第11話

 一回り年上の雅弘とは社内恋愛を経て結婚した。交際にしろ結婚にしろ、積極的だったのは雅弘の方だった。営業部で三十過ぎて独身だった男性社員は雅弘だけだった。

 見た目だけなら雅弘は若く見えた。若作りというのではなく、童顔な造りのせいで、年を聞いた涼子は驚いたものだった。黙っていれば十は若くみえる雅弘は、しかし口を開けばしっかりした話し方に年が垣間見えた。

 付き合っていた間、年齢差は笑い話だった。夢中になっていたテレビ番組が違う、好きなアイドルも聴いていた音楽もお互い知らないものが多かった。涼子が小学生の時には雅弘は大学生になっていたわけで、そう考えると、年齢差が重くのしかかってくる。子どもの頃と大人になった今では年の感じ方が違うと言って、雅弘は数字の年齢差をとやかく言われるのを嫌った。

 雅弘の話題についていけなかったことも多かったが、自分の知らない世界を教えてもらっているという気分で当時の涼子は世代間のギャップを楽しんでいた。年上の男性ならではの包容力があると思っていたのもこの頃だ。実際は涼子を子ども扱いしていただけだと分かるのはもっとずっと後になってからだった。

 今なら、と、独身の友人たちを横目に涼子は考える。分別のついた今なら、雅弘を伴侶になど選びはしない。

 雅弘は考える力の欠けた人間だった。思いやりと言い換えてもいいかもしれない。常に自分の考えが一番だと思い込んでいた。涼子がまだ働いていた結婚当初、共働きだというのに雅弘は一切家事を手伝わなかった。疲れた体にムチうち、夕食の仕度をする涼子にむかって、簡単なものでいいと言う。簡単なものとはいえ、料理の作業そのものはしなくてはならない。涼子の負担はあまり変わらない。それでも、雅弘としては涼子を思いやったつもりなのである。料理しなくてすむよう、外食にしようだとかそういうことには考えがまわらない。

 掃除にしても洗濯にしても同じだった。疲れているだろうからやらなくていいと言うが、だからといって自分が掃除するなり洗濯するなりするわけでもない。結局、涼子がするはめになる。

 そうした小さなことを積み重ねて耐えかねた涼子が腹を立てると、雅弘が逆に腹を立てた。家事を無理強いしているわけでもないのに何の文句があるのかというのだ。自分の立ち位置からしか物を考えられず、決して涼子の立場に立って考えようとはしなかった。

 二人三脚で歩んでいくという考えもなく一人勝手なペースで走る雅弘を追いかけるようにしていた結婚生活だったから、雅弘の浮気がなくてもいずれ離婚という結末をむかえただろう。

 離婚後も、雅弘とは連絡を取っていた。月に一度は誠に会わせて欲しいと言われていたからだが、誠に会いたいという連絡が雅弘から来たことは一度もない。涼子の方から気を利かせてメールで連絡するが、あればいい方の返事は大抵は仕事が忙しいといった内容だった。

 女との付き合いが忙しいのだろう。風の便りに、再婚するような話を聞いていた。女は涼子の一歳下、雅弘にしてももう若くはない。縁を切った人間のことだから何をしようと当人の勝手だが、誠の父親には違いない。

 涼子は誠について簡単に事情を説明したメールを送った。返事は三日後だった。すぐに見舞いに行くとあった。雅弘が誠の病室にやってきたのはそれから三日後だった。


 久しぶりに雅弘に会った印象は老けたというものだった。垂れ目がちの目はますます目じりが下がり、その目じりには皺が刻まれている。小ぶりで形の美しい唇の脇にはかすかに法令線がみてとれた。十歳は年をとったようだった。若く見られがちな雅弘だから、十歳も老けこんで見えたのなら四十過ぎの年相応なのだが、涼子は違和感を覚えた。

 雅弘を思い出す時に浮かんでくるのは出会ったばかりの頃、三十過ぎても少年の面影を残した顔であるせいもあるかもしれない。短い結婚生活の間、雅弘の顔を見ていなかったということなのか。雅弘は、付き合い始めた当時、好んでよく着ていたサーモンピンクのポロシャツに麻のジャケットを合わせていた。

「来てくれてありがとう」

 誠は父親に会えて喜んでいた。入院という非常事態でもなければ会いに来なかった雅弘でも、誠にとっては父親ではあるのだ。複雑な思いで無邪気に喜ぶ誠を横目に、涼子は雅弘が見舞いにもってきたクマのぬいぐるみを枕元に置いた。

「転院させられないの? 病院が東京ならもっと簡単に見舞いに来れるのに。今日はこっちに来るのにわざわざ休暇を取ったんだ」

「やたらと動かしたりしたらいけないのじゃない」

 両親や、いろいろと世話してくれる真紀のそばを離れての東京での付き添いは涼子にとってかえって負担になるとは雅弘には考えもおよばないことらしい。東京の病院に転院できたところで雅弘が毎日見舞いに来るとは到底思えない。

