第8話 新しい日常の中の非日常

 毎週金曜日の十九時。郊外の喫茶店。そこで私たちは話をする。特に新しい話題に富んでいる日々ではないというのに、毎週飽きずに。

「ご注文は、本日もモカとマンデリンでよろしいでしょうか。」

 マスターにも顔とお気に入りの豆を覚えられた頃、それでも私たちは再会した当初と何ら変わっていなかった。ただ、秀一は喫煙を隠さなくなった。お互い無言で煙草を吹かす時間が増えた。会話に大した変化はない。その時思ったことを、ポツリと話す。それを相手が聞く。何か思えば、返事をする。コミュニケーションを取ろうと思っている訳ではない。ただ、お互いが話したいことを話しているだけ。それが、私には心地よかった。

「最近ね、ショウペンハウエルのさ。『自殺について』読んだのよ。やっぱ哲学って難しいなーって思いながら読んでたんだけど、いざ最後まで読み終えてみると、結構アレって暴論よね。」

 秀一はゴロワーズを吹かしながら呆けている。焦点が定まらない目に、可笑しさを覚えた。

「死って、世間一般じゃ恐ろしいものだし、善悪で言えば悪じゃない?…まあ私はあんまりそう思わないけれど。ショウペンハウエルと同じ捉え方をすると、ただの変化に過ぎないのかもね。眠りだって同じようなものだもの、考えてみれば。」

「眠りと死が同じか、随分と悲観的になったじゃないか。」

 悲観的と言われて、私は立ち止まって考える。眠りと死が同じものだとして、それは私にとって嬉しいことだろうか、悲しいことだろうか。少なくとも、私は日々眠りにつくことに安心と喜びを感じている。日々、眠れることは幸福だ。意識がある時の雑多な思考や物事の乱雑な洪水は、私を疲労させる。眠りは、その疲労を回復させてくれるだけではなく、その原因からも遠ざけてくれる。では死は?

「貴方は、どう思うの。」

 秀一はコーヒーを啜りながら、どこか優しげな目をしていた。私は素直にそれを珍しいと思った。彼の目は、大抵いつも鋭いか虚無かの二つに一つだから。

「救いだね。」

「救い?」

 私は煙草に火をつける。ふわりと白煙が舞う。古風な喫茶店の木製の壁を背景に、煙が無数の曲線を描く。刹那のそれは、美しい。

「眠りと死が同じだとしたら、それは僕にとっては救いだ。わざわざ死ぬ必要がなくなるからな。睡眠薬さえあればいつだって全てから解放される。素晴らしいじゃないか。」

「睡眠薬、常用してるの?」

「ああ、どうも最近眠れなくてね。」

 そう言いながら秀一は笑った。私は、その飄々とした余裕に、嫌な雰囲気を感じた。兄に似ていたからだ。それは、私にとってある種の喜びではあるが、同時に最悪の結末を予感させる予兆でもある。

「眠るのは構わないけど、死んじゃダメよ。」

 常識的な言葉だ。常識。ヘドが出る。だが、私のこの常識は、私欲に塗れている。私は死がいけないことだと思ったことはない。私の考えは、結局のところいつまでたっても常識の安全な川沿いを歩くことはできない。

「意外だ。沙耶は、案外マトモな死生観の持ち主なのか。」

「茶化すような冗談やめて。死ぬことなんてどうでもいいの。悪いとも良いとも思わないわ。ただ、私の知り合いである以上、私と関わっている以上、私の目の届く範囲で勝手に死なないでと言ってるの。私は貴方に死なれたら不愉快。ただそれだけ。」

 捲したてるように話して、少し恥ずかしくなった。感情を露わにする事は、裸になるのと等しい。秀一は、そんな優しい目で私を見ていた。彼にしては珍しく、私が話終わるまで視線を外さずに。

「僕も、沙耶が死んだら不愉快だ。これだけ言われたし、気をつけるとしようかな。眠りで当分は我慢しておくよ。たぶんね。」

 マンデリンの一杯目は尽きかけている。だが幸い、ゴロワーズはまだ箱にぎっしり詰まっている。右手首の猫をあしらった時計は、二十時を指している。まだ夜は浅い。急ぐことなど、何もない。秀一が次の煙草に火をつける。私もそれにつられて煙草を取り出す。人は好意のある相手の行動を真似るという。上辺だけを見知った心理学の一文が、脳裏をかすめる。種別がなんにしろ、私が秀一に好意を持っているのは間違いないだろう。好意?…好奇心か、依存心か、その正体はわからない。

 その後も取り留めのない会話を続けた。煙草が燃え尽きるように、あっという間に時間は過ぎて行く。いつだってそうだ。時間は私たちを置き去りにする。この古びた喫茶店で私たちが世界から見捨てられたような錯覚を感じた。あるいは、私が気づいていないだけで、それは錯覚ではないのかもしれない。

 今日は秀一と話をしている間ずっと、兄の笑顔が脳裏から剥がそうとしてもどうしても剥がれ落ちなかった。楽しい時間の後の寒々しい帰り道は、いつだって寂しい。

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