第7話
間に合うかな――
バス停にむかって小走りにかけながら涼子は腕時計を確かめた。長針の先が12の間にかかっている。五時ちょうどのバスの時刻まで一分もない。このバスを逃すと、次は一時間後だ。つるべ落としの秋の日が落ちるとたちまち肌寒くなる。そんな中で一時間もバスを待ちたくはない。
涼子はスピードをあげた。走りながら腕時計に目をやる。針はさほど移動していない。時計に顔をむけるたびに足のスピードが落ちるので、時計を見ずに一目散にバス停へかけていった方がバスに間に合うのではないかと思うが、時計をにらみつければ時間が止まりそうな気がしてつい見てしまう。教科書のつまったリュックのせいもあって、思ったようにスピードがあがらない。
いつもなら、五時のバスに間に合うよう、授業が終わったらすぐに教室を出る。時間割では四時半に終わる予定だが、何だかんだで授業が終わるのは四時半を少し過ぎる。専門学校からバス停まではゆっくり歩いても十分とかからないから、ちょっとした買い物を済ませても余裕で間に合う。
しかし、今日は授業がいつも以上に長引いてしまった。栄養学のクラスで生徒が質問をした。涼子も気になっていた内容だったから耳を傾けているうちに、バスの時間が刻々と迫ってきてしまった。質問に対する講師の答えが長引くようなら諦めもついた。学校に残って次のバスの時間まで勉強でもするかと涼子はなかば覚悟を決めていた。誠の面倒は、母がみていてくれているから、今日は帰りが遅くなるとメールでもしておけばいい。
だが授業は、急げばバスに間に合うかもしれないという中途半端な時間に終わった。間に合うかどうか、走っていってみようと涼子は教室を勢いよく飛び出したのだった。
全力で走るのは何年ぶりだろう。日頃の運動不足がたたってすぐに息が切れ、足がもつれた。それでも気だけが急いた。
早足と小走りを繰り返しながらバス停近くまで来ると、停車しているバスの後部が視界に飛び込んできた。バスを待つ人の列がない。どうやら客の全員を乗せて今にも発車しようとするところらしい。
尽きかけていた体力をしぼりだし、涼子はバスにむかって駆け出した。背負ったリュックが背中を激しく叩いた。たちまち喉が渇いて、何度もつばを飲み込んだ。脇腹が刺されたように痛い。だが、バスを目の前にして乗り遅れるわけにはいかない。今日に限ってあの老婦人の姿が見あたらない。
その老婦人は五時のバスに乗り合わせる客のひとりで、バスに乗る直前までベンチに腰掛けていて、ショッピングカートを引きながら、列の最後尾につく。顎が膝頭に付きそうなほど腰が折れ曲がっており、右足をひきずって歩く。ただでさえ体が不自由で動作が鈍いというのに、買い物でいっぱいのショッピングカートを引き上げようとするので、老婦人がバスに乗り込むまでにはちょっとした時間がかかる。バスに乗ってからも、無料パスをカバンから取り出して運転手に見せ、席に着くまで、ひとしきりかかる。その間、バスは決して発車しようとはしない。その老婦人が乗っている時のバスは五時の定刻通りに発車しないので、涼子は老婦人の緩慢な動作に苛立たせられた。
しかし、今日に限っては、その老婦人が乗っていますようにと、バスにむかって走りながら祈っていた。老婦人が席に着くまでの二分、いや一分でもいい、わずかでも時間を稼いでくれたらひょっとしたら間に合うかもしれない。
息せき切って乗車口にたどりつくと、ドアはまだ閉まっていなかった。きっとあの老婦人が席に着くのを待っていたのだろう。涼子は乗降ステップを駆けあがり、近くの空いている席に着いた。その途端、まるで涼子の到着を待ちかねていたかのようにバスが発車した。
この時間のバスに乗る客はそうは多くない。まばらな客たちの間に涼子は老婦人を探したが、目立つはずの彼女の姿は今日は見当たらなかった。
乗客は数えるほどしかいなかった。日が長くなってきたので、人々は帰宅を急がなくなりつつある。ただでさえ少ない乗客は、櫛の歯が抜けるように一人また一人とバスを降りていき、涼子が降りるバス低のはるか手前で、涼子はただひとりきりの乗客になってしまった。
克弥の車内よりよほどスペースがあるというのに、圧迫感がひどい。はるかに離れた場所に座っている運転手の男の存在を、まるで隣の席に座っているかのように感じる。心臓が激しい動悸を打ち始めた。耳の底でどくんどくんと血の流れる音が鳴り響いている。
都筑修一だろうか。
修一と顔を合わせたのは、中学の卒業式が最後だった。やっぱり涼子を睨みつけて、何も言わなかった。別々の高校に進んだ修一とは、それきりになった。これで修一に睨まれないで済むと、正直言ってほっとしたものだった。
嫌いなら嫌いで無視してくれて構わないのに、修一は涼子たちに付きまとっては涼子だけをじっとねめつけていた。涼子にしてみれば不愉快極まりない思い出だったので、修一の名前と顔を記憶から消し去ってしまった。真紀が何も言わなければ、修一は永遠に記憶の底深くに沈んでいたはずだった。真紀は、修一は実は涼子が好きだったのだと言ったのだった。
もし、運転しているのが修一なら、まるきり知らない仲でもないし、話しかけたほうがいいだろうか。でも何って言って話しかけたものだろうか。やっぱり話しかけないほうがいいだろうか。
そんなことを考えているうち、バスは涼子の降りるバス停で停まった。降車ボタンを押しただろうかなどと考える暇もなく荷物をつかみ、バスを降りようとした。その時だった。
