第12話 夜

「たまにはカフェから出てみないか」

 モカを飲む秀一から発せられた言葉は、私の予想外のものだった。私たちが会うのは、このカフェの中だけだった。何故という理由があるわけではない。ただ、なんとなくそれが一種の線引きのような気がしていたからだ。それはきっと、秀一も一緒だろう。

「いきなりどうしたの」

「特にどうってわけじゃない。運転したくなっただけだ」

「へえ、運転、好きなの?」

 秀一はもう一度モカに手を伸ばした。

「ああ、何も考えなくていいし、車は人間みたいに面倒じゃなくて素直だからな」

 コーヒーをお互い飲み干すと、私たちは初めてこのカフェを一緒に後にした。秀一の車が駐められている駐車場は、そう遠くなかった。ひんやりとした夜風が気持ちのいい夜だった。

「案外いい車乗ってんのね」

「生憎金をかけるものが車くらいしかなくてね」

 助手席の窓の外を街が流れていく。家々の明かりが、走馬灯のように流れる。

「ねえ、煙草吸ってもいい?」

 胸ポケットに伸ばした手を、秀一に止められた。

「悪いが禁煙車だ」

「自分も喫煙者なのにケチなこと気にするのね」

「喫煙者だが、別に後に残った煙草の匂いが好きなわけじゃない」

 車は市街地を抜け、郊外の峠道を駆け上っていく。久々に乗る誰かの車の助手席は、居心地がよかった。これで煙草が吸えれば完璧なのに、と手持ち無沙汰になった右手を揉みながら思う。横目で見た秀一の横顔は、いつも通りどこかぼうっと遠くを見ているようだった。

 車はやがて、夜景で有名なとある公園の駐車場へと滑り込んだ。私たちの他に、人影は見えなかった。

「意外とベタなスポットに連れてくるのね」

「他にあてがないんだ」

 ドアを開けると、市街地とは違う冷気を帯びた風が首筋を撫でる。マフラーを持って来ればよかったと、今更ながらに後悔した。降りた瞬間にすることは、お互い同じだった。ポケットから煙草を取り出して火をつける。それから、どちらからともなく歩き始めた。

「夜景、好きなんだよ」

「綺麗だものね」

「まあそれもそうなんだが…」

 煙を吐きながら、秀一はゆっくりと歩いていく。行くあても知らない私は、ただその横を離れないようについて行った。

「ほら、こうやって上から夜の街を見下ろすとさ。あの明かりの数以上に人が暮らしてるんだなって当たり前な事に気付くんだよ。それだけの人に、それぞれの人生があるんだって。バカみたいな事だけど、そう思うと、なんか気が楽になってな」

 秀一はそう言って、足を止めると、夜景を静かに眺め始めた。私も、隣でそれに倣う。家々の明かりに、お互いの吐く煙草の煙が重なる。それは、吐く息の白さと区別がつかなかった。手が凍えているのを感じた。落下防止に作られた金属製の柵は、無機質であまりにも冷たい。

「さっきまで私たちもあの中に居たのよね。そう考えると、不思議な気分」

「だろう」

 無言の時が続いた。特に話すことがなかった。それでいいと思った。無理に話をするのは、仕事の時だけで十分飽き足りている。沈黙が心地いいのは、悪いことじゃない。時が止まったかのように、私たちの周囲は静止していた。しんみりと静まり返っていた。眼下の夜の街だけが、車のヘッドライトや信号の点滅などで忙しなく動いていた。風の音さえ止んだ気がした。実際はどうだったか、わからない。

「ねえ」

 何分か経った後、寒さに耐えかねた私はある提案をすべく、秀一に声をかけた。

「お酒飲みたくない?どうせ明日何も予定ないでしょう」

「確かに予定はないから、別に構わないぞ。ただ俺は女を連れてく洒落た飲み屋なんて知らないからな」

「心配いらないわよ」

「おお、エスコートしてくれるのか」

 私は、今から自分の発する言葉が、どういう意味を持つのか知っていた。しかし、それ以上に、その言葉を聞いた秀一の反応に興味があった。なぜか得意げな気分だった。

「私の家で飲めばいいでしょう」

「は?」

「だから、コンビニかどっかでお酒と肴買って私の家で飲めばいいじゃない。車だって置いておけるし、泊まっていけば翌朝には貴方の酔いも冷めるでしょ」

「…はあ?」



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