第19話 喪失の恐怖
「貴方の番」
僕は、そう言う沙耶の顔を不思議な心持で眺めていた。ゴロワーズの白煙越しに見ることに、あまりにも慣れ過ぎていた。彼女は、僕の思っていたよりも、ずっと綺麗だった。
僕の手元のゴロワーズはもう空になっていた。ちょうどよい、そう思った。
「僕は、回避主義者だ。苦痛も快楽も、とにかく刺激のあるものは何でも回避してきた。逃げて逃げて、逃げて逃げた先になんとか道筋を見つけて、やっと何とか生きて来たんだ。だけど、やっぱり限界ってあるんだな。沙耶に電話した時が、そうだった。いや、明確にそうだったのかはわからないけど、僕はそう感じた」
沙耶はいつも煙草を持つ左手を、どこか落ち着かないように右手に沿えながら、それでも僕を真っ直ぐに見つめている。僕は初めて、テーブル越しの数十センチが、遠い、邪魔だと、感じた。
「最初は…そう。小学生の頃だ。僕はある年齢で転校したんだよ。でね、その先では何もかも違った。遊びも、言葉も、子どもたちの、考え方も。当時の僕にはわけがわからなかった。だって、昨日とは何もかも違う世界に、いきなり放り込まれたんだから。まあ、そんな僕でも、転校先で友人らしきものはできたんだ」
セピア色にぼやけた記憶を辿りながら、僕は心に痛みが走ることを感じていた。それは心地よいものではなかったが、僕がここで語るには、必要な痛みだった。
「今になればわかるけれど、人間って相性があると思うんだよ。それが良い人だとか悪い人だとかそういうことじゃなくて、単純にどうしたって組合わせられないパズルのピースみたいに。転校して初めてできた友人は、僕にとって人生で初めて味わう、それだった。戸惑ったよ。友人は僕に好意を向けてくれてる。僕だって、大切にしたいと思う。でも、何か違うんだ。一緒にいても、同じ遊びをしても、どうしても決定的に、歯車がかみ合わないんだよ。辛くて仕方なかった」
空いた二つのカップに、気を利かせたマスターが無言で次の一杯をついでくれた。今まで、注文しなければ次の一杯が注がれることはなかった。僕はマスターのその行為に、彼の歩んだ人生の長さと、その洞察力を感じずにはいられなかった。
「僕も友人も子供だった。だから、そのままでいることなんてできなかった。僕は、友人を放課後の図工室に呼び出して…それから、できるだけ頑張って話をしたよ。どうしても噛みあわないんだって。もちろん、へたくそに、でも正直に。そうしたらね。友人は泣きわめくんだ。僕を嫌いだからそんなことを言うんだ、君は僕が嫌いなんだってね。違うんだよ、好きだけど、噛みあわないんだって何度言っても、友人はそれを繰り返すばかりでさ。結局、担任の先生が事を治めてくれたよ。最後は僕もきっと泣いてた。覚えてないけれど。覚えてるのは、もう日が暮れかけていたことと、僕の中で何かが、崩壊して変化していく過程を感じていたこと、それだけ。次の日から、僕は学校へ行けなくなった。恐ろしくて仕方がなかった。何が恐ろしいかなんて、当時はわからなかったけど、とにかく何もかも恐ろしくなったんだ」
沙耶は、僕の長い語りを、微動だにせず聞いている。その目に、一切の冷淡さはなかった。それに、僕は安堵を覚えながら、心を抉り出して、続ける。
「それからさ。学校を避けて、人との交流を避けて、何もかもから逃げ始めたのは。自分が何かと関係を持って、それが崩壊したら、喪失したら、どれほど相手に損害をあたえるんだろうって考えたら、何もできなくなった。それは、もちろん、自分にとっても同じだった。だから、ただ一人でいるしかなかった。大学でもそうだった。少しは大人になってたから、表面上の付き合いくらいはできるようになっていたけど、深入りする気なんて全くなかった。それでいいと思ってたし、そうしなきゃいけないと思ってた。僕は、きっと誰かと深く付き合っても、最後はその前から消えてしまって、その誰かを深く傷つけてしまう。それがどうしても怖くて、逃げてた」
「最初ノートを借りた時のこと、まだ覚えてるわ。貴方の表情も声音も。冷淡になりきれてなんてなかったけど、すごく戸惑ってた。私を精一杯避けようとしているのは、いくら人間に鈍感な私でもわかったもの」
沙耶は、そういうと、窓の外を一瞥して、微笑んだ。暖かい笑みだった。僕の脳裏には、ノスタルジック、という言葉が浮かんで、消えた。
