第11話 友人?
いつもの喫茶店。そう言うのが、やっと板についてきた頃。
外は雨に濡れている。道路の其処彼処は水たまりで、その中に無機質な空を映している。
店内のジャズに雨音が混じる。睡魔を誘う組み合わせだ。鼻腔をコーヒーの香りと、雨に巻き上げられた埃の仄かな匂いがくすぐっている。雨が運ぶ哀愁は、嫌いではない。ノスタルジックな気分にさせられるのは、悪い気持ちはしない。何故か子供の頃を思い返させるからだ。純粋だった自分を思い返すことができるのは、幸福に他ならない。
「傘、持ってこなかったわ。今日。まさかこんな雨になるなんて。」
沙耶は頬杖をつきながら外を眺めている。僕はその横顔に、ポートレイトのような芸術性を感じた。僕が写真家なら、今この時とばかりにシャッターを切っただろう。哀愁は芸術を構成する大きな一つの要素だ。僕はそう思う。
「帰り道、大丈夫か。」
「近くのコンビニで安物のビニール傘でも買うわ。それに、まあ濡れても死にはしないから。貴方と別れた後は、家に帰って寝るだけしか予定もないし。」
目の前ではモカが酸味を湛えて香っている。それに沙耶のゴロワーズの香りが混ざる。ゴロワーズは複雑な香りとしているが、それも慣れてしまえば心地の良いものだ。心地よい親しみのある香りは、人を安心させる。僕は、確かにこの空間に安心を見出すようになっていた。それは沙耶という人間そのものに対しても、同じことが言えた。
「ねえ。」
窓の外の雨を眺めたまま、沙耶が口を開く。その声の響きに、僕は何かいつもと違うものを感じた。雨音が、激しさを増している。
「恋愛って、なんだと思う?」
なんとも不思議な質問を口に出したにも関わらず、沙耶の表情は変わらない。視線は相変わらず外に向けられている。それが雨を見ているのか、傘をさす往来の人々に向けられているのか、それとも窓を伝う雨粒を追っているのか、それは本人にしかわからない。ただなんとなく僕は、その視線の見る所を知りたいと思った。
「恥ずかしながら経験がなさすぎて、僕にはわからないね。」
これが僕の正直な言葉だった。わからないものはわからない。それに、沙耶に嘘をついても、どうせ見抜かれてしまうだろう。ここ何度か会っていて気が付いたが、彼女は意外と鋭い。他者にあまり興味を持っていなさそうだが、観察眼や直感が優れているのだろう。彼女を会話をしていると、何もかもを見通されているような、そんな気分に陥る瞬間がある。
「…私もそうだから聞いてるの。ちょっと一緒に考えてみない?」
「別に構わないけど、一体なんの風の吹き回しだ?」
沙耶はゴロワーズを一度吹かした。口紅に彩られた唇から、白煙が漏れる。見事な紅白は、美しいコントラストで空間を染め上げる。
「ただの気まぐれ。あと、興味本位。」
そう呟く横顔が、煙で朧げに曇る。
「考えるにしても、何かとっかかりがなきゃ考えようもないぞ。」
「それもそうね。」
沈黙が続く。僕には、この世界で煙草の煙だけが動いているかのようにさえ思えた。それは、不思議と居心地の悪くはない瞬間だった。
「じゃあ、友人と恋人の違いから考えましょう。」
フィルターだけになったゴロワーズを揉み消した沙耶が、気だるげに言う。僕もそれに賛同した。他に何も対案を持ってなかったから。
「距離感じゃないか。友人と恋人じゃ、互いの距離感に違いがあるだろう。」
「距離感ね。それなら、パーソナルスペースの問題になるのかしら。」
「ああ、他人に入られると不快感を覚える範囲、だっけ。」
「そう、それ。」
僕も煙草に火をつけた。モカはまだ半分以上も残っている。冷めつつあるそれは、もともと強めな酸味をさらに増して、ニコチンとタールに塗れた舌を刺激的に洗い流す。
「つまり噛み砕くと、恋人は友人より心を許せる関係にある、と。」
沙耶はコーヒーのおかわりを注文した。マスターが丁寧な所作でカップを下げる。僕はそれを、ぼうっと見ていた。思いつく限りの一般論を口に出してみたものの、人間関係の距離感とやらが詳しくわかるほど、僕は人付き合いに慣れていない。そしてきっと沙耶も大して差はないだろう。
「ああ、でも。」
コーヒーを待ちながら、沙耶がふと気づいたように声を出した。彼女には珍しいキョトンとした呆けたような表情に、思わず笑ってしまいそうになる。率直に言って、あまり似合わなかった。彼女は普段のように気だるげに目を伏せているのが、似合いすぎている。
「私、友人いないからわからないわ。」
「…。それは、僕も同じだから何も言えない。」
漫才のような会話に、頭の中で自嘲する。僕らは自分たちの届かない場所の光景を、必死に想像しているだけなのではないだろうか。そうだとしたら、この問答はひどく滑稽ですらある。
「そもそも、私たちは友人?」
「友人なのかねえ。」
沙耶の疑問は最もだ。友人を今まで持たなかった僕らは、つまり友人を知らない。まるで生まれたばかりの赤子だ。こうして何度も会って、時間を共にしているが、それだけで友人と呼んでいいのだろうか?僕にも沙耶にもそれがわからない。ただ、世間一般で言う友人というものとは、どこか一線ズレた場所に僕らの関係は位置しているような、そんな気がしていた。
カウンターの奥から、ハンドドリップの音と共にふわりとコーヒーの香りが漂う。それは僕らの煙草の悪臭を隠して余りあるほどに芳醇で、濃厚だ。
「まあ、少なくとも恋人ではないだろう。」
「そうね、きっと。」
それだけはわかった。僕らは恋人ではない。知り合いかもしれないし、友人かもしれない。他の何かかもしれない。だがしかし、恋人ではないのだ。
ただ、『きっと』と言った沙耶の返答が、心の隅にちくりと刺さった。その正体が何かは、今の僕にはわからない。
「ねえ、もう面倒だし、私たちが友人って言えば友人ってことでいいんじゃない?」
早くも自ら切り出した話題に飽きを見せ始めた沙耶が、投げやりに呟く。マスターが新しく淹れたコーヒーは、沙耶の右手の中で芳しい香りを、湯気と共に空間へお送り出している。
「そんなもんかね。」
「そんなもんなんじゃないかしら。世間なんて案外適当かもしれないし。」
沙耶のコーヒーの香りにつられて、僕もおかわりを注文した。
「曖昧なもんだ。」
「人間関係なんて目に見えないし。どうだって言えるわよ。たぶん。」
目に見えないものを定義することは難しい。当たり前のようで、忘れがちなことだ。僕らは心やら精神やら、思想やら何やらを定規で測ったかのように正確に表現しようと躍起になっているが、それが正確かどうかを本当に確かめる術など存在しない。
「じゃあ、僕らは友人。それでいい。」
「あー、生まれて初めて友人ができたわ。」
感動も何もない沙耶の呟きが、僕には心地よかった。彼女はいつも捉えどころのない煙のような存在だ。それでいい。
僕はそれと煙草の煙を一緒に見ているのが、好きだから。
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