第8話

「今度、ブーブーをあげるからな」

 別れ際、修一はバスを降りたがらない誠をそう言ってなだめた。その約束は一週間後に果された。

 涼子は五時のバスに乗った。ステップを上がっていきながら、運転席の修一と目があった。言葉は交わさず、会釈だけをして席に着いた。降りる時、修一から紙袋を渡された。紙袋はずしりと重かった。

「これ、この間、誠くんに約束した車のおもちゃ。俺が子どもの頃に使っていたものなんだけどさ。気に入ってくれるといいけど」

 紙袋の中身は、ラジコンやミニカー、電車のおもちゃなどだった。誠が特に気に入ったのはラジコンのダンプカーだった。コントローラを扱うことはまだできないので、ダンプカーだけを手にして走らせたり、荷台に庭の土を入れては落とす、落としてはシャベルですくった土を入れるを飽きずに繰り返していた。

 庭いじりの好きな父は、誠のために庭の一角をほりかえし、小さな工事現場をあつらえた。本物の工事現場のように何か所かに盛り土があり、その間をダンプカーを走らせることができる。掘り返した時に出てきた小石だけの小山もある。誠は服も手足も土だらけにして一日中、“工事現場”に入り浸っているらしい。らしいというのは、昼間は学校にいるので、母から聞いた話だった。

「飽きないのかしら」

「好きみたいよ。お父さんがトンネル作って、電車のおもちゃを通らせたりしてみせたけど、まるっきり興味みせなかったんですって」

 父の奮闘ぶりを想像し、涼子は思わず微笑んだ。

「車に興味があるのかしら?」

「そうみたいね。それも大きなもの、ダンプカーとかショベルカーとか、働く車が好きみたいよ。魚屋さんとこ、今リフォームしているでしょ。いろんな大きな車が出たり入ったりしているのを、ずっと見てるわよ」

 一軒隔てた藤山家では、辰雄の結婚にともない、二世帯住宅に改築中だった。

「バスも好きよ」

「バス?」

「散歩していても、バスが通りかかると立ち止ってじっと見てるわよ。あなたが降りてくるって思っているんじゃないのかしらね。夕方の散歩だとバス停まで行くってきかないの。ママは遅くなるって言っても、子どもだからわからないのね。十分ぐらい付き合って、あなたが帰ってこないとわかるとやっと諦めるのよ」

「そうなの、知らなかった」

「そうでしょう。あなた、この頃、夜遅いから、話す機会もなくて」

 母はそう言って、お茶うけのキャベツの浅漬けをかじった。

「勉強が忙しいのはわかるけど、少しは誠にも目を向けてちょうだい。子供って一日、一日、成長していくのよ。それを見てあげられないのは、母親としてどうかと思うわよ」

 うん、と涼子は力なく頷いた。

 母は克弥との関係に気づいている。送ってもらう時は、車のエンジン音が聞こえない場所で降ろしてもらっているが、母親の勘か、女の勘か、母は男の存在を嗅ぎ取っていた。


「子どもとの時間を大事にしたい」

 そう言うと克弥はあからさまに不満げな顔をしてみせた。勉強も忙しくなるし、就職活動も考えないといけない。

「まったく会えないわけじゃないんだから」

 そう言うとようやく克弥は現実を受け入れた。こちらの子どもの機嫌を取るのも一苦労だった。


 それまで夜中近くまで帰ってこなかった母親が、夕方、自分が起きている間に帰ってくるようになったとあって、誠は大はしゃぎだった。帰ってくるなり、膝にまとわりついて離れない。土日も部屋にこもって勉強しようものなら、ドアの付近を行ったり来たりして、集中力がそがれた。それでも愛おしさが勝った。

