第14話
修一は、同じ病院の六階、整形外科の病棟に入院していた。
大部屋の窓側のベッドの上で、脚にギプスをした姿で眠っていた。いつも涼子を見つめてくれている目が固く閉じられている。
窓からは誠の病室から見えたものと同じ景色がより高い位置から見えていた。涼子は修一を起こさないよう、傍らの椅子に腰かけた。
しばらくぶりに人に会うと、記憶の顔立ちとのずれに戸惑う。数週間ぶりに目にする修一は、額に負った傷が痛々しいせいもあるが、顔半分が濃い髭に覆われてまるで別人だった。もともと老け顔だったが、さらに十歳は年をとってみるように見えた。
真紀の話によれば、修一は意識不明の状態で倒れていたところを駐車場で発見された。その日、真紀と修一とは真紀の運転する車で誠の見舞いに訪れていた。雅弘と鉢合わせになった日だ。
雅弘に気をつかって早々に病室を引き上げた後、二人は喫茶店で話し込んでいた。そろそろ帰ろうかと駐車場にむかおうとして真紀は喫茶店に忘れ物をしたと気づき、修一には駐車場で待っていてくれと言い、引き返した。忘れ物の傘を持って駐車場に戻ったところ、入り口付近で倒れている修一を発見した。額がざっくり割れて出血がひどかったのだという。意識はその時点ですでになかった。真紀は慌てて救急に運ぶよう手配した。
「倒れたのが病院の駐車場でよかったわよ」
真紀が看護師であることも修一には幸いだっただろう。修一はその場で入院させられたということだった。
修一は脳震盪を起こしていた。何らかの原因で倒れ、頭を強く打ったらしく、額の傷も打った時に出来たものらしい。らしいというのは、修一本人が何が自分の身に起きたのかを覚えていないからだった。
真紀は、修一は駐車場で事故に遭ったのではないかと推測していた。鎖骨と大腿骨を骨折、肋骨にはヒビの入った修一の怪我は、額の傷も含めてすべて体の左側に集中していた。右側から来た車に気づかずにはねられたというのが真相じゃないかと真紀は睨んでいる。
だが、駐車場内だからとスピードを落として走っているはずの車にはねられて、意識を失うほどの大怪我をするだろうか。修一をはねた車は駐車場内にもかかわらず、かなりのスピードを出していたのではないのか。
運悪く事故に遭ったとは、涼子は思えない。
あの日の雅弘は激昂していた。復縁の話を断られたうえ、父親失格だとまで言われ、怒りをあらわに病室を後にした。その直後に修一と出くわしていたとしたら……。
涼子の推測を裏付ける証拠は何もない。「事故」に遭った修一には当時の記憶がなく、目撃者もいないようだった。真紀によれば、脳震盪を起こした場合、その前後の記憶が飛んでしまうのはわりとあることらしい。何かのきっかけで思い出すことはないのかと真紀に尋ねると、思い出すかもしれないし、一生思い出さないかもしれないという答えが返ってきた。
仮に思い出したとしても、修一は真実を語らないだろうという気がする。もしかしたら記憶がないと言っているのは嘘かもしれない。涼子には事故については何も知らせるなと真紀に口止めしたのは修一らしい気遣いなのだろう。
涼子は額の傷の縫目を数えた。七針。傷痕は残ってしまうだろうか。汗で額にはりついた髪を、涼子はそっとぬぐった。あっと小さく声をあげて、修一が目を開けた。
「ごめんなさい、起こしちゃったわね。顔見たら帰るつもりだったんだけど」
目を何度かしばたかせ、修一は髭だらけの頬を緩めた。
「事故に遭ったって」
「広田の話だと『事故』らしいんだけど。俺は何も覚えていないんだ。また頭でも打てば思い出すかもしれないけど」
修一が笑ったのにつられて涼子も微笑みを浮かべた。何が起きたのか詮索するのはやめにしようと涼子は胸の内で誓った。修一が元気になればそれでいい。
「都筑くんがお見舞いに来てくれないものだから、誠がさびしがっていたわ」
「こんな状態だからなあ」
修一は、左半身の手と脚を動かしてみせようとしたらしかった。しかし、ギプスやサポーターで固定されているので、肘の先からの腕しかあがらなかった。
「誠くん、どうしてる?」
「今日退院なの」
「それはよかった!」
興奮して体をあげようとした拍子に痛みを感じたらしく、修一は笑顔の額に皺を寄せていた。
「小原もほっとしただろ」
心配されていた瘤は消失したものの、しばらくは薬を飲み続けること、定期的に検査を受けるために通院することなどを涼子は語った。
「大変だろうけど、定期的に医者に診てもらえるのなら、かえって安心できるかもな」
「一生抱える病気だから、うまく付き合っていく方法を考えるわ」
「無理するなよ。小原が倒れたりしたら大変だからな」
「大丈夫よ。これでも栄養士の勉強をしていたんだから、食べるものには気をつけているから。春からまた通うつもりでもいるし。それまでに車の免許も取ってしまおうかと思ってるの」