開いたバスのドアから何かが車内に転がり込んできた。誠だった。
「ママ!」
誠は涼子にむかって一目散に駆けてきた。
「どうしたの?」
膝にまとわりつく誠の手を取り、涼子は降車口に向かった。ドアの外には母が立っていた。
「ママを迎えに行くって言ってきかないからバス停まで来たんだけど、バスのドアが開いたらあっという間に乗っちゃって」
母は運転席にむかって何度も頭を下げていた。
「マコちゃん、降りようか」
そう言って誠の手を引いてステップを降りようとするが、誠は床に座り込んでダダをこねはじめた。
「ヤダ、バス好き。バス、乗る」
「そんなこと言ったって。また今度乗せてあげるから、今日は降りようか」
「ヤダー」
涼子の手をふりきり、誠はあっという間に車内を駆けていき、一番後ろの席によじ登って窓の外を眺めていた。母に荷物を手渡し、涼子は慌てて誠の後を追いかけた。
「ごめんなさい、この子、バスが好きで」
ぐずる誠を胸に抱きかかえ、涼子は運転席にむかって頭を下げた。
「そうか、バス、好きか」
バスの運転手は修一だった。頭をなでながら誠に投げかけている修一の眼差しはとても柔らかかった。
「よし、それじゃ、乗っていくか!」
「うん!」
誠は嬉しそうに何度も首を縦に振ってみせた。
「いいの、ここで降りるから。ね、マコちゃん、降りよう。ママ、おうちに帰りたい」
「ヤダ、バス、乗る」
すっかりその気になった誠は、涼子の腕の中で手足を振り回して暴れた。
「他にお客さんいないし、どうせ終点まで行ってまたここに戻ってこないとならないから、乗ってていいよ」
修一の申し出だが、涼子は気が引けた。何故だかわからないが、甘えてはいけないような気がした。それでいて、甘えたい気持ちもあるのが不思議だった。躊躇したのはほんの一瞬だったというのに、力の抜けた隙をついて、誠は涼子の腕をすり抜け、ちゃっかりと席に座って、両足をぶらぶらとさせていた。
「それじゃあ……」
終点までは三駅しかない。母に事情を話し、すぐに戻るからと伝え終えると、二人を乗せたバスは発車した。
誠は運転席のすぐそばの席に膝をつき、窓わくに両手をかけて車窓を流れる景色に見入っていた。普段散歩で見慣れているはずの景色だが、バスの中からだと違って見えるらしい。涼子も幼い頃、電車やバスに乗ると窓際の席に座ってじっと景色を眺めていたものだった。まるで万華鏡でも覗いているかのような景色の移り変わりが楽しかった。誠も同じであるらしく、時折、脚をばたつかせては、興奮した声をあげた。
「都筑くん、よね」
修一がうなずいてみせた。
「バスの運転手をしているのね」
「高校卒業してからだから……もう十五年か」
「十五年はベテランなの?」
「俺は若いほう。三十年とかざらだから」
涼子と修一とはバックミラー越しに顔を見合わせて笑った。行き交う人もバスの乗客にも年寄りが目立つ町だ。
「そういえば、辰雄が今度結婚するの、知ってる?」
「ええ、母から聞いたわ。ここでは誰も知らない事なんて何もないもの」
きっと自分の離婚のことも修一の耳に入っているに違いない。出戻ってきた負けた女、そんな風に思われているかもしれないと思うと、気が沈んで、口が重くなった。察したかのように修一もそれきり口をきかなくなった。車内には、誠のはしゃぐ声だけが響き渡っていた。
終点につくと修一はエンジンを切って、運転席から出てきた。
「誠くん、運転席に座ってみるか?」
とたんに誠の顔が電気でもつけたみたいに明るくなる。誠の笑顔につられて修一も笑った。修一の笑顔を見たのはこれが初めてだった。思い出の中の修一の顔はいつでも仏頂面だった。
「いいの?」
「エンジン切ってあるから大丈夫。俺の膝の上に乗せるだけだから」
そう言うなり、修一は誠の体を軽々と抱き上げ、運転席に戻った。
修一の膝の上に座らせてもらった誠は、運転手になった気で大きなハンドルに手をかけ、ブーブーとエンジン音を真似ていた。
「同窓会、来てなかったね」
「小さな子どもがいるとなかなか夜出歩けなくて」
「来るかなって期待してたんだけど。小原がこっちに戻ってるってみんな知ってっから、どうしてんのかなって話しててさ」
修一と、バックミラー越しに視線があった。先に目をそらしたのは涼子の方だった。
「辰雄の奴、ちゃっかり嫁さん連れてきててさ。あ、まだ結婚してないから嫁さんじゃないのか。あいつにはもったいないくらい、いい子でさ。俺らにってクッキーやいて持ってきてくれたんだよ。それをあいつ、味がわかんない野郎には食わせないって全部、自分で食いやがってさ」
かつての放課後の光景と変わらない騒ぎっぷりが目に浮かぶ。あの場所から自分だけは遠くへきてしまった。懐かしさよりも寂しさで胸が切なくなった。
修一は延々と同窓会の様子を涼子に語って聞かせた。修一はこんなにしゃべる人だっただろうか。大輔と三人で連れだっていても、しゃべるのは涼子と大輔だけで、修一は口が重かったように覚えている。そして涼子を睨みつけてばかりだった。三人で並んで歩いている時も、修一ひとり、うつむき加減で、たまに涼子が話しかけてもぶっきらぼうな返事しか戻ってこなかった。頬を紅潮させながら、しゃべりたてる修一があの当時の修一と同じ人物とはとても思えない。見知らぬ人を見る思いで、涼子は修一の赤い頬を見つめていた。
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