第10話

 涼子が知らなかった川崎病を、真紀は知っていた。

「看護師だもん、知ってて当たり前か」

「看護師でも知らないことはいっぱいあります。たまたま幼稚園の知り合いに川崎病の子がいたから知ってるだけ」

 誠の入院からすぐに涼子は真紀に連絡を取った。看護師をしているからということは二の次で、頼りになる人間は真紀しかいなかった。

「来てくれてありがとね」

 夜勤明けだというのに、留守電のメッセージを聞いた真紀はその足で誠の病室に駆けつけてくれた。大部屋の窓際のベッドで、誠は薬が効いて、おとなしく寝ている。午前中だというのにすでに刺すような威力の陽ざしがカーテン越しにさしこんでいる。今日も暑くなりそうだ。

「心臓の血管に瘤が出来たりしたら、命にかかわるかもしれないって……」

 それまで淡々と入院までの経緯や医者から聞かされたことを語っていた涼子の唇がわなないた。全身の震えをとめようと、潰しかねない勢いで両手でペットボトルを握りしめた。真紀が差し入れてくれたペットボトルのジュースだ。他にも、菓子や本、水を使わないでも髪の洗えるシャンプーなど、24時間付き添いの涼子を気遣って細々したものを真紀は持ってきてくれた。

「まだ瘤が出来たわけじゃないでしょ」

 真紀は震える涼子の手にしっかりと自分の手を重ねた。そのぬくもりに涼子は泣き出しそうになった。

「でも、もしそうなったら」

「そうならないよう、治療しているの。最悪の事態を考えるのは医者の仕事。そうなったらそうなったで解決を試みるのも医者の仕事。しっかりしなさい、涼子。あなたは母親なのよ。母親が弱気になっていたら誠くんだって不安になるでしょ」

 口ではそう叱咤激励しながらも、真紀は、泣き出した涼子に肩を貸してくれた。人目をはばからず、涼子は声をあげて泣いた。誠が起きてしまうかもしれない、他の患者に迷惑かもしれないと思いながらも、嗚咽はとめられなかった。泣き続ける涼子の頭を、真紀は母親のように撫で続けていた。

「私、母親失格だわ」

 涼子は真紀の肩に頬を埋めたまま、つぶやいた。真紀の体からはほんのりアルコールの匂いがした。病院のにおい、医者たちの体臭。清潔な死の香り。

「熱が出た時、私はいつものちょっとした発熱だと思ったの。でも、母は異常を感じていた。いつも誠をみているから、何か違うってわかったのね」

「涼子は学生で忙しいんだから、誠くんにべったりというわけにはいかないでしょ」

 真紀の肩から顔をあげ、涼子は姿勢を正した。

「私、誠をほったらかして男と会ってたの。彼も同じ学校の生徒。最低よね。勉強しに行ってたんだか、男に会いに行っていたんだか。私、母親であることよりも女をとったのよ」

「それのどこが最低なの」

 はっとして見た真紀の顔は笑ってさえいた。

「母親だって恋愛したっていいじゃない。涼子は独身なんだから」

 庇ってもらったはずの涼子は咎めるように真紀を見据えた。

 悪い母親だから罰として誠が入院するはめになった。反省しているという態度でいれば赦されて誠は元気になるのではないか。そんな風に考えている涼子は、真紀の言葉に救われてはならなかった。

 責めてくれたほうがいっそ気が楽と言わんばかりの涼子にむかって、真紀は大きなため息をついた。

「わかってる。世間は、まだまだ、母親が女として恋愛することにいい顔はしないのよね。滅私奉公じゃないけれど、100パーセント子どものために生きることを強いるもの」

「子どもには母親が必要よ」

「いい母親がね。四六時中一緒にいるからっていい母親とは限らないし、仕事や何かで家を空けがちだからといって悪い母親とは限らない。要は、子どもとどんな関係を築いているかということでしょ。愛されているという自信を与えることが一番大切なのよ。涼子は誠くんを愛しているでしょう」