頬を紅潮させながら未来を語る涼子を、修一は目を細めてみつめていた。
「仕事もこっちで探そうと思ってる」
涼子がそう言った瞬間の修一の細い目は一際光輝いていた。
「栄養士ってどんな仕事するの?」
「簡単に言うと、栄養バランスのとれた食事を考えるのが仕事ね。保育園とか給食のメニューを考えたり、病院の食事を考えたりもするわ」
「小原、今すぐこの病院に就職してくれ」
「病院の食事」と言ったとたん、修一が口をはさんだ。
「食事ぐらいしか楽しみがないのに、まずいんだ」
修一のしかめっ面は驚くほど誠に似通っていた。熱が下がって元気になってきた誠も食事のまずさに閉口し、涼子を手こずらせた。そんな時は、真紀から差し入れてもらったポン酢やふりかけで味を調節して何とか食べさせたものだった。
修一のベッドサイドテーブルにもポン酢の瓶があった。真紀からの差し入れらしい。テーブルには雑誌や本の間に埋もれるようにして花瓶に生けられたピンク色のガーベラがあった。
「退院までの我慢だから」
「辛いものがあるなあ」
修一は深いため息を天井にむかって吹き上げた。
「どれくらい入院することになりそうなの?」
涼子はポン酢の瓶に目をやった。動けないから入院しているだけで、食事制限もない健康な修一だから、ポン酢の味付けだけではそのうち我慢しきれなくなりそうだ。ガーベラの花言葉は何だろうとふと気になった。
「三か月はみておいてくれだとさ」
「クリスマスか、遅くてもお正月前には退院できるといいわね」
「だといいけど。早くくっついてくれよ」
修一の目線がギプスの脚にむけられていた。
「さわってもいい?」
涼子がきくと、ほんの一瞬の躊躇の後、修一は笑顔でうなずいてみせた。
手のひらに、ギプスの冷たさがしみこんでいく。幾重にもぬりこめられたギプスの層の下には修一の脚が横たわっている。修一の肌に触れたような熱さを感じ、涼子はとっさに手を引いた。
その拍子に妙なものが目に飛び込んできた。ギプスの表面に黒い糸くずのようなものがはりついている。顔を近づけてみると、それはサインペンのようなもので書かれた文字たちだった。そのほとんどは、「元気になってください」といった見舞いの言葉だった。
字の上手い下手といった違いはあるものの、似通ったメッセージが連なっている中に、涼子の目を引く文字があった。筆圧の低い丸みを帯びたその文字は、明らかに女性の手によるものだった。
「早く元気になってください」
たわいもない見舞いの文言を目にして、涼子は軽い眩暈を覚えた。花瓶のガーベラを目にした時と同じ感覚だった。真紀は、花束を手にするくらいなら、一本でも多くポン酢の瓶を持ってくる人間だ。
「誰かお見舞いに来たの?」
修一の顔を見ずに涼子は尋ねた。
「会社の連中。ギプスにいろいろ何か書いてあるだろ? 人が動けないのをいいことに、いろいろ好きなこと書きやがってさ。そうそう、辰雄も嫁さん連れて来てくれたんだ。そうだ、小原、ちょっと頼んでいいか?」
「何?」
「辰雄がギプスになんて書いたのか、見てくれないかな。あいつ、わざと俺に見えない場所に書いたんだ。書いている間中、ニヤニヤしてたから、絶対、まずいこと書いているに違いないんだ」
「どこなの?」
「足の裏」
「それは見えないわね」
涼子は指先を天井にむけている修一の左足の裏側にまわりこんだ。
「なあ、何て書いてある?」
「ええとね。『看護師さんへ こいつはヘンタイでエロいヤツなので気をつけてください』だって」
「あの野郎! 退院したらタダじゃおかねえ!」
顔を真っ赤にして怒りを露わにする修一にむかって、涼子は笑顔で右手を差し出した。
「サインペン、ある?」
「あるけど?」
修一は首から上だけをサイドテーブルにむけた。涼子はサインペンを手に、再び修一の足の裏にまわった。
「何すんだ?」
「かわいそうだから、タッちゃんの変なメッセージを消してあげる」
「おお、ありがとう!」
修一には、消すといった辰雄のメッセージはそのままに、涼子はその下、シーツに埋もれて看護師も他の見舞客にも見えない場所に、修一にむけたメッセージを書きつけた。ペンの走る音がキュッキュと鳴る。その間、何も知らない修一は上半身の動く部分を妙にくねらせていた。
「なんか、くすぐったいな」
「ギプスしてるんだから何も感じないでしょ」
「そうだけどさあ」
書き終えても、修一は何だかむずがゆさのすっきりしない顔でいる。
「なあ、本当に消してくれた?」
「消したわよ」
「ペンの走らせ方が、何か書いているみたいだった」
「そう? 気のせいよ」
涼子はとぼけてみせた。
「早くギプスが取れて退院できるといいわね」
そう言い残し、涼子は病室を後にした。ギプスの取れるその日、修一は涼子のメッセージを目にすることができるだろう。
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