第6話

 白いシーツの上に投げ出された克弥の脚を眺めていると唾がこみあげてきた。ぷっくらとした脹脛はさぞかし食べごたえがあるだろう。窓から漏れ入る夕日はまるでオレンジソースのようだ。

 口の中にわいてきた唾を飲み込み、涼子は克弥の引き締まった足首をつかんで脹脛にかじりついた。甘噛みした歯に、肉が反発した。肌に触れた舌先が塩気を感じとり、肌の奥から香草のような青臭いにおいがたちのぼってきた。

「何してんだよ」

 目を覚ました克弥がすばやく脚を引いた。

「食べてるの」

「うまいか?」

「おいしいわ」

 何度か車で送ってもらううち、克弥とは体を重ねる関係になった。授業が終わった後の数時間を、涼子たちは克弥の部屋で過ごす。母には図書館で勉強していると言ってあった。

「セックスって、食べることに似ていると思わない?」

 脹脛から腿に移動し、涼子は甘噛みを続けた。克弥は呆れたように笑っていた。

「噛む、齧る、舐める、吸う……どちらの場合も口や舌を使うわ」 

 涼子は食べることが好きだ。ということはセックスが好きだということになる。セックスが好きだと言うのは憚られるが、嫌いではない。 

 嫌いではなかったが、克弥以前の男との交渉は儀礼的に済ませるだけで、味わうなど二の次だったように思う。

 初体験は十七の時で、相手は同級生だった。キスをして、胸に手が伸びてきて……と、マニュアルでも読んできたのかというような律儀な動きだった。そのくせ、いざとなると動物的でグロテスクでさえあったので、もう二度とセックスなんかするかと思ったほど、後味の悪い体験だった。

 セックスの味がどんなものか分かってきても、はしたない女に思われたくなくて、行儀のいいセックスばかりをしていた。味わうよりもテーブルマナーが気になる、そんなセックスだった。

 雅弘と結婚した後は、セックスは子どもを作るためだけの行為になった。手のこんだ食事をする必要はない、サプリメントでも摂っておけと言われたようなもので、味も何もあったものではなかった。

「何を食べたらこんな体が出来上がるの?」

 涼子は克弥の全身を眺めまわした。ジムのインストラクターをしていただけあって、肩も胸も腹も腕も、弾力のある筋肉で覆われている。

「そりゃ、やっぱり肉だよ」

「肉って一口に言ってもいろいろあるわよ。牛に豚に鶏肉でしょ、魚だって肉には違いないでしょ、魚肉っていうんだから」

「ヘリクツ。肉といったら、四足の肉だろ」

「鳥は足が二つしかないわ」

 口ではかなわないとみたのか、克弥は涼子の体をベッドに押し倒し、その口を手でふさいだ。

「牛肉、豚肉、鶏肉!」

 やっきになった克弥の言い方がおかしくて、涼子は克弥におさえられた手の下で笑った。

「タンパク質たっぷりってことね」

「野菜も食べたって。バランスが大事なんだよ」

「牛乳は? たくさん飲んだ?」

 涼子は克弥の厚い胸に頭を乗せ、足を摺り寄せた。爪先を思い切りのばしても克弥の膝頭までしか届かない。

「飲んだ、飲んだ。一日一リットルは軽く飲んだっけ」

「やっぱり牛乳を飲むと背が伸びるのかしら」

「カルシウムが豊富だからなあ。言ったら、骨の原材料を飲んでいるようなもんだし。でもさ、肉にしても何にしても、体の原材料を取り込むだけじゃだめなんだよ。運動も大事なんだ」

「今もジムに通ってるの?」

「学校に通うのでインストラクターの仕事は辞めたけど、ジムの連中とは今でも付き合いがあるから、たまにマシーンを使わせてもらってる。あとは、走ったり、家で腹筋したり、腕立てやったりってとこかな」