 誠は一分、一秒の速さで成長を遂げていく。昨日できなかったことが、今日には出来ている。不安定だった足取りも、この頃ではしっかりとしてきて、全力で駆け寄ってきて膝にぶつかられるものなら、青あざができる。好奇心の塊で、目に入るもの何にでも興味を示す。毎日、何かが誠のなかで弾けては形を成し、再び弾けては別の形のものになる。誠の成長ぶりは毎日みていても飽きなかった。

 そのうち、誠の方が母親の存在に慣れてきてしまい、帰宅しても家にいてもあまりまとわりつかなくなった。

「希少価値がなくなったみたい」

 母に愚痴をこぼすと、お母さんベッタリでマザコンになるよりマシじゃないのと返された。

 誠のバスへの興味だけは薄れなかった。

 週に三日、火曜から木曜まで、涼子は五時のバスに乗る。運転手は修一だ。母は誠を連れてバス停まで来る。他に乗客がいなければ、誠を乗せ、バスは終点まで行って折り返してくる。

 バスに揺られている間、涼子は修一とたわいもない会話をして過ごす。話題は誠のことが一番多く、次は涼子自身についてだ。修一は黙って涼子の話に耳を傾ける。中学時代の無口な修一に戻ってしまったわけだが、嫌な感じはしない。

 涼子のことを根掘り葉掘りたずねない修一といるのは心地いい。どうして離婚したのか、今はひとりでいるのか、これからどうしていこうというのか――何も聞かない修一が唯一尋ねたのは、涼子の重そうなリュックについてだった。栄養士になる勉強をしているといって、涼子は教科書を取り出してみせた。教科書の厚みと字の多さに、修一は目をぱちくりさせ、勉強は得意ではなかったし、今から何かを勉強しても頭に入らないと苦笑いを浮かべた。そう言いつつ、涼子が学校で習ってきたことを話すと面白がって聞いている。涼子も、修一に語って聞かせるのが楽しくて、修一の運転するバスに敢えて乗る。


「今度の週末、お焚きあげだけど、よかったら一緒にいかない?」

 バスを降りようとした時だった。修一の声が背中から追いかけてきた。エンジン音にかきけされまいと張り上げた声は震えていた。

「誠くんも一緒に。どうかな」

 付け足すように修一は言った。振り向きざまに頷いてみせ、涼子はバスを降りた。母に連れられて迎えに来ていた誠が足にしがみついてきた。

 老婦人の客を乗せたバスはその先のバス停へとむかって走りだした。心なしか、バスの後部が左右に揺れて見えた。浮かれてスキップでもしているようだった。

 お焚きあげとは、地元の人間がそう呼んでいるだけで、本来は神社のある山の名を冠したS…の火祭りと言う。毎年七月の下旬になると催される祭りで、S山の山頂で焚いた火で無病息災を祈願する。麓の公民館のあたりには屋台や夜店が出るので、子どもの頃、よく行ったものだった。地元に戻ってきて二年、祭りが行われているのは知っていたが、足を向けなかった。

 涼子は脛にしがみついている誠の頭をなでた。幼稚園や散歩で行く近所以外の外の世界を誠は知らない。お祭りに行くとなったら、きっと誠は大喜びするだろう。涼子自身の胸もまた、期待で高まった。


 けばけばしい佇まいの夜店が軒先をぶつけるようにして居並び、どこからともなく漂ってくる醤油の焦げるにおいに食欲は誘惑される。行き交う人々の笑い声と、客引きの声とが星のまたたく夜空に響き渡る。

 生まれて初めての祭りに、誠は興奮していた。人混みの中を走り抜けていこうとして危なっかしいので涼子と修一とで誠の手を握っているのだが、誠はお構いなしに二人を引きずるようにして前へ前へと進んでいく。

 何も知らない人間がみたら、祭りを楽しんでいる親子に見えるだろう。誠も一緒にと誘われた時、正直言うと涼子はがっかりしたのだった。考えてみれば、修一と二人きりでどこかへ出かけるといったことは今まで一度もなかった。