 涼子は、誠について、川崎病について一通り説明した。間に差し挟まれる雅弘の質問にも淡々とまるで医者のような態度で答えた。雅弘が引っかかったのは、後遺症の動脈瘤と心筋梗塞を起こす可能性についてを話した時で、涼子も同じ話を医者から初めて聞いた時、背筋が寒くなったのを覚えている。

「心筋梗塞って、大人の病気じゃないのか。子どもがなるものじゃないだろう」

「そういう病気なのよ」

 苛立たしさを隠さずに涼子は言った。

「それで、その心臓にできる瘤ってのはどうなんだ」

「まだ瘤が出来ているかどうかはわからない。検査しないと」

「検査してないのか?」

「今はとにかく熱を下げないといけないのじゃない」

 誠の熱はしつこく、涼子を不安にさせた。

「瘤が出来たらどうするんだ」

「瘤の中に血栓ができやすくなるし、血流も悪くなるから、手術で何とかするのじゃないかしら」

「それじゃ、瘤が出来てから、出来てるかどうかの検査なんて後手もいいところじゃないか」

「そうならないよう、治療しているのよ」

 涼子は、血流を促進するために血液製剤を用いた治療を行っていると説明した。血液製剤と聞いた途端、雅弘の顔が歪んだ。

「血液製剤って、エイズや肝炎なんかで問題になったあれだろ」

「ええ。肝炎やエイズに感染したっていう報告例はないけれど、そういう問題があるから使用同意書にサインしてくれって言われたわ」

「サインしたのか?」

「したわよ。他にどうすればよかったっていうの」

 涼子の苛立ちを読み取ったかのように、誠が不安げに涼子の顔を見上げた。夜中に起き出し、夫婦で離婚について話し合っていたところに出くわしてしまった時と同じ表情をしていた。当時と同じように、涼子は即座に笑顔を作ってみせた。

「信用できないな。所詮、田舎の病院、医者だ。万が一、手術ってことになって対応できるのか? 転院、できないものなの?」


 雅弘の見舞いから一週間後、心臓エコー検査結果が出た。最悪な結果を、涼子は身じろぎひとつせずに医者から聞いていた。男にかまけていた罰として誠が病気になったのなら、最悪のシナリオが涼子のために用意されている。どこかでそうなるような予感があった。

 誠の心臓の血管壁には瘤が出来ていた。

 涼子は雅弘に連絡を取った。検査結果が出たら知らせてほしいと頼まれていたからだった。結果を聞いて、雅弘は黙りこんでしまった。今後の治療などについて、涼子は医者から聞いたままを繰り返したが、雅弘が聞いて理解したのかはわからなかった。

「ねえ、聞いてる?」

 電話の向こう側にむかって涼子は呼びかけた。顔の見えない相手の沈黙は底知れない不安をかりたてる。相手を襲った怪物が電話回線を通して自分のところに現れるのではないかという不安。

「涼子……」

 やっとのことで聞き取れるほど、かすかな雅弘の声がした。

「俺たち、やり直さないか」

 酔ってるのと言いかけて、涼子は口をつぐんだ。時計を確認するまでもない。病院の中庭のベンチに座っている涼子の頭上では夏の太陽が照り輝いている。仕事の邪魔にならないよう、昼休みの間にと思って連絡したのだ。

 雅弘は離婚したがらなかった。涼子に未練があるようで、雅弘の頑なな態度はかえって涼子の感情を逆なでた。女との関係は涼子の妊娠中から始まったとかで、涼子が知ったのはずっと後になってからだった。雅弘がしぶしぶ離婚に応じたのは女が妊娠したからだった。女とは再婚話が進んでいたはずだがどうなったのだろう。

「涼子、聞いているか?」

 沈黙にのみこまれそうになった雅弘が今度は口を開く番だった。

「彼女とは?」

「別れたよ」

「赤ちゃんは?」

「ダメだったんだ」

 同情する気にはなれなかった。他人の幸せを踏みにじって手に入れられる幸せなどない。涼子は家族を失った。女は子どもを失った。これでお相子だ。

「お袋が、誠に会えないんでさびしがってさ。お前が浮気なんかするから離婚なんてことになったんだ。お前はバカだ。今からでも頭下げて涼子に戻ってきてもらえって言うんだ」

「……」

「お袋に言われたからよりを戻そうって言うんじゃないんだ。俺はもともと別れたくはなかったんだし」

 離婚の話し合いをしていた間中、雅弘はずっと気持ちは涼子にあると言い続けた。女が妊娠しなければあるいは離婚していなかったかもしれない。

「誠のことがあって――」

「誠のことが何だって言うの」

 涼子は雅弘の言葉にかぶせるように言った。

「お前、今学生だろ。収入もないのにどうやって誠の面倒をみていくつもりだ。仮に就職できたとして、女手ひとつで子どもを育てていくのは大変だろう。その上、誠は医者に見せ続けないといけない体になった。今の局面は乗り切ったとしても将来、倒れたり、手術ということになったら金が要るだろう。そんな金あるのか?」

