第18話 兄の幻影
私はね、と沙耶は、大して重さももたない声音で語り始めた。
「兄さんを亡くしたの。愛していたわ。兄さんも、きっと。でもね、健全じゃなかったの。兄さんも、もしかしたら私も。家族としてというより、人として愛していたから」
雨は勢いを弱めている。外が静かになっていくにしたがって、沙耶の声が透明に、閑散としたカフェの中を漂う。僕が沙耶の声を美しいと思ったのは、この時が初めてだった。
「私はまだ幼かったから、色々悩みなんてしなかった。家族愛と異性愛の違いなんて、まだ知りもしなかったし。でも、兄さんは酷く悩んでいたみたい。遺書を読んで馬鹿みたいに泣いたわ。それから、私は兄さんがストックしていたゴロワーズを吸い始めた。狂ったように、憑りつかれたように。それ以前の私なんて、薄っぺらくてオブラートみたいな普通の透明な人間だったから、何も覚えてない」
「それから。急に人と関わるのが怖くなったの。失ってしまったものは、もう戻らないと知ってしまったし、何より、大切なものを失うことは、避けられないじゃない。それなら、最初から大切なものなんて作らなければいいのよ。だから、できるだけ人と関わらないようにしたし、関わるとしても深い関係は避けてきた。兄さんを感じられるゴロワーズと、惰眠があれば生きていけたから」
フィルターだけになったゴロワーズをもみ消して、沙耶は次の一本へと火をつける。その様は、年相応とは言えないほどに、嫌に似合いすぎていた。
「じゃあ、なんで大学で僕と関わろうとしたんだ?」
僕は、あの日を思い出す。唐突に引き止められた袖口を。こちらを見上げる、眠そうなその目を。
「なんとなく。最初はね、ノートを借りるだけのつもりだったし、そのくらいの関わりは、上手くやって適当に断ち切れる自信もあったから。でも、そのあとは違う。なんでかわからないけど、私は貴方と似ている気がしたの。だから、興味がわいた。人と話がしたいと思ったのなんて、すごく久しぶりだったわ」
まあ、結局退学してから連絡なんてしなかったけどね、と沙耶は笑みをこぼした。
「私に似ている人間なんていないと思ってた。ましてや、兄さんを消してくれる人間なんて」
「…消せたのか。僕は」
「ん、まだ」
でも、と沙耶はつぶやく。
「そのうち消えるわ。兄さんは、もう死んだ。そして、貴方は今、私の目の前で生きてる。もし貴方も望んでくれるのなら、私はまだ貴方と一緒にいたい。後は、月日が経てば、消えていくものでしょう」
「寂しく、ないのか」
「少しだけね。でも、私も馬鹿じゃないの。妹がずっと自分の幻影に引きずられて、誰にも心を許さないなんて、天国にいるか地獄にいるかは知らないけど、どこかに居る兄さんが喜んでるわけないもの。あの人は、貴方に似て優しかったから」
白い煙が中空に消える。沙耶は空になったゴロワーズを握りつぶした。
「これで、終わり。もう、ストックも買ってないの」
そういうと沙耶は、今まで僕が見たこともないほど、純粋に可愛く、そして美しく、笑った。
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