第13話

 誠の退院が決まった。

 子どもの頃の瘤は自然になくなることもあるという医者の見立て通り、誠の心臓壁に出来た瘤は消滅した。医者から検査結果を聞いた涼子はその場に泣き崩れた。

 とはいえ、一時期の危険な状態から脱しただけというだけで、川崎病との付き合いは一生続く。退院後も定期健診などで病院へ通わないとならない。

 初めのうち、誠の将来を悲観していた涼子だったが、退院が決まると気持ちも切り替わった。

 一病息災。定期的に医者に診てもらうのなら、別の病気にかかったとしても発見は早いだろうし、その分、治療も早く開始できる。かえって健康に過ごせるのではないか。

「涼子、明るくなったね」

 頻繁に見舞いに来てくれていた真紀も驚くほどの涼子の変わりようだった。

「明るくなったよね。何だか生き生きしている」

 退院のその日も、真紀はそれまで何度となく繰り返したフレーズを口にした。

「落ち込んでいる暇があったら、誠を守ることに時間を使わないともったいないなって。いろいろとやることが山積みよ。せっかく勉強したんだから、食事から健康な体作りを目指していこうかなって。車の免許も取ろうと思ってる。病院とか幼稚園とかの送り迎えがしやすいように」

 涼子は目を輝かせながら、将来を語った。差し入れや付き添いの交替、病院までの送り迎えと、両親や真紀には助けてもらったが、いつまでも頼りにするわけにはいかない。

「車があると何かと便利よね。学校はどうするの?」

「春からまた通う。仕事もこっちで探すことに決めたわ。東京ならいくらでも仕事はありそうだけど、一人で子育てをするのは難しいって身にしみてわかったから。こっちなら母もいるし、真紀もいて、いざって時には頼りになるし」

 茶目っ気たっぷりに涼子は舌を出してみせた。

「そうよ、何かあったら人を頼りなさい。困ってますって大声出すの。私だって、散々周りに世話になって、というか、迷惑かけて子どもを育ててきたんだから。世間に育ててもらうぐらいの気構えでいた方がいいわよ」

 世話好きな真紀は手際よく、涼子の荷物をボストンバックに詰めていった。誠の荷物は涼子の担当である。退院のこの日、父が迎えにくるはずだったが、数日前に傷めた足のせいで車が出せなくなってしまった。タクシーを使おうと考えていたところに助け船を出してくれたのが真紀だった。

「遠藤さんとは?」

 涼子は黙って首を横に振った。

「彼にも言ったけど、私たちはもう終わったの。そもそも、私たち、縁がなかったのよ。でも、彼は誠の父親ではあるから、誠に会いたかったら会えばいいし、誠のことについてなら今後も連絡はする。でもどうかしら。会いにくるかしらね……」

 誠の瘤が消失したニュースについてはメールで雅弘に知らせてあったが、返信はなかった。

「彼、子ども好きじゃなかった?」

「あの人の子ども好きっていうのは、自分の言うことを聞く子どもなら好きってことなの。彼のような人間は父親にはなれないし、なってはいけない人。彼の浮気に腹を立てて離婚したと思っていたけど、違ったのね。浮気はきっかけに過ぎなくて、父親としての彼に不安を感じたから別れようと決心したんだって、今になってわかったの」

「父親にはなれない人間、か。母親もそうだけど、男も女も、子どもを持てば自動的に父親、母親になれるとは限らないのよね」

 自戒の意味をこめて、涼子は真紀の言葉に深く頷いてみせた。

「彼はどうだった?」

 荷造りの手を休め、涼子は尋ねた。

「彼?」

「浩介くんの父親。どうして結婚しなかったの?」

 ああと小さく呟いて、真紀は肩をすかしてみせた。

「彼も父親にはなれない人だった。人生のパートナーにもなれない人だった。オスとしては美しい生き物だったけど」

 「オスとして美しい生き物」とは言い得て妙だった。真紀の子どもの父親は、涼子たちの高校に実習生としてやってきた。若くて健康的な肉体を持ち、端正で甘いマスクの持ち主の彼に夢中になったのは真紀だけではなかった。涼子も、彼が受け持っていた数学の授業ではドギマギして勉強どころではなかったと覚えている。

「こっそりメルアド渡して、実習が終わってから付き合うようになって、開放的な夏休みに体の関係ができて、実りの秋にめでたく妊娠よ」

 十五年の年月を経た今だからこそ、真紀は自嘲気味に笑って語るが、当時はひと波乱あったはずだった。

 秋の深まりとともに真紀は学校に姿を見せなくなり、冬休みが始まる直前、高校を退学した。退学の理由を、涼子は真紀から聞かされて知っていたが、真紀の妊娠が公になったのは出産後間もなくの頃だった。

 真紀が実習生に熱をあげていたことは周知の事実だったから、父親は実習生だと誰の目にも明らかだった。小さな町だから噂はすぐに広まった。

「妊娠が分かった時、結婚の話にならなかったの?」

「なったわよ。私の両親は責任を取れって彼に迫ったもの」

「彼は何て?」

「結婚するって言ったわ」

「じゃあ、どうしてしなかったの?」

「そうだなあ……」

 真紀は視線を宙に泳がせた。揺れ動いた自分の感情、妊娠、出産に対する不安、相手の定まらない決意。どれが理由と言い切れるものかわかりかねるといった風に、沈黙が続いた。