 涼子は返事につまった。金銭的な面倒は両親がみてくれると申し出てくれた。真紀も何かと気にかえてくれて、どうにか誠の世話ができている。しかし、それも誠が入院しているという非常事態だからで、退院して普通の生活に戻った時、どうしていくのか、涼子は何も考えていなかった。

「誠は俺の子でもあるんだ。何とかしたいと思うのは当然だし、復縁はお前にとっても悪い話じゃないだろう」


「それで、遠藤さん、何だって」

 病室に戻ると、真紀が心配そうに声をかけてきた。雅弘に検査結果を伝える間、誠のそばについててもらっていたのだ。一緒に見舞いにきていた修一も、誠の相手をしながら涼子の様子をうかがっていた。

「ねえ、転院って簡単にできるものなの?」

 できるだけ修一の方を見ないようにしながら涼子は真紀に尋ねた。

「東京の病院で診てもらいたいって言ったの?」

 雅弘は転院させろとは言わなかったが、復縁となれば東京での生活が基盤になる。

「ここは総合病院だから誠くんの治療に関しては東京の病院とそん色ないから転院の必要性はないと思うけど」

「誠の見舞いに東京からこちらへ通うのは大変なのじゃない」

「そうね。家族が通うのが大変だからという理由での転院もあるけど。そういう理由なら担当医と話をすれば割とスムースに転院できるとは思うけど。でも、こっちで入院していた方がいいのじゃない? 涼子のご両親も近くにいるし、私も何かあったら助けてあげられるし。東京の病院じゃ、涼子ひとりだよ」

 そうねと言って、涼子は話を打ち切った。


「急に転院がどうとか言い出すから何かあるなと思ったけど、そういうことなの」

 三日後、ひとりで見舞いにきた真紀に、涼子は復縁をもちかけられたと打ち明けた。

「それで、どうするの?」

「まだ返事はしてない。よく考えておいてほしいって言われて」

「それにしても急な話よね」

「もともと離婚したくはなかったらしいし、誠のこともあって――」

「こういう言い方は何だけど、お金で涼子を釣って誠くんを取り戻そうとしているように感じるけど」

「実際そうなのよ」

 真紀に向かって涼子は苦笑いを浮かべてみせた。

「彼、子どもは好きなの。結婚してすぐにでも子どもが欲しいと言っていたくらいだから。私のことは、多分、子どもの面倒をみてくれる人間だぐらいにしか考えていないと思う。彼女の子がダメにならなかったら、誠のことがあったにしても、私とヨリを戻すそうなんて考えなかったと思うわ」

 涼子はベッドの誠を見やった。熱の下がった誠は見た目だけならすっかり元気になってベッドの上にじっとしていられなくなった。枕を山に見立て、家から持ってきたラジコンのダンプカーをその上に走らせて遊んでいる。

「でも私にとっては悪い話じゃない」

 涼子は雅弘の言葉を真似て繰り返した。

「遠藤さんに気持ちはあるの?」

 真紀の質問に、肯定的な返事はできなかった。涼子の沈黙を、真紀は否定の意味でとらえたらしかった。

「ATMだと思って我慢するつもり?」

「誠のためよ。それに、彼は誠の父親でもあるんだし」

「それでいいの? 前にも言ったと思うけど、子どもといる時間なんて長い人生の間でわずかなんだよ。誠くんが自立したら、涼子は遠藤さんとふたりきりになるんだよ。気持ちのない人と一緒にいられるの?」

 誠が二十歳になる時、涼子は四十九歳だ。寿命まで生きるとしても約三十年。誠と過ごす二十年よりも長い時間を雅弘とともに歩む。考えるだけでもぞっとする。

「涼子、何だか自分を罰しているようだわ」

「罰せられるだけのことをしたわ」

「付き合っていた彼のこと?」

 母親だということを忘れて男に走った。その罰として、愛情のない男と一生ともに過ごさなければならない。だが、その罰を甘んじて受け入れたならば、誠は十分な治療を受けることができる、大学にだって進学させてあげられるかもしれない。

「お金は大事だわ」

「それはそうだけど……」

 シングルマザーの真紀だからお金の重要性は痛いほどわかっているだろう。金がすべてではないともわかっていながら、真紀はそれ以上何も言わなかった。

「学校、どうするの?」

「休学の手続きを取ったわ……」

 女手一つで誠を育てていこうと通い始めた栄養士専門学校だったが、誠の入院が延びるにつれ、通うのは無理だと判断した。今、誠は母親を、涼子を必要としている。勉強はいつでもできる。しかし、誠のそばに寄り沿っているのは今しかできない。決断に迷いはなかった。

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