第6話 再会

 秀一に指定された喫茶店は、静かな場所だった。客の出入りは少なく、落ち着いた雰囲気が漂っている。仕事が想定より早く終わり、時間を持て余した私は、約束の時間より早くこの喫茶店に来ていた。

「ご注文はいかが致しましょう。」

「うーん…苦めのものでオススメの豆ありますか?」

 初めて訪れる喫茶店では、オススメを聞くのが好きだ。好みだけ伝えれば、大抵の場合はそれに合わせたオススメを淹れてくれる。

「苦味の強いものでございますと…マンデリンなどいかがでございましょうか。最近良い仕入れ先を見つけまして、お勧めさせて頂いております。」

「では、それで。」

 窓の外には、郊外の中規模な駅前通りが広がっている。夕暮れ時に似つかわしく、スーツ姿のサラリーマンや制服姿の学生などがそれぞれ帰路を急いでいる。それは忙しくも、どこか長閑な風景だった。皆が皆帰る場所を目指し、歩いている。帰る場所があることは幸福だなどと、ゴロワーズに火をつけながら思った。

 数分後に届いたコーヒーは、美味しかった。煙草との相性も抜群で、仕事終わりの疲労が角砂糖のように溶けていった。疲労が溶けて、脳に余裕が生まれると、人は余計なことを考え始める。考える葦とはよく言ったものだが、私からすれば考えざるを得ない葦と呼んだ方がより正しいようにも思える。

 秀一をこうして待っている私は、どういうつもりなのだろう。一年前に素っ気なく縁が切れた友人と会って、何を話して、そこから何を得るつもりなのだろう。確かに、私は秀一の求めに応じてここにいるだけだ。だが、それに応えないこともできた。私はそれに応えた以上、何か思うところがあるはずだ。自分でもその核心が、靄がかって鮮明に見えない。一体全体、人の脳などというのは面倒なものだ。自分のことすら大して理解していないくせに、さらなる高みを常に目指して飛び級ばかり望んでいるのだから。

 ゴロワーズが三本目も燃え尽きかけた頃、喫茶店の古めかしい扉があいた。カランコロンと音がなる。チープだが、それはどこか洒落ている。入ってくる姿に、一年前の面影をみる。

「待たせたか。すまん。久しぶりだな。」

 昔と同じように、秀一が話しながら向かいの席に座る。メニューを見ずに、彼はモカを注文した。

「一年ぶりね。お互い生きてるようで何より。」

「残念ながらまだな。スーツ、似合ってるじゃないか。」

 私は仕事終わりにそのままこの喫茶店に来ていたので、服装は当然スーツだ。着替えたいのが本音だったが、家に帰るほど時間に余裕はなかった。一年前の私の私服と比較すれば、随分印象が異なることだろう。

「スーツは肩ばっかり凝って嫌よ。仕方がないけれど。」

 なんとなしに落ち着かず、またゴロワーズに火をつける。煙草の匂いが、コーヒーの香りと混じり合う。

「相変わらず煙草は吸うんだな。」

「やめられっこないわ。むしろストレスで本数増えたわよ。」

 話し始めてしまえば、昔と変わらない軽口の言い合いが始まる。それに私は、懐かしさとむず痒い居心地のよさを感じる。思ってみれば、仕事以外で人と会話をするのはひどく久しぶりだった。

「急に電話して悪かったな。驚いたろう。」

 秀一はコーヒーを啜りながら言う。その目は昔と変わらず、ここではないどこかを見ているかのように、中空を見つめている。私はその視線に捉えられることが恐ろしかった。昔のように、私は私を貫き通して今を生きていない。それが、彼に一目見られるだけで露見してしまうような気がして、目を合わすことができないでいた。

「驚いた。でも、私も少しは気にしていたから。」

 少しは。口から漏れる言葉は、当たり障りのないものだ。私は踏み越えてはいけない一線を探っている。孤独だけを好んでそこに属していた私は、変わってしまった。それを秀一と話していると、嫌が応にも知らしめられる。

