第5話 ハルシオン

 行き止まりにたどり着いた日、僕は本当に沙耶に会いたいと思った。自分でも不思議なほどに、彼女なら何でも話ができる、そう感じた。今の状況も、自分がこれから考えていることも。彼女なら、理解してくれるような気がした。

 沙耶に電話をした後、僕は突き当たった道を真っ直ぐに引き返した。畦道は来る時と何も変わらなかった。どこにも寄り道せず家に帰った。何も目を振らずに帰った。生活の隅々に潜む迷いそのものが、すっかり消失してしまったような気がしていた。それは不思議な感覚だった。全能感にも近い、しかし、あまりにも絶望的な気分だった。

 帰宅してすぐ、煙草に火をつけた。ニコチンとタールが、重く肺にのしかかった。それが心地よかった。僕は、今こうして寿命を削っている。その事実は、僕を慰めた。行き止まりという言葉が、ずっと頭の中をハエのように飛び回っていた。それは醜い音をたてながら、僕を執拗に攻め続けた。だが僕は、それでも超然としていた。行き止まりに行き着くことなど、とうにどこかで気づいていた。いつか来るかはわからなかったが、きっといつか来るだろうと思っていた。それが、たまたま今日訪れただけの話だった。それはきっと、脳卒中で倒れるのと大して変わらないだろう。死ぬその瞬間まで、当人は超然としている。何も知らずに。

 灰皿の煙草だけが増えていった。同時に時計の針は淡々と進んでいくのをやめなかった。行きどまった僕にも、時間が味方することが不思議だった。すでに僕は、死んだような気になっていた。過剰に脳に取り入ったニコチンが、頭をクラクラとさせる。酩酊したように、僕は煙草を吸い続ける。自分は自棄になっているのか。それとも、意識の上と同じく、正常なのか。それは僕には判断がつかなかった。

 煙草を吸いすぎたおかげか、全く空腹を覚えなかった。夕飯を食べる手間が省けるのが、単純に嬉しかった。今日はもう、ハルシオンを飲んで寝ようと思った。ハルシオンは、カウンセラーに不眠だと話をして処方してもらっていた。実際、僕が不眠であることはなかった。ただ、僕は生きることへの保険が欲しかった。いつでもこの、苦の連続たる生の道から逸脱する銃を持っていたかった。

 本棚のウェルテルの悩みが目についた。ウェルテルは幸福だった。彼ほど幸福な人間は、存在しないだろう。僕はウェルテルにはなれない。彼ほど熱烈に何者かを愛した経験などないのだから、最愛の人から銃を渡されることはない。事実、僕の銃であるハルシオンは静かに僕自身の手に取られるべく、戸棚の中で息を潜めている。

 僕の銃弾はいつでも銃口を飛び出るべく支度を整えている。しかし、まだその引き金を引くのは早い。僕は、僕のしたいことを成してから引き金を引くと決めた。まずは、沙耶に話をしたい。それから先は、どうなるか僕にもとんと知れない。

 数日前から飲み始めたウイスキーでハルシオンを流し込む。意識の混濁はすぐに訪れた。闇に引き摺り込まれていく。どこかで、死の感覚は永遠の奈落に落ちるのに似ると聞いたことがある。眠りと死も、そういった意味では大して変わるところがないだろう。

 

 夢は救済である。それは抑圧された無意識の解放である。それは現実でないことにおいて、まさに至極の快楽である。たとえそれが想像を絶する悪夢だとしても、身に余る幸福な夢だとしても、何ら変わるところがない。どれをとっても、現実よりは幾分かマシである。

 眠りは、日々訪れる自殺である。

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