「そりゃ戸惑ったさ。女慣れだってしてないし、なるべく気配を消して生きていたかったのに、いきなりどこの誰とも知らない女から話しかけられたんだもの。…まあその前に、一度中庭で君を見たことはあったけれど。でもさ、そんな殻なんて関係なく、なんとなしに君は僕に関わろうとしてきたろう。わからなかった、意図が。でも、君と関わりたい気持ちはあったんだ。だから、中庭で何度もあったり、どうでもいい話を少しだけしたり、でも友人にまではならないような微妙な関係を保っていたんだと思う」
僕は大学の中庭を思い出していた。沙耶が、煙草を吹かしている。僕は何を話すでもなく、何を話せばいいかもわからず、ただその姿を少しだけ視界に捉えては、視線を外す。そんな不思議な日々を思い返していた。
「君が退学して、僕はまた孤独になった。また回避の日々が始まって、何もかも元通りになった。だけど、何か違った。一度生まれた誰かと繋がりたいって欲求は、僕の中でずっと燻ってた。だから、あの日に、君に電話をかけた。正直あの時はそう遠くないうちに死ぬつもりだったから、最後くらい我儘を通してもいいかなって。死を認識した時に、誰かと繋がりたいって思って、それで真っ先に浮かんだのが沙耶だったんだ」
「随分、はた迷惑な我儘ね」
「そうだろう。…でも、あの日、電話に出てくれてありがとう」
「いいわよ、馬鹿。恥ずかしいでしょう」
そういった沙耶は、大して気にしてなさそうに、ゆったりと珈琲を口元へ運んだ。その口元に、いつもより若干赤みの強い口紅を見出したのは、この時が初めてだった。
「それから君と会うようになって。いつも怖かった。君を失うのも、僕が君から離れていくのも。でもさ、自分でも不思議なんだけど、君はいつもちゃんとここで待っていてくれたし、僕も逃げずにちゃんとここに来た。…結局、僕は君に会いたかったんだ。シンプルな答えなのに、気づかなかった」
「私だって怖かったわ。いきなり来なくなるのかな、それとも、もう終わりにしようって言われるのかなって。でも、貴方はいつもちょっとだけ遅れて、ちゃんとドアベルの音と一緒に、ここに来てくれた」
「そんな風には全然見えなかった」
「お互い様よ」
僕が珈琲を飲むと、沙耶もそれに倣った。その媒体が、煙草ではないことに、何か純粋さを感じた。心地がよかった。モカの香りが、二人にいつも付き物だったゴロワーズの煙を打ち消した。
「それに気づいてさ。もういい加減向き合おうと思ったんだ。君なら、ちゃんと話を聞いてくれるって、思った。もちろん今でも怖いよ。この話の後に、僕らの関係が変わるんじゃないかって、不安で仕方がない。でも向き合うって決めたからには、話きらなきゃいけない。君が、そうしてくれたように」
「うん」
単純な相槌が、どこまでも僕にとっては、優しかった。
「僕は、君から逃げるつもりはない。君を失うのはたまらなく怖い。君に嫌われるのもたまらなく怖い。だけど、それを抱え続けながら、一緒にいたい」
『一緒にいたい』という重い言葉は、自分で考えていたよりも自然に放たれた。まるで告白じゃないか、と一瞬思った。だが、すぐに思い直した。
これは、単純に、告白だった。
「私も、貴方を失うのが怖い。いきなり、兄さんのように、私の前からいなくなるんじゃないかって。…だから、死なないで。私からだけは逃げないで。他の何から逃げてもいい、私はそれを見守る。ただ、私からは逃げない。それだけ、約束して」
「…約束する」
「じゃあ、決まり」
可愛い笑みだった。素直にそう思った。沙耶は、年齢よりも大人びていると思うことが多かったが、その笑みは、あまりにも純粋で、輝いていた。僕は、この人を愛している、必要としていると、心の底から感じた。モカの苦味も酸味も、全て甘さに変えてしまったかのような、今まで味わったことのない感覚が体中を駆け巡った。
「僕の話も、これで終わり」
自然と笑みがこぼれたのがわかった。僕は、おどけるように珈琲カップを手放すと、両手を軽くあげて、終了を示した。沙耶にはその僕の行動が珍しく見えたようで、一瞬驚いたように目を開いた後、屈託もなく、笑った。
「ねえ、提案があるの。この後、一緒に煙草買いにいきましょ。ちょうど、お互いなくなったでしょ」
「いいね。僕も同じことを考えてた」
また空になったカップを前に、僕らは、今までで初めて、…そう、きっと初めて、心の底から、笑った。
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