「僕は少しじゃなかった。お前が退学してから、お前の影を見てた。…こう言うとストーカーみたいで気持ち悪いけどな。はっきり言えば、俺はお前のような生き方に憧れがあったんだ。孤独で、どこか孤高で。」

「…。」

 ゴロワーズが燃え尽きる。灰がスカートの上に落ちた。私は、自分の目の前に置かれたコーヒーを見ている。そこから、視線をあげることができないでいる。きっと今の秀一は、真っ直ぐした目をしている。私は、それを真っ直ぐ受け止めることができるだろうか。自信がない。

「それで、なんとかやって来たよ。せめて僕も自分らしくってさ。でも、そろそろ生き詰まりそうなんだ。だから、お前に会いたいと思った。」

「私に会って、どうするの。」

 声帯から言葉を絞り出す。空気に触れたそれは、震えて弱々しかった。急に私は情けなくなった。恥ずかしくなった。秀一は私を孤独で孤高と言った。確かに、退学前の私はそうだったのかもしれない。今はどうだ?毎日誰かに笑顔を振りまいて、見せかけの人間関係に埋没している。確かに心は孤独かもしれない。しかし、私はそれを偽って生きてはいないか?疑問が脳裏に浮かんでは消える。否定の言葉が去来する。自問自答は終わることもない。

「どうもしない。ただ、会って話がしたかった。」

「…私と会ったって、何も面白くないでしょう。」

 卑屈な言葉を吐く。私はそれが酷く醜いと思った。自己卑下は、自己防衛の一形態だ。自らを自ら貶めることで、他者から貶められる事態を回避する。あわよくば、相手はその言葉を否定してくれるだろう。打算に塗れた醜い言葉だ。

「面白くはない。だが、僕にとってお前と話すのは大切なんだ。」

「なんで。なんで私なの。」

 私は、私の言葉は弱々しい。いつのまにか、こんなに弱くなってしまったのだろう。昔の私は、もっと強かった。自分が自分らしく生きていた。私は私の思い描く私だった。今は、違う。それを、明確に意識させられる。

「なあ沙耶。顔上げてくれないか。」

 秀一の声は、強い。芯が通っている。それが伝わってくる。確固たる意志をもつ言葉は、強く響く。私は秀一の声に促され、恐る恐る視線をあげる。そこには、一年前と何ら変わらない秀一がいた。

「お前は社会に出て確かに変わったかもしれない。だけどな、きっとお前の根っこの部分は変わってないだろ。俺は、今でも目の前のお前に憧れてる。」

 目を離すことができない。秀一は真っ直ぐな目で、私を見ている。その視線が心に直接突き刺さる。痛い。心地よい。…痛い。

「別に特別親密になんてならなくてもいい。知り合いでも友達でも、たまに話す人でもなんでもいい。お互いの好きな距離で、お前の好きな距離でいい。」

「これからできるだけ僕の側に、いてくれないか。」

 言葉が突き刺さる。私は、この言葉を否定することができない。不器用で、真っ直ぐな言葉が、孤独を偽りの外面で塗り固めた私を貫通する。

 私は、答えることにした。以前のように軽口で。

「告白みたい。貴方らしくなくて面白いわ。別にいいわよ、適当な距離感で好きにするから。前みたいに。…それと、貴方煙草吸うようになったのね。」

「せっかくの喫茶店なのに、バレると気恥ずかしいから吸わなかったんだが。バレたか。」

「しかもゴロワーズ、でしょ。貴方本当に私のストーカーにでもなったの?」

 秀一からは、かすかに私と同じ匂いがした。フランス煙草の、独特な匂いが。それが私には、たまらなく嬉しかった。

「仮に僕がストーカーならこの場を借りてとっくに愛の告白をしてるさ。」

「でしょうね。」

「…煙草、車に置いてきたんだ。一本くれないか。」

「どうぞ。」

 くしゃくしゃのゴロワーズを胸ポケットから取り出す。それを見て秀一は、スーツ姿の女には似合わない煙草だなと、笑った。

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