと踏んで涼子と付き合っていた克弥にその意思はないだろう。
バカにしている。今度は怒鳴りつけたい気持ちを抑えようと口を覆った。寝返りをうった拍子にずれた誠の毛布をかけなおす。熱が下がらないようで、誠は苦しそうな寝顔だった。
「将来って結婚するってこと?」
克弥は返事をごまかした。
「私と結婚するということがどういうことかわかってる? 私の子どもの父親になるってことでもあるのよ。父親になるってどういうことかわかってるの?」
低く押し殺した声で、涼子は矢継ぎ早にまくしたてた。
「あいつは、わかってるっていうのかよ」
ふてくされたように克弥がつぶやいた。
「肩車なんかしちゃってさ。仲のいい親子みたいだった。子どもも懐いているみたいだったし」
「彼はただの幼なじみだって何回――」
「父親、父親っていうけどさ、そっちは母親としてどうなの。ちゃんと母親らしいことしてやってんのかよ。朝から晩まで学校通いで、空いた時間は男と遊んでてさ」
克弥が目の前にいたら頬を張るぐらいはしていただろう。電話を切ってからも胸のむかつきがおさまらなかった。
誠の熱は翌朝になってもひかなかった。発疹があったので、医者へ連れて行ってくれと母に頼み、朝一番に診察券だけを置いて自分は学校へとむかった。その日から前期の試験が始まる予定になっていた。
「誠くん、どう?」
帰りは修一の運転するバスだった。
「発疹が出たから、今朝、母に頼んで近くのお医者さまに診てもらってる」
「発疹か。もしかしたらはしかかな」
「初めてのお祭りで、疲れたんだと思う。子どもってちょっとしたことで熱を出すから」
「お大事に」
修一と別れ、家路を急いだ。いつもなら転がり出てくる誠の出迎えがないのをさびしく思いながら玄関をあがった。
「ただいま。誠は?」
靴をそろえるのももどかしく、涼子はバタバタと居間にむかった。
「お薬飲んで、今寝てるわよ」
涼子の夕食の準備をしている母が台所から顔をのぞかせた。生姜の匂いが強く鼻をつく。
「ちょっと顔みてくる」
「すぐ夕飯だからね」
誠の寝ている布団のすぐ脇に座り、起こさないようそっと誠の額に手を当てた。薬が効いているのか、昨日よりは熱が下がっているようだ。布団のはじからはみ出している手を布団の下にそっと戻してやる。熱のせいでむくんだ手の甲にはポツポツと赤い斑点が浮いていた。
「お医者さまは何て?」
生姜焼きを口に運びながら、涼子は母に報告を求めた。
「はしかだろうって言うんだけどね……」
母は奥歯に物の挟まったような言い方をした。
「他に何があるの?」
「なんだかねえ、今度の熱はいつもと違う気がするのよ」
誠はよく熱を出した。はしゃぎすぎた疲れが出たり、走り回っていたと思ったら突然電池が切れたように動かなくなったりするが、大抵は翌日にはケロリとしている。誠が熱を出すたびにオロオロする涼子に対し、母は子どもはよく熱を出すものだと言ってゆったり構えていた。その母が、そわそわと落ち着きがない。
母の微かな不安が伝染し、食欲のなくなった涼子は箸を置いた。
「お医者さまがはしかって言うんだから間違いないでしょ」
「そうよねえ……」
母の不安は的中し、夜中近くになって誠は高熱を出した。全身にひろがった発疹をかきむしりながら転げまわり、布団のシーツは血だらけになった。涼子は両親を叩き起こし、父の運転する車で市内の総合病院の救急に駆け込んだ。
当直医は若い男性だった。誠を見るなり、川崎病の疑いがあると言った。聞き慣れない病名だった。医者は簡単に病気と治療法について説明した。ぼんやりした頭で、血管が炎症を起こす病気であること、心臓の血管に異常が発生した場合には命の危険があること、後遺症の残る可能性があることなどを聞いていた。
その後は、いろいろな書類にサインさせられた。入院手続きの書類、治療に血液製剤を使うので同意書など。そのたびに説明を聞かされたが、細かい点は何ひとつ理解できずに言われるままにペンを走らせた。
誠と付き添いの涼子の着替えや必要なものを母に持ってきてもらい、ようやく一息ついた頃には午前三時を過ぎていた。
身も心も疲れきっているはずなのに、涼子は寝付けなかった。
医者への不信感はぬぐえない。はしかだと思っていたのが川崎病と言われたのだ。川崎病と言われたのがはしかかもしれない。医者も人間である以上、間違いを犯す。ならば、二度目の診断こそが間違いであってほしい。
涼子は当直医にむかって「はしかじゃないんですか」とくってかかった。簡単に聞いた説明だけでも、川崎病がはしかより重い病気だとはわかったからで、はしかであってくれと祈るような気持ちもあった。
点滴をされながら眠る誠を横目に、涼子はケータイのスイッチを入れた。暗闇の中で光を放つスクリーンの向こうに希望を求める。
インターネットの世界に氾濫している情報は、医者から聞いたものとほぼ同じだった。高熱、発疹、手足のむくみ、イチゴ舌と言われる真っ赤になった舌……誠の症状も川崎病に特有のもので、誤診の可能性はなくなった。
夜明けまでには、川崎病について一通りのことは知り尽くしてしまった。川崎病とは、地名の川崎とは何の関係もなく、発見者の川崎博士の名をとってつけられたこと。発見されたのは比較的最近で、幼い子どもに多くみられる病気であること。当直医の言った通り、何らかの原因で(原因についてはいまだ解明されていない)全身の血管が炎症を起こしてしまうこと、そのため動脈硬化などを起こしやすく、心筋梗塞を起こせば死に至る場合もあること。
「死」という字を見た瞬間、全身から血の気が引いていった。誠を失うかもしれないと思うといてもたってもいられなくなり、誠の枕もとに顔をよせ、においを嗅いだ。皮脂のにおいがいつもより強い。二日も風呂を使えなかったからだ。
祭りではしゃいでいた二日前がずい分と昔のように感じられる。あんなに元気だったのに、死んでしまうなんてことがあるのだろうか。
熱を出したその日のうちに医者に診てもらっていれば、その分治療も早く開始できたはずだった。
克弥の声がよみがえる。
最低な母親だな――
克弥と遊んでばかりいたから、誠が目に入っていなかった。面倒を見ていた母は、誠の発熱がいつもとは違うと気づいたではないか。
自分は母親失格だ――
涼子は声を殺して泣いた。
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