「前より、食べる物に気を遣うようになった?」

「なった。前はそれこそ肉ばっかだったけど」

「野菜も食べてたって言ったじゃない」

 涼子はすかさずちゃちゃを入れた。悔し紛れに、克弥は涼子の髪をくしゃくしゃともんだ。

「食べてたけど、何も考えないで食べてただけっていうか。今は、この野菜のこの栄養素が欲しいからとか、この野菜とこの野菜を組み合わせるとより一層必要な栄養素が取れるとか、調理の仕方によっては、栄養を倍摂取できるなとか、いろいろ考えるようになった」

「完璧じゃないの。食べるものも選んで、きちんと運動もするのなら、これ以上ない理想的な体が作れそうね」

 涼子は顔をあげ、キスをねだった。煙草は吸わない、酒もほとんど飲まないという克弥とのキスは、ウィスキーボンボンのように甘みと苦みがないまぜになった味がする。

「どうして男の人はおっぱいが好きなの?」

 胸に伸びてきた克弥の手を涼子は撥ね退けた。

「さあ。男の本能じゃない?」

「こんなもの、ただの脂肪なのにね」

 涼子は両手で乳房をすくいあげた。湿り気があって、手のひらにずしりとした重さを感じる。

「大きくしたいとは思わない?」

「中学、高校の時が一番大きかった。成長期だったのね」

「その頃会いたかった」

 胸に顔をうずめてきた克弥を、涼子はくすぐったいといっておしやった。

「子どもを産んだ直後も巨乳だった」

 笑いながらそう言ってから、しまったと涼子は唇を噛んだ。隠すつもりはなかったが、誠の存在については何となく言いそびれていた。

「子ども、いるんだ」

 克弥は笑顔を浮かべていた。

「子持ちだって知って引いた?」

「なんで引くの? 結婚してるわけじゃないだろ?」

 涼子は離婚していること、三歳になる誠は自分が引き取って育てていることなどを話して聞かせた。バツイチでシングルマザーだと知った克弥が涼子のもとを去っていってもいいという覚悟の上だった。

「そうか、それで学校通ってるのか」

「クラスの子たちには言わないで。別に知られても構わないことだけど、わざわざ言うことでもないと思うから」

「そりゃ、まあ、そうだ」

 誠がいると知っても、克弥の態度にあまり変化は見られなかった。子持ちでも付き合っていきたいという真剣な気持ちでいるのか、子持ちなら簡単には結婚とは言いださないだろうから遊び相手には好都合だと考えたのか、どちらとも涼子には判断がつかなかった。

「さっきのさ、食べることとセックスが同じっていうの、わかる気がする」

 そう言うと、克弥は首を折り曲げ、胸にもたれている涼子の顎をあげてその唇を激しく吸った。互いの舌が味わうかのようにもつれあう。

 涼子の唇を離れた克弥の口は、次に首筋に吸い付いた。涼子の腰を抱いていた手を引き、正面にむきなおったかと思うと、克弥は鎖骨のくぼみに唇を押し当て、そこから鎖骨に沿って甘噛みを続けていった。

「やめてったら。くすぐったい」

 笑い声をたてて身をよじる涼子の胸に、克弥が顔を埋めてきた。突き出された舌先が乳房を縦横無尽に這い、硬く尖った乳首が克弥の唇にそっと包み込まれると、涼子は喉の奥から息を漏らした。

 噛んで、舐めて、吸って……克弥の舌が涼子の体を味わい尽くす。涼子もまた、克弥の体を堪能する。味覚をつかさどる舌が、唇が、悦楽を生み出していく。

 克弥との関係に未来を求めてなどいない。ましてや克弥との間に子どもを作ろうなどと思ってもいない。それでも、涼子は克弥とセックスをする。繁殖のためではないセックス。だからこそ、味わい深く、心地いい。

 就職、子育て……尽きぬ不安は快楽の波にさらわれてどこかへと消え去っていった――。

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