第2話 社会生活

「いらっしゃいませ。ご用件をお伺い致します。」

 家族づれを、笑顔で出迎える。車の誘導も出迎えも、我ながら板について来た。新規の客に対するお決まりの文句は、唇から無意識に溢れていく。

「そろそろ車の買い替えを考えていまして。妻も今日は手が空いたので、一緒に見てみようかなーと。あ、でも買うかはわかりませんよ。」

「畏まりました。担当を呼んで参りますので、しばしこちらのお席でお待ちくださいませ。お飲み物は何になさいますか?」

 テーブルに案内し、飲み物を聞く。私の仕事の基本は、このルーティンだ。単調と言えば単調だろう。それでも、まだ私にはそれが精一杯でもあった。

 オーダーを聞き、事務所へと戻る。営業担当は、各々電話対応をしていたり、パソコンにかじりついていたりと、何かと忙しそうだ。忙しいのか、忙しく見せているのかは、正直なんとも言えないところでもある。

「店長。ご新規のお客様がご来店されています。」

 客を出迎え、用件を聞き、席へ案内して、営業へと繋ぐ。その作業にも、やっと慣れ始めて来た。気がつけば、私も就職して約一年が過ぎようとしている。いまだにこの店舗では、私が一番の新米だ。

「おう。高村。新規だ。いってこい。」

「え、俺ですか。はーい。いってきまーす。」

 店長に呼ばれた営業の高村さんが面倒臭そうに名刺入れを机から拾い上げ、ショールームへと向かっていった。それを見届けた私は、飲み物を用意するために事務所裏にある休憩室へと向かう。

 この店舗の休憩室は、それほど広くはない。朝のミーティングと昼食に使うテーブル、それに昔事務員が駄々をこねて店長が仕方なく購入したらしい液晶テレビ。あとは飲み物を用意するための諸々が置かれているだけだ。

「沙耶ちゃん〜。暇だよー。帰りたいー。」

 休憩室には、先客がいた。ボーイッシュな雰囲気を醸し出す女性だ。直接尋ねたことはないが、三十代前半くらいだろう。彼女も営業担当で、見ての通り仕事にはあまりやる気をみせない人だ。店舗内では私と彼女だけ女性ということもあり、私が就職してすぐの頃から何かと構ってくれている。

「津野さん。仕事しないと店長に怒られますよ。あ、コーヒー飲みます?」

「気がきくねえ〜。飲む飲む。砂糖とミルク多めでよろしくー。」

 客へのコーヒーのついでに津野さんの分も淹れる。コーヒーを落とす時間は、仕事中でもリラックスできる一瞬だ。良い香りと、何より体裁を取り繕わなければいけないショールームから逃れられるということが、私にとっては大切だった。

 退学後、暮らしと暇つぶしのために始めた就職活動は、思いの外順調に事を運んだ。数社面接を受けて、今働いている自動車ディーラーに就職が決まった。特に選り好みした訳でもなかったが、たまたまここと巡り会えたことは、私にとって幸運だったと思う。働くことが簡単とは言えないが、こうして私でもなんとかやっていけているのだから。

 喫煙所で煙草に火をつける。私の職場では、特に明確な休憩時間というものがない。ディーラーという客主体の仕事だということもあり、各々空き時間に自由気ままに煙草は吸うし、先ほどの津野さんのようにサボっている人もいる。案外、社会人というのも、適当なものだ。

「戸隠。お前女なんだから煙草やめろよ。モテねえぞ。」

 高村さんが、マルボロに火をつけながら軽口を言う。職業柄なのかは知らないが、我が店舗では津野さん以外は皆喫煙者だ。そのため店舗裏にある喫煙所は、皆のサボり場所兼談笑スペースになっている。

「このために生きてるようなもんなんだからやめる気ありません。あと、やめてもどうせモテませんし。」

「俺みたいなおっさんから見ればお前も可愛いもんだけどなあ。…なんか妙に臭いと思ったらお前、ゴロワーズ吸ってるのかよ。」

「可愛いって、なんですか。いたいけな新入社員口説いてるんですか?」

「ちげえよバカ。口説いたら嫁と村上店長に殺されるわ。」

 私は一本目のゴロワーズを吸い終わり、二本目に火をつける。高村さんは、マルボロを吸い終わると、いつものように荒っぽくそれをもみ消して仕事に戻っていった。

 喫煙所の灰皿は、毎朝掃除しているというのに、夕方には溢れかえっている。それを見ると、一日が終わりに近づいている事を感じる。その時の感情は、達成感でも喜びでもなく、単純な安堵だ。

 仕事を終えると、徒歩で自宅へと帰る。職場は、幸いなことに退学前から住んでいたマンションにそう遠くはなかった。徒歩十五分で遠いというのは、贅沢な話だろう。毎日三十分の散歩と考えれば、健康的でもあるかもしれない。

「ハロー、これーでーもうーはなーすのもさーいごー。」

 好きな歌は、案外変わらないものだ。ふと口ずさむ歌は、一年前から何ら変わっていない。それと比較して私は、変わったのだろうか。相変わらず煙草はやめられないし、いつまでも孤独のままだ。確かに職場では人と関わっているが、仕事とプライベートは違う。戸隠沙耶という人間自体は、あの時からずっと孤独だ。

 兄はずっとゴロワーズを吸っていた。自分には、臭い煙草という印象しかなかった。私がふざけて臭いというと、兄はこれは味がいいんだといつも笑っていた。兄のシャツの胸ポケットでクシャっとひしゃげたゴロワーズのソフトパックを、私は生涯忘れることはないだろう。今では、自分のスーツの中で、それは兄のものと変わりなく独特な臭いを放ちながら、ひしゃげている。

 帰宅する。待っているものはいない。真っ暗な家。音のしない家。それでも、私が一番寛げる場所。手を洗い、すぐにスーツを脱ぐ。スーツにはまだ慣れない。慢性的な肩コリに悩まされるのも、社会人らしいと言えばらしいのかもしれない。

 パジャマに着替えると、インスタントコーヒーを片手に一服をする。仕事から帰ってきて、まず行う習慣だ。煙草の煙に乗って、疲れが吐き出される錯覚を覚える。時刻はすでに十九時を指している。夕飯を買って帰るのを忘れたことに気が付いて、急に面倒になった。自炊は手間がかかる。節約にはなるのだろうが、面倒くさがりな私は手を伸ばせないでいる。冷凍庫の中を確認すると、温めるだけの炒飯があったので、それで済ませることにした。

 日々がすぎるのは早い。退学する前よりも、多忙なせいだろうか。一日の大半を仕事に費やし、家に帰ってきたらきたでやることも大してない。何のために生きているのかと問われれば、私は首を傾げてしまう。退学までして、私が生きたかった人生とは、なんだったのだろう。

 炒飯は冷凍焼けしていて、美味しくなかった。食べながら、昔、兄に連れられていった実家近くの中華屋を思い出した。記憶の中の兄は、今もゴロワーズを吸いながら、私の頭を撫でている。

 私は、その夜、少しだけ泣いた。

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