第17話 始まり

 いつもの喫茶店は、雨音に包まれている。外は酷い雨だ。僕にとってそれは、耳障りではなかった。少なくとも、群衆の作る騒音よりは。

「雨の日は、頭が痛くなるわ」

「ああ、そういう体質なのか」

 沙耶は物憂げな視線を窓の外に向けている。こめかみに薄く血管が浮き出ている。それが彼女の肌の白さを生々しく僕に伝えた。横顔の造形が、いやに絵画的な美しさを帯びているように思えた。そう思った一瞬間だけ、時が止まったように感じる。

 僕は、この女に惚れているのか。そうなのかもしれない。その時、そんな考えがするりと心に滑り込んできた。

「薬は」

「持ってるけど、あまり好きじゃないの」

「意外だな。そんなことを気にする健康的な人間には見えなかった」

 僕の軽口に、沙耶は窓の外に向けていた目線をこちらへと動かした。気怠い視線が僕を捉える。その瞳孔に、僕は湿った森に埋まる沼のようなものを感じた。

「健康なんてどうでもいい。ただ、緩やかな苦痛が嫌いじゃないだけよ」

「緩やかな苦痛、か」

 僕はその言葉を考えながら、煙草の煙を吸い込んだ。なるほど、たしかに沙耶も僕も愛してやまない喫煙という行為も、緩やかな苦痛の一種なのかもしれない。肺へ向かう濃厚な煙が喉を焼く。それは、一つの感覚として純粋に捉えれば決して快楽ではないだろう。鼓膜を絶え間なく打ちつける雨音も、それと同類だ。

「煙草は?」

「緩やかな自殺ね」

「沙耶」

 名前だけ声に出して、声が詰まった。聞いてはいけない気がする。これを訪ねることは、一線を飛び越えてしまう気がする。しかし、聞かずにはいられない。これは衝動だ。強く、僕を突き動かす、あまりにも人間的な。

 僕は、僕と沙耶が同類かどうかを、確かめたくて仕方がなかった。窓の外では雨音が絶えず鳴り響いている。外界と喫茶店は、雨のカーテンで仕切られたかのように、隔絶されていた。

「…なに?」

「お前は、死にたいのか」

 口をついた言葉は、あまりにも率直だった。短く鋭い刃だった。僕は、僕の喉をアイスピックか何かで突き刺したような思いがした。吐き出すゴロワーズの煙がやけに熱く感じた。

 沙耶は、刃を突き付けられた今も、変わらず窓の外を眺めていた。表情にさえ変化はなかった。ただ、こめかみの血管だけが、どくりどくりと脈を打っていた。僕はそれに、生臭い「生」の匂いを感じた。

「生きるよりは、死にたい」

 回答は簡潔だった。それに僕は満足した。沙耶も一緒だった。同類だったことの確認ができた。それに安堵した。結局、僕らはそこに行き着いてしまうのかもしれなかった。窓の外の雨音さえ、がなり立てることをやめたように思われた。聴覚が機能を失ったように思った。それは感動だったのか、衝撃だったのか。それとも、何か他のものだったのか、それは僕にとってはわからない。

 ただ一つ。この時、僕は沙耶を愛していると、確信した。

「一緒だよ、僕も」

「そう」

 雨音が戻ってくる。沙耶は、煙草に火をつけている。絵画は、現実に戻って、僕の目の前で動き始めた。

「もし嫌じゃなければ」

 煙を吐いている沙耶の目を、意識的に見つめて僕は話す。フェードがかった写真のように、朧げに黒い瞳がぼんやりと僕を見つめ返している。

「そうなった原因、聞かせてくれないか。僕も、もちろん話すから」

「どうしたの、今日は。カウンセラー気取り?」

 沙耶が視線を逸らして笑う。僕には、それが一種の焦りに見えた。人は、触れられたくない場所を触れられたとき、笑う。不器用な人ならば、尚更。そういった人々は、笑うことしか逃げ道を知らない。僕も同じだ。

「違う。お前を知りたい。それに、お前には僕の深い部分を知ってほしい」

「……怖くないの?」

 沙耶が、煙草をもみ消した。彼女には珍しく、葉の部分がまだ残っていた。黒い瞳が、真っ直ぐに僕を捉えている。僕はまた、それに泥沼を感じた。そして、それに飲み込まれていくのを感じた。それが、心地よかった。

「怖い」

「私も怖い」

 お互い、視線を逸らさなかった。世界がまた時を止めたように思われた。静寂、の錯覚があたりを支配していた。一切が動くことをやめた中で、僕の右手だけが痙攣するように、小刻みに震えていた。

「人に踏み込むのも、踏み込まれるのも怖い。人の人生を変えるのも、人の心に触れるのも怖い。余計なことを知ってしまうのも、怖い」

「……」

「だから今まで人に深く関わろうなんて思ったこともなかった。でも、今は、踏み込みたいと思ってる。お前だけには」

「……」

 静寂が絵画のように喫茶店を磔にしていた。沈黙を恐れることは今までなかった。今だけは、恐ろしかった。沙耶から拒否されることが、恐ろしくてたまらなかった。僕は無力な子供のように、ただ答えを待っていた。

「本当に似てる。私と、貴方」

 沙耶は沈黙を壊した。そしてゴロワーズに火をつけた。世界が流れ始めた。交錯し続けていた視線は、緊張の緩和と共に交わることをやめた。

「時間はあるわ。いくらでも、話しましょう。きっと、私も貴方も初めてだから、時間がかかるし、口下手になるでしょうね。でも、それに飽きたところで煙草はまだまだ沢山あるわ。私のゴロワーズがなくなっても、貴方のがある。逆もそう」

「何も隠さず、全て」

「そうね。それでお互いがどうなるとしても、全て」



 



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