第10話 恋愛
「あの、津野さん。恋愛って何ですか。」
昼休み。休憩室には私と津野さんだけが昼食をとっていた。他の皆は仕事に邁進している。忙しないショールームや事務所と比べて、ここはいたって平穏だ。
「おおう。いきなりだねえ。」
津野さんはただでさえ丸い目をさらに見開いて驚いている。その表情が大げさでおかしくて、私は笑いを堪えるのに必死だった。背後ではテレビの音が聞こえる。どこかの芸人が、メロンパンを食べてうまいだのなんだのと喚いている。
「いきなりですけど、津野さんくらいしか聞ける人もいなくて。」
事実だ。友達もいなければ、身内にもそう言った話ができる人物のいない私の狭い人間関係の中では、適任者は職場の人間しかいなかった。自分でも情けないように思う。場違いな質問だと言うのも承知している。だが、昼休みの戯言だと思って、どうか許してほしい、と口には出さないが願った。
「恋の悩みなんていいねー若いねー。お姉さんがお話を聞いてあげよう!」
津野さんの目が輝いている。テレビは相変わらず五月蝿い。
「恋愛って、どうやって始まるんですか。」
「君、中学生みたいなこと聞くね。」
正面の席に腰掛けた津野さんは、先ほどとは打って変わって真面目な顔で話を聞いてくれている。ふざけている印象が強い彼女だが、根は優しく、面倒見が良い女性だ。それは新人の私がよく知っている。
「ありきたりに言えば、どちらかがどちらかに好意を持ったら、じゃないかな。」
「好意…ですか。」
好意。好意は確かにある。だが、それは恋愛に繋がる好意なのか?家族や友人に抱くものと何か違うのか?経験に乏しい私にとって、判別をつけるのは楽ではなかった。
「例えば、そうね。ある人を独り占めしたくなったり、ふとした時にその人のことばかりを考えていたり。露骨に言えばもう少し色々あるけれど、それはいわなくてもわかるでしょ。」
うーむ、と唸る私を見ながら、津野さんは困ったように笑っている。こうして相談に乗っている津野さんは、年上のしっかりした女性という感じがする。普段の仕事中は、残念ながらそうは思えないが。
「なんだお前ら職場で女子会か。」
事務所から弁当を持って現れた高村さんが、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら茶々を入れる。そのまま津野さんの隣に腰掛けた。
「ちょっと高村。真面目な相談のってんの。恋愛とは何か、って沙耶ちゃんがね。」
「は?その年で?お前ガキか?」
高村さんの笑みが深くなる。嘲笑というと言い過ぎだが、明らかに私をからかって遊んでいる目だ。
「じゃあ大人の男、高村は恋愛ってなんだと思うのよ。」
「俺か。そうだなあ。」
弁当を頬張りながら考える高村さん。津野さんはそれをジト目で睨んでいる。この二人ははたから見ていると面白いが、仕事上は相性が悪い。村上店長はこの二人の扱いに四苦八苦していると、副店長から愚痴を聞かされたことがある。
「簡単だ。相手とやりたくなったらそれは恋愛だ。」
津野さんが盛大なため息をついた。私もそれに釣られた。
「あんたに聞いたのが間違いだったわ、この色情馬鹿。」
「でも事実だろ?それがなきゃ異性関係にはならねえし。」
「まあ…大切ではあるけど。それじゃ身も蓋もないじゃない。」
「家族愛だとか、友情だとかとの一番の違いはそれだろ?つまり、やりたいかやりたくねえかだ。ちなみに俺はさっき来た新卒の可愛い客に恋愛を感じた。」
「店長にチクるぞ。セクハラ野郎。」
テレビは相変わらず無意味な笑い声を流し続けている。漫才のような会話を前に、私の脳裏は混乱していた。現実が遠ざかっているように感じる。脳の中に、現実が埋没していくような感覚。思考に、意識が定まっていく。
私が秀一に向けている情は何か?友情か、他の何かなのか。サラダを頬張りながらいくら考えても、答えは出ない。高村さんのいう通りだとしたら…それはどうなのだろう。考えたこともない。
「村上店長。」
事務所に戻った私は、ふと目に入った店長に声をかけた。
「どうした。」
「恋愛って何ですか。」
店長は無表情のまま、
「俺はお前の先生じゃねえ。俺に聞くな。津野にでも聞け。あとお前、仕事しろ。」
「はーい。」
仕事はその後もなんの変哲もなく終わった。
その日の帰り道は、やたらとカップルが目についた。彼らはどうやって、そういう関係になったのだろう。気になり始めると、好奇心は止まらない。皆幸せそうな顔をして、パートナーとあれやこれやと話をしている。家族や友人に向ける笑顔とは、どこか質の違う表情で。私はそれを見て、自分にもあんな表情ができるのだろうか、と不思議に思った。
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