 涼子は大きく頷いた。何を失っても誠だけは失えない。苦しむ誠と出来るなら変わってやりたいとさえ思う。それができないもどかしさが胸をしめつける。

「男にかまけているのは、たとえ子どもを愛していてもいい母親とは言えないと思うけど」

「そうね。世間はそう言うわね。それじゃ、夫にかまけているのはどうなのかしら。私たちは独身の母親だから男となるけど、結婚している母親は? 夫にかまけていても何も言われないでしょう。それはどうして」

 涼子は言葉に詰まってしまった。雅弘にかまけていなかったから、離婚という結果になったのだ。

「確かに、女の一生では母親として子どもと密着する時期があるのは認めるわ。でもだからといって、女を捨てろと言われるのはひどいと思わない? 子どもはいつか離れていくもの。そうなった時、私たちに残っているものは何? 結婚していない私たちには何もないの。いきなりひとりきりで、子育てしていた時間よりずっと長い時間を過ごすことになるのよ。そうなってから人生のパートナーをさがそうたって、女としてはもう盛りを過ぎている。悲しいけど、これが現実よ。年老いてひとりきりにならないよう、今のうちに恋をして、人生のパートナーをつかまえておかないといけないの。子育てして、恋をして、仕事をして。女はね、忙しいのよ」

「真紀、付き合っている人がいるのね?」

 二歳年下の、病院の出入り業者だと真紀は言った。

「浩介くんは何と言ってるの? 真紀の彼のこと」

「嫌がってる。女である前に母親だろって。まるで女であることが汚らしいみたいな言い方をするわ」

「確か十五歳よね。多感な年ごろだわ」

「母親に性を感じるのが嫌なのね」

「男の子だからじゃない? 真紀が恋人のようなものだから、人に取られたような嫉妬のような気持ちがあるのじゃないかしら」

「自分は男ですらまだないのに、一人前の男と張り合おうなんて十年早いわ」

 憎まれ口を叩きながらも真紀の頬は緩んでいた。子どもの成長が嬉しくて仕方ないのだろう。同時にさびしそうな口ぶりでもあった。親離れはすぐそこまで近づいている。誠の成長に目を細める日がいつかは来るのだろうか。そうであってほしいと、涼子はむくみと発疹のひどい誠の小さな手を握った。

「真紀の言いたいことはわかる。子ども中心の生活は、子どもにとっても重荷でしかないから、子どもだけの人生を送るなってことだろうけど、私の場合、彼とのことは恋愛ですらなかった。体を重ねるだけの関係。本当に遊びだったの」

 克弥とは喧嘩別れのような形で終わったが、涼子は何の痛みも感じていなかった。恋愛はミックスドロップを舐めているようなものだ。甘いドロップばかりではない。涼子は薄荷味が苦手で甘いドロップを舐めつくした最後には薄荷味のドロップばかりが残った。恋愛の終わりは、仕方なく最後に舐める薄荷の味がする。冷たくて苦い、出来たら口にはしたくないもの。だが、克弥との恋愛の終わりに薄荷の味はしなかった。全部が甘いだけのドロップ。甘味だけの単調さに飽きただけだった。

「それも恋愛のひとつじゃないの? パートナーの探し方はいろいろよ。涼子は必要としているパートナーがどんな人なのか、わかっていないのじゃない? だから今回は間違えた。彼とは?」

「もう終わったわ」

 克弥は、涼子が修一と付き合っているものだと勝手に誤解していた。勝手に腹をたて、勝手に涼子を悪い母親だと決めつけた。何もかも、自分勝手だった。ふたりとも別れるとは口にしなかったが、少なくとも涼子は今後一切付き合うつもりはなかった。

「涼子。恋愛しなね」

 真紀の言葉に涼子は微笑み返すのが精いっぱいだった。

「誠くんのこと、遠藤さんに連絡しないとね」

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