第9話 喫茶店まで

 僕は不安で仕方がない。もう一度、手に入れてしまったから。

 毎週金曜日、沙耶と会う。僕にとって、大切な時間だ。今の僕は、学校以外社会や人との関わりを持っていない。その中で、唯一僕らしく話ができるのは、沙耶だけだ。紛れもなく、沙耶は僕にとって大切な存在になっていた。

 喫茶店への道を歩きながら、僕は考える。沙耶という存在を。彼女に、僕が求めていることを。僕が大切なものを持つなど、烏滸がましい。わかっている。わかってはいるが、僕は彼女が欲しくてたまらなかった。今だってそうだ。僕は彼女という存在そのものを欲している。これは性欲ではない。愛情とも異なる。恋などという甘酸っぱく、瑞々しい感情でもない。もっと、心の奥底で、穢れているような、それでもどこか澄み切っているような、危険な欲求。僕が沙耶に抱いているのは、それだ。

 頭上を通り過ぎる歩道橋は、錆びに塗れて血の匂いを放っている。雨降りの空に、それは嫌に似合う。透明な安っぽい傘越しに眺める空は、どこまでも灰色をしている。足元からは不快な感触が伝わって来る。泥を踏み潰す。僕は、雨の日が嫌いだ。汚物の上を、歩いている気になるから。

 歩道橋を潜ると、視界の端に喫茶店の看板が見え始める。すると、いつものように僕は恐ろしくなる。約束の時間に、沙耶は訪れないのではないか。僕は、何か失言をしてしまうのではないか。今日で終わりにしようと、沙耶から言われるのではないか。

 今にも僕の足は止まりそうだ。痙攣を繰り返すように、一歩一歩がぎこちなく、重い。それでも少しずつ、少しずつ喫茶店は近づいて来る。僕の不安はますます強くなる。ここで、踵を返してしまおうかと幾度となく考える。そうして、もう沙耶とも連絡を取ることをやめて、以前と同じようにまた孤独の日々に戻ったのなら、こんな不安に怯えることもない。

 だが、沙耶の顔が頭をよぎる。拭いきれない他者とのつながりを求める心が、それを掴んで離さない。彼女が煙草を吸っている情景が、美しく脳裏に描かれる。僕は、ずっと彼女に憧れている。

 一歩がどれほど重くとも、歩を進めればいずれ目的地に辿り着く。それは何においても同じだ。終わらぬ空間はないし、終わらぬ物事はない。それが抽象的なものであるとしても。僕の目の前には、見慣れた喫茶店の扉がある。

 いつものように、意を決して僕は扉に手をかける。カランコロンと軽妙な音をたてながら、それは簡単に開いた。左に目線をやると、ゴロワーズを吹かすスーツ姿の沙耶が目に入った。僕は、それに安堵と愛しさを覚えると共に、彼女を関わる限り永続的に続くであろう、僕の自業自得な不安の渦を呪った。それを必死に取り繕いながら、声帯から音を絞り出す。


「待たせたか。いつも遅れてすまないな。」

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