 中学時代、修一とはいろいろな場所へ出かけた。映画館や遊園地、公園などに行ったが、いつも大輔と三人でだった。涼子が大輔を誘ったにしろ、大輔から誘われたにしろ、どこに行くのにも、修一がついてきた。

「昔さ、三人で祭りに来たことがあったよな」

「山下くんとでね」

 祭りのデートでも修一が一緒だった。どうしてついてくるのと苛立ったのを思い出して涼子は苦笑いを浮かべた。興奮しすぎて疲れたのか、修一の背中におぶられた誠はスヤスヤと寝息をたてている。

「大輔のやつ、小原と二人きりだと緊張するからついてきてくれって言ってさ」

「そうだったの」 

「あの日、祭りの日、浴衣着てきただろ。白地に薄紫の朝顔の模様が入った大人っぽい浴衣でさ。髪を上げてて、うなじが見えて、すごくドキドキした」

「そうだったかな」

 涼子が覚えていない柄を、修一は鮮明に記憶していた。

「山から下りる途中で、二人でどこかへ消えただろ」

 その出来事ならよく覚えていた。

 山頂のS神社で焚かれた火で無病息災を祈った後、参詣者は火を移した松明を掲げて山を下る。まだ幼い誠が歩くにはきつい傾斜があるため、今回は麓で夜店めぐりをして楽しむだけだが、山に顔を向ければ、参詣者が織りなす松明の列が闇を切り裂いて山腹を駆けおりていくさまが目に入る。

 あの夜、修一は涼子たちの少し後ろを歩いていた。足元を気遣っているうち、涼子たちは修一とはぐれてしまった。

「つまらなさそうにしてから先に帰ったんだと思ってた。山下くんも、多分そうだろうって言ってたし」

「そうか、大輔のやつ」

 鼻頭に皺を寄せ、修一は足元のアスファルトを蹴りつけた。

 山を下りた涼子と大輔は二人きりで夜店をめぐり、その帰り道、涼子はファーストキスを体験した。

「今だから言うけどさ、俺、小原が好きだった」

 思わず足を止め、修一の横顔を見上げた。後ろを歩いていた若い男が急に止まるなよと文句を言い、通り過ぎていった。

「大輔と付き合いだす前から好きだった。だから、大輔から小原と付き合うことになったって聞いてすごく嫉妬した。デートなんかしたことないからついてきてくれって頼まれてさ、行ってやるもんかって思ってたけど、小原に会えると思うと嬉しくて、くっついて回ってた」

「私、てっきり都筑くんには嫌われてると思ってた。だって、私のこと睨んでばっかりだったじゃない。いつも不機嫌で、きっと三人でいるのが楽しくないんだなって」

「そりゃ、楽しくはなかったよ。目の前で好きな女が他の男と一緒にいるのを見せつけられるんだから。それでも一緒にいればいつか奪うチャンスはあるかもって思ってた」

「怖いわね」

「バカだったな。色目でも使えばよかったのにさ。きっとすごい顔で小原を見てたんだろうな。だから嫌われたんだな」

 修一は乾いた笑いを漏らした。どうやら、涼子への思いは過去のものとして区切りをつけてしまったらしい。「好きだった」と、修一は過去形を用いた。だが、それならあの視線の意味は何なのか。

 涼子と修一とは再び並んで歩き出した。夜店を抜けると人の数が次第に少なくなっていく。駐車場へと向かう道のりを、涼子はゆっくりと歩き、修一は涼子の歩みに合わせていた。

 「好きだった」――修一の言葉を、胸の内で反芻してみる。真紀から伝え聞いて修一の気持ちは知っていた。だが、過去の気持ちの告白とはいえ、本人の口から聞いたとあって、胸に漣が立った。

「どうした?」

 ふいに足を止めた涼子にあわせて修一が立ち止った。涼子は顔を上げた。

「今は――」

 どう思ってくれているのかと続けようとした言葉は、思いがけない人物の登場によってさえぎられた。

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