「彼のお母さんが結婚には反対だったの。出産にもね。息子はまだ若い、結婚なんて早い、息子の将来に傷をつける気かとか、いろいろ言われたわ。子どもも堕ろせって言われたっけ」

「その話は初耳だわ」

「あらそう? 言ってなかった?」

 彼との間がうまくいっていないとは聞いていたが、中絶を迫られた話は初耳だ。

「同じ女から、自分の子を殺せって言われたのがショックだった。女ならわかるじゃない。お腹の子をどうにかすることだけはしたくなかったし、できなかった。命は尊いものだからという殊勝な気持ちからじゃなくて、自分の体がどうにかなってしまうんじゃないかっていう恐怖からで、私も子どもだったのね。自分のことしか考えていなかった。みんなそう。彼も、母親がお腹の子を始末しろって言い続けるものだから、赤ん坊さえいなくなれば結婚しなくて済むんだと思うようになって、そのうち母親と一緒になって堕ろせと言うようになったの。最初から結婚する気なんかなかったのね。私の父親の迫力にまけてつい口から出まかせで結婚すると言ったけど、本心では嫌だな、面倒だなって思ってたってわけ。彼も父親にはなれない人間だった――私も母親になる心構えがなかった」

「真紀はちゃんと母親しているじゃないの」

「今は、ね。でも十六の時は何も考えていなかった。子どもをつくるためにセックスがあるんだから、セックスしたら妊娠するのが当たり前なのに、ろくな避妊もしなかった。彼ね、フィニッシュさえ外で済ませれば妊娠しないと思ってたのよ。バカよね。まあ、私もバカだったけど」

「彼は二十歳過ぎの大人で、真紀は十六だったじゃない」

「そう、私は呆れるほど何も知らない子どもだった。セックスがどういうことかも、子どものことも、母親になるということがどういうことか何ひとつわかっていなかった。体はメスになりかけていて、セックスに興味を持ち始めていたところに、成熟した―といっても体だけだけど―オスが登場。当然、するわよね、セックス。相手が好きだからするんだなんて当時は思っていたけれど、今振り返ってみるとそんなに好きでもなかった気がする。ただ、セックスというものをしたいというそれだけの気持ちだった気がするの。同級生の男じゃ、子どもっぽくて相手にならないけど、彼は見てくれは大人だった。精神は未熟だったけど。結婚しなくて正解だった」

 真紀はくしゃっと顔全体に皺を作ったかと思うと、ぱっと笑顔を作ってみせた。後悔など微塵もないといった、明るい笑顔だった。

「今付き合っている人とは、結婚を考えている?」

 真紀は小首を傾げてみせた。

「今すぐはないかな。将来はわからないけど」

「浩介くんが成人するまでは結婚しない?」

「そういうことでもなくて。結婚は気持ちとタイミングの問題。今は気持ちがないし、そういうタイミングでもないってこと」

「遊びで付き合っているわけじゃないんでしょう」

「私は違うわ。彼はどうだかわからないけど」

「付き合ってどれくらい?」

 真紀は指を折って数えた。

「五年かな」

「浩介くんが十歳の時からなのね。浩介くんの反応はどうだった?」

「付き合って割とすぐに彼を紹介したけど、冷めたものだったわね。相性悪いのよ、彼と浩介」

「仲悪いの?」

「仲が悪いっていうか、とにかく相性が悪いの。考え方とかまるで正反対。浩介が白と思うことが彼には黒っていうこと」

「それじゃ、結婚は考えられないのじゃない?」

「どうして?」

 驚いたように真紀は目をぱちくりさせていた。その真紀の反応に驚いたのは涼子の方だった。

「どうしてって、結婚したら彼は浩介くんの父親になるわけでしょう? 相性が悪いと面倒じゃない」

「彼は浩介の父親になるために私と結婚するわけじゃないわ。結婚する時が来るとしたら、それは私のパートナーになるためによ」

「浩介くんと気があわないってわかって、彼との付き合いを止めようとは思わなかったの?」

「浩介の気持ちを少しは考えるけど、よほどの悪い人間でない限り、浩介と気があわないからって理由で付き合わないってことにはならない」

「逆に――」

 涼子はオレンジのダンプカーを手に取った。

「浩介くんと物凄く気のあう人だったら、タイプではない人でも好きになる?」

「ならないわ」

 真紀は即座に否定してみせた。

「私が必要とするのはパートナー、恋人であって、子どもの父親ではないもの。子どもの父親にふさわしい人だからってその人を好きになることはないわ」

「でも、子どもと仲のいい人を好きになったとしたら、それはそれでいいのじゃない」

 涼子はダンプカーをボストンバックの中に大切にしまった。

「子どものことがなくても好きになったと思える人なら、ね」

 誠が懐こうとどうしようと、修一に惹かれただろうか――涼子は胸の内で自分自身に問いかけた。雅弘と病室で会った日から、修一の見舞いはぱたりと途絶えていた。誠の父親を目の当たりにした修一の気持ちに何か変化があったとしても、涼子にはもうどうすることもできない。

 ボストンバックに荷物を詰め込んでしまうと、涼子はナースセンターに挨拶をしてくるからと真紀に誠についていてくれないかと頼んだ。

「都筑くん、誠が退院するって知ってるかな……」

「うん……」

 真紀は何故か歯切れが悪かった。

「何?」

「うん、本人からは涼子には言うなって口止めされていたんだけど……」

 深呼吸の後、真紀は言った。

「都筑くん、今、入院してるんだ」

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