第7話 兄
秀一と別れたあと、私は夜の街を歩きながら、考え続けていた。とうに考えすぎて、腐り落ちたある物事について。
私には兄がいた。四つ上の、優しい人だった。兄は唯一の兄妹だった私を可愛がってくれたし、私も兄のことを慕っていた。幼い頃からの仲の良さは、兄が高校へ行っても大学へ行っても変わらなかった。周りからは異常だと言われた。兄妹で仲が良すぎる、とたまにからかわれることもあった。でも、私にとってはそれが普通だったから、何が異常なのか、わからなかった。だから、いつも笑って受け流していた。
兄は二十歳になるとすぐ、煙草を吸い始めた。両親はぶつくさと度々反対していたが、何故か反抗など滅多にしない兄が、不思議と強情に煙草だけは吸っていた。高校生だった私には、煙草の良さはわからなかったし、何故兄がそれに固執するのかもわからなかった。銘柄はゴロワーズだった。兄はそれを最初からずっと愛飲していた。私が臭いと言うと、これは味がいいんだと笑いながら答えた。軽口を言い合うのは、私にとって幸せだった。
大学へと進学した私は、一人暮らしを始めた。実家を、兄から離れるのは寂しかったが、どうしようもなかった。一年後、兄は就職を決めた。たまたま、私の住んでいるアパートから近い場所だった。両親は、女の一人暮らしは危ないし、経済的にも楽だろうからと、兄と私に同居を勧めた。特に反対する理由もなかったし、兄とまた一緒に過ごせるのは、私にとって幸せだった。
就職してすぐの頃、兄はいつも楽しそうに出勤して、疲れを見せながらも笑顔で帰宅していた。いつも同僚や店長、先輩の面白い話を私に聞かせてくれた。兄と話しながら夕飯を一緒に食べるのは、私の毎日の楽しみだった。
半年ほどがたった頃、兄が出勤前に面倒臭がることが増えてきた。仕事に行きたくないとふざけながらよく駄々をこねていた。私はそれを笑って見ていた。深刻には見えなかったから。今思えば、この時話を聞いていればよかったのかもしれないと思う。後になって知ったことだが、この時には職場を移動していたらしい。兄が、私にそれを伝えることはなかった。
兄が就職して一年程たったある日、仕事から酷い顔で帰ってきた。完全な無表情だった。私には、それが何よりも恐ろしい表情に見えた。ただいま、と兄が言った。私はおかえり、と応えた。きっと疲れているだけで、いつも通りの兄だ。そう自分に言い聞かせた。この頃から私に会社の話をしてくれなくなった。私は兄が仕事の忙しさで疲れているのだろうと思い、特に何かを尋ねる事はなかった。ただ気がかりだったのは、兄の喫煙量が一年前の倍に増えていることだった。
人の人生を左右するような出来事が起こる日も、何もない平和な日も、等しく変わりなく訪れる。私と兄にとっても、それはいきなり訪れた。いつものように無表情で帰ってきた兄は、夕飯を食べながらポツリと呟いた。
「沙耶、俺は、お前を女として見てしまっているのかもしれない。自分の考えていることが、よくわからない。」
独り言のように小さな声だった。苦悩に満ち溢れた声だった。絶望的な声だった。私は、結局それを救うことができなかった。聞こえないフリをして、笑いながらテレビを見た。どうすればいいか、わからなかった。自分の気持ちも、わからなかった。誰かに心を覗いてもらって、診断してほしい気分だった。
その二日後。兄は仕事から帰ってこなかった。何度携帯に電話をしても出なかった。朝出かけるときに変わった様子はなかった。事故にあったのかと思って、兄の通勤ルートを歩いた。どこにも兄の影さえなかった。兄の乗っていた車も、行方知れずのままだった。
次の日。兄の会社に電話をすると、先日から兄が無断欠勤していると告げられた。私は、困惑した。兄が姿を消した。どこへ、なんで。事故?事件?疑問がぐるぐると脳裏を回っていた。食事も何も手につかなかった。兄のことしか考えられなくなっていた。私からの電話を受けて田舎から車を飛ばしてきた両親と一緒に、ただ当てもなく、兄の影を探して街中を彷徨った。
そんな日々が数日続いた。その日の朝、兄は、死体で見つかった。アパートから徒歩五分の、薄暗いゴミだらけの雑木林の中で。一際大きな木に、独りで首を括って死んでいた。見つけたのは山菜を取りに林に入った近所の人らしい、と泣きじゃくる母から聞いた。私は、兄が見つかったと聞いた時から、数日間の記憶が今でも、ない。
兄は遺書を足元に残していた。大半が謝罪の言葉だった。私には、一つ別の便箋が残っていた。兄は、私を残して死ぬことを悔いていた。何度も何度も、謝っていた。遺書の最後で、兄は私を愛していたと明言した。だが、「どう」愛していたかは書かれていなかった。それは、いまだにわからないままだ。
直接的な自殺の原因は、職場の移動に伴う鬱だと判断された。兄の苦悩や兄の人生が、鬱の一文字で無感情に紙の上に表現されているのを見て、私は無性に悲しくなった。どうしようもない悲しみと悔しさに襲われて、兄が死んだと聞かされてから、初めて泣いた。
私は、兄を愛していた。誰よりも何よりも愛していた。狂おしく愛していた。
恐らく、兄が私に抱いていたものも同じ愛だった。私は、今でもそう信じている。
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