第16話 変化していくこと

 久しぶりに訪れた病院は、相も変わらず静寂に包まれている。木製を基調としたインテリアは、人々にそこはかとない安心を与える。僕は、受付を済ませた後、一人椅子に腰かけてほうけていた。もう窓の外に雪はない。前回来たときには、まだちらついていた気がする。季節が過ぎるのは、早いものだ。

「甘利秀一様。一番の診察室へどうぞ」

 大学生らしい受付の女性が、いくらかか細い声で僕を呼んだ。その声に従って、僕は診察室の扉を開ける。

「失礼します」

「どうぞ。久しぶりね」

 主治医は以前となんら変わることもなく、深く椅子に腰かけていた。美しい顔立ちだとは思うが、それには独特な冷然とした雰囲気を含んでいる。

「ええ、ずいぶん間を開けてしまいました」

「まずはその理由から聞こうかしら。嫌なら、もちろん話さなくてもいいけれど」

 僕を椅子に案内すると、主治医はすぐにそう切り出した。薄い笑みを浮かべながら。

「…緊急性を、感じなくなったから、です」

「緊急性ね。そう。何か、それには理由が思いあたるかしら」

 以前の僕は、自分の人生に何か、危機感を感じていた。それも緊急的に。この医者を頼ったのも、その状態をなんとか脱したいと思ったからに他ならない。しかし、今自分が口に出した通り、僕は以前ほど僕自身に危機感を抱いていない。むしろ、どこか楽観的な考えさえ、ある。

「再会しました」

 僕は、非常に簡潔に、答えた。それはこの医者の冷然とした態度に対する、若干の反抗の意味を持たないわけでもなかった。

「再会…。ふむ、前回のカウンセリングの時に話していた女性かしら。それとも、他の誰か?」

「以前お話した女性です」

 それを聞くと、医者は笑みを深めた。場面を変えれば妖艶と言ってもいいだろう。この人には、人の奥底を見透かすような、独特な空気感がある。

「たしか、その女性のことを貴方は以前回避したことがあったはずよね。その女性と再会して、貴方は今度はどう対応したのかしら」

「…つながりを持ちました」

「あれほど自分の人生に変化を齎す可能性があることを恐れていたのに、貴方はその女性とつながった。そこにどんな心境の変化があったの?」

「それが、自分でもわからないんです」

 事実だった。僕は、何もかもを回避して生きてきた。それが、何の心変わりか、すんなりと戸隠沙耶という人物を受け入れた。他者を自分の人生に引き入れることは、僕にとって大きな恐怖であったはずだ。それは、僕の人生に未知の変化を齎すだろう。その変化が良いものであるにしろ、悪いものであるにしろ、僕にとっては恐ろしかった。

 だが、沙耶は、その僕の恐怖を、なぜか掻い潜って僕の人生に足を踏み入れた。僕は、それを拒否することもできただろう。しかし、しなかった。なぜかは、わからない。

「わからない、ね。貴方の中では、今間違いなく何かが変化しているわ。その変化が何なのか、自分でもわからないのね。医者の目から貴方の性格傾向を考えれば、今の貴方の心の状態は、不安に満ちた恐ろしいものでしょう。違う?」

「仰る通りです。ですが…」

 ですが、と続けた言葉の先を、口にすることがどこか憚られた。今まで、自分がこの言葉を口にすることなどなかったように思うからだ。その言葉は、自分には酷く不釣り合いなもののように思えて仕方がない。

「ですが、幸せを感じています」

 僕の言葉を聞くと、医者は足を組んだまま、上半身だけをいくらか乗り出すような動作をした。それは、僕が知っている限りでは、人が何かに興味を抱いたときにする行動に他ならなかった。

「幸せ。なるほど。今まで何度も君とカウンセリングを続けてきたけれど、幸せという言葉を、君が口にしたことはなかったわ。今の君の感じているものは、君にとって非常に重要な感覚よ」

 医者は相変わらず美しい笑みを張りつけたまま、僕の目にまっすぐ視線を送る。その視線の強さに、目を逸らしたくなる。だが、不思議と逸らすことができない。僕への呼称が「貴方」から「君」へと変化していることにも、後になってから気づいた。それほど僕は、気圧されていた。

「君は今、自分の予想した通り、不安と恐怖におびえる立場にいる。しかし、そこには君の予想だにしなかった幸福という産物も転がっていた」

「なら、君はこれからどうしたいのかしら。君は、またこの不安と恐怖を回避することもできる。それが今までの君のやり方ね。もう一つ、幸福という産物を守ることもできる。これは新しい選択肢ね。両方を選び取ることはできない。どちらかを捨てて、もう一つを取る。君にとって今向き合っている事柄が、どれほど大きいことかは推測でしかないけれど、結局は同じよ。AかBか」

 額に冷たい汗が伝う。怒られているわけでも、責められているわけでもない。ただ、この医者は、楽しんでいる。僕の精神状態の変化を、一つの娯楽として楽しんでいる。それが、恐ろしくも頼もしくもあった。

「今、ここで決めることはできません」

 僕が口を開くと、医者は背を椅子にもたれ、脱力したいつもの調子に戻った。

「でしょう。焦る必要はないわ。私に相談をしてくれてもいい。自分で決めてもいい。ただ、それが決まったときは、私にも教えてちょうだい。君の人格、これからの人生においても重要なことになると思うわ」

 会計を済ませて、病院を出た。カウンセリングという非日常から、日常に帰還した感覚は、心地よくもあり、恐ろしくもある。家までの道を歩きながら、僕はなんとなしに、医者の目を思い返していた。あの力強く、真っ直ぐな。特にそれに意味はなかった。いや、僕は意味を見いだせなかった。だが、どうしても、話の内容さえ差し置いてそれが印象に残って仕方がなかった。

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