最終話 もう独りでは生きられない

 カフェ近くの煙草屋は、それなりの品数で僕たちを迎えてくれた。愛想のいい老齢の女性店主は、あれやこれやと物色する僕らを、温かく見守って、会計の時にはまた来てね、と言った。

「マルボロブラックメンソールって貴方、なんか大人になりたい高校生みたいな中途半端な銘柄選ぶわね」

 煙草屋の前、通りに面した喫煙所で、沙耶が僕の手にしたブラメンを見ながら、笑う。僕が煙草を吸い始めたのは沙耶からの影響に他ならなかったし、もともと煙草に興味すらなかった僕は、ゴロワーズ以外の銘柄をろくに知らなかった。メンソールを吸ってみたかったし、マルボロのそれを選んだのは単にネームバリューと、パッケージの色合いに魅かれたからだった。

「失礼な。…そっちはジタンか。あの店主のいうところじゃゴロワーズと似てるらしいじゃないか。結局同じ臭い煙草か」

 僕は、自分のブラメンの包装を破りながら、小さく特徴的な青色をした、沙耶の選んだ煙草を見つめる。そこにゴロワーズの面影を、彼女の兄の面影を、僕はまだ幻視していた。

「そ。ゴロワーズと同じ国の、同じ黒煙草って種類。でも、ゴロワーズはゴロワーズだし、ジタンはジタン。似てても、別」

 『似てても、別』、その言葉が、僕の心を射抜く。沙耶は手慣れた手つきでジタンを開けると、ゴロワーズよりも小さなそのシガレットを、赤い口紅に彩られた美しい口に加えて火をつけた。僕もそれに倣って、ブラメンへと火をつける。

 お互いの空間に、いつもと違う匂いが訪れた。それは、不思議な気分で、どこか僕は嬉しさを覚えた。

「うっわ、メンソールってこんな感じなのか。なんかスースーするし辛い」

「メンソール初めてなのにブラメンなんて清涼感強いの選ぶからよ。無難にクールとかにしておけばよかったのに。…こっちは美味しいわよ。ゴロワーズより、優しくて、ちょっと甘い」

 夜風に煙が消えていく。それは僕に懐かしい記憶を…大学の中庭を思い返させた。あの時、あの場所で煙草を吹かしていた謎だらけの女が、約一年の時を経てまた、僕の隣で煙草を吹かしている。…誰でもない僕だけが知っている、さっき変えたばかりの銘柄を。

「ねえ」

 短いジタンの二本目に火をつけた沙耶が、ぼそりと呟いた。いつもよりも、幾分か細く、そしてトーンの低い声だった。

「私、メンソール嫌いなの。……だから、絶対いなくならないで。貴方がいなくなったら、私は、きっと貴方の吸っていた煙草を買ってしまう、から」

 それは兄のゴロワーズを、吸い続けてきた沙耶の、不器用な束縛だった。大人びている印象を崩さない彼女の、幼い強がりを見た気がして、僕は嬉しかった。それを、僕に見せてくれるということが、何よりも嬉しかった。

「僕も、もう黒煙草なんて臭い煙草は嫌だ。そのままそっくりその言葉を返すよ」

「バカ。これは臭いけど、味がいいの」

「知ってる。さっきまで似たようなのをずっと吸ってたから」

「じゃあもし、私が…」

 その先を口にさせる気はなかった。言わせたくなかった。だから僕は、沙耶の言葉を遮った。

「それでも。もう二度と黒煙草を吸う気はないよ。僕は。というか、吸わせないでくれ」

「……そっか。ありがと」

 口から出た言葉たちは、相変わらず白煙とともに一瞬で消えてしまう。それを美しいと思った。だが、この言葉たちだけは、置いて行ってくれないかと、少しだけ、僕は祈った。

「お互い、もう独りにはなれないね」

 沙耶がジタンを揉み消し、悪戯っぽく笑う。その笑みと、ジタンという銘柄の渋さが、いかにもミスマッチで、可笑しかった。

「繋いだ鎖は煙草か。こんなの掴めもしない、すぐにどこかへ消える煙なのに」

 僕のブラメンはまだ三分の一も残っていた。沙耶は次のシガレットに火をつける様子はなく、僕の口から吐き出される煙を、ただ楽しそうに眺めていた。

「だからよ。だからこそ、捕まえたいんじゃない?貴方も、私も」

 楽しそうな横顔が美しい。初めて、僕は沙耶の笑顔を、日光の下で見てみたい、そう強く思った。月に似合わぬ、太陽にあまりにも似合いすぎる笑みだった。

「…言えてる。全面的に同意するよ」

 僕は降参を示すかのように、燃え尽きかけたシガレットを口に加えたまま、両手を挙げた。笑いながらも、沙耶がその左手をさっと掴んだことに、一瞬驚く。ニコチンで血管が収縮して、冷たくなった左手が、温かさに包まれた。

「煙草を吸う手は、捕まえられる。隣にいる限り」

「そうだな…。さ、帰るか。送るよ」

 左でほほ笑む沙耶を見ながら。

 いつもは左手で揉み消す煙草を、僕は右手で不器用に消した。

 これからは右手で煙草を吸うことにしようか、と恥ずかしさで口には出せない考えを、巡らせながら。




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