私たちはもう独りでは生きられない

鹽夜亮

第1話 足跡

「なるほど。それが原因で、君は生きづらいと感じているんですね?」

 精神病院の一室は、静けさに包まれている。窓の外には雪がチラついて見える。冬の寒さに花達も散り終えた中、室温は完璧な空調で整えられている。静謐と安全、それは完成された、歪なシェルターのようでもある。

「はい。回避は自分の個性の一つとも思っていますが、確かにそれによって生きづらさを感じているのは事実です。…現に、こうしてここに相談に来ているのは、自分のその手癖に危機感を感じているからですし。」

 三十代前半ほどだろう、柔らかな雰囲気を纏ったセラピストは、ゆったりと秀一の言葉を聞いている。まるで受け止めるように、または、意に介さないと言うように。

「危機感、ね。君は生きづらいということに危機感を持っているのかしら。」

 そうだ。僕は危機感を覚えている。自分自身の、その性質に対して。いや、その性質に伴う、自分の生きづらさについて。

「…今はいいんです。ただ、これがずっと続いたなら。いつか破綻すると思うんです。僕は次第に磨り減っていきます。そんな想像が、脳裏から離れない。様々なものから回避し続けて、最後には自分の周りには何もなくなる。そして、残されているのは死か、絶望的な生活だけ。そんな将来像が、常に付き纏うんです。」

 いつになく自分が饒舌であるのは、危機感ゆえか。それとも、自己顕示欲ゆえか。それは僕自身にもわからない。ただ、この場に助けを求めようと考えた時点で、もう僕は僕のことを制御できなくなっていたのは事実だ。

「そうなのね。磨り減っている感覚というのは、いつから持っているの?」

 磨り減る。僕は息をする度に、何かをする度に、徐々に磨り減っていく。有限のものが磨り減れば、やがてそれは尽きる。

「一年ほど、前です。」

 僕は、一年前の大学の中庭を思い返していた。日はどっぷりと暮れている。月明かりの下、中庭に煙草の煙がぼんやりと漂っている。その煙に巻かれているのは、いつも眠そうな、彼女だ。

「一年ね。辛かったわね。磨り減っていると感じながら、日々を過ごすのは、絶望的な気分だったことでしょう。ここに助けを求めてくれてよかったわ。何か、そう感じるようになったきっかけに思い当たりはあるかしら。」

 きっかけと問われる。思い出せば、苦いとも甘いとも酸っぱいとも、例えようのない味覚が口に広がる。同時に、煙草の香りが鼻腔を抜けていく。

「人と、疎遠になりました。仲違いという訳ではないのですが。」

 セラピストの眉が数ミリ動いたのを僕は見逃さなかった。人は、なにがしか興味を持てば、それがすぐ表情に現れる。人である以上、それは心に関するプロでも変わることはない。

「なるほど。その人とは、どの程度親密な間柄だったの?話したくなければ、話さなくてもいいわ。ただ、貴方がその人間関係を原因の一つとして認識している以上、治療者としての私は知っておきたいと思うのが正直な気持ちよ。」

「話します。特に、隠す理由もありませんから。好意的に捉えても友人といったところです。ただ、本当に友人になれていたのかは、僕には判断がつきません。彼女が、僕をどう捉えて何を望んでいたのか、僕には最後までわかりませんでした。」

 セラピストは、僕の解答に何らかの満足を見出したようだ。小さく相槌を打ちながら、何かをメモしている。内容が気になるのは人間の性だが、僕はそれを覗き込むほど無礼でも、無知でもなかった。

「貴方は、その女性を回避したの?」

「ええ。意図的に。」

 一年前の記憶といえど、それは瞼の裏に焼き付いている。当時の僕の思考もまた、脳裏に焼き付いている。

「それは、なぜかしら。」

 当時の僕には何もわからなかった。否、わかったつもりになっていただけだった。僕は冷静なつもりだったし、理性的なつもりでいた。しかし、時間というものは物事に本当の「冷却」を行う。当時の僕は、確かに「熱」を持っていた。

「僕は、もし彼女を何らかの形で得たとして、それを失うのが恐ろしかった。裏切られるのが恐ろしかった。傷つけるのが、傷つくのが、恐ろしかった。…自分の人生に、重大な変化が起きることが、恐ろしかったんです。」

「貴方は想像できる幸福、そしてその先にあるかもしれない仮定の不幸を想像して恐怖し、事前にその原因になり得る女性を回避したということね。」

「ええ、そうです。少なくとも、当時の僕にはわかっていませんでしたが、今の僕から見れば、そうであったと思います。」

 窓の外の雪は、その勢いを強めている。今夜はきっと積もるだろう。テーブルの端に置かれた時計は、五時半を指し示している。

「過去の物事を自ら分析できるのは、貴方が、それだけ大人になったということよ。物事を冷静に、客観的に眺められるというのは、今の貴方にとって大きな力だわ。…良いところだけど、そろそろお開きの時間ね。次回も一週間後の同じ時間でいいのかしら。薬は前と変わらずで良さそうね。」

 カウンセリングは、どのような内容であれ、きっちり五十分で終わる。物事の始まりと終わりが明確にあることは、重要だ。そしてそれを守ることは、さらに重要な事柄だ。何事も終わる。最初から終わりがいつか見えているというのは、大きな安堵でもある。特に唐突に終わることがない、という重要な一点において。

「それでお願いします。ありがとうございました。」

……。

 会計を済まし、薬を受け取ると、コートの中に身を縮めながら僕は歩き始める。日はすでに暮れている。冬らしい寒さは、日に日に人々を苛んでいる。足元では、コンクリートに積った雪がサクサクと音を立てている。

 僕は、懐から取り出した煙草に火をつける。一年前から吸い始めたそれは、すでに生活に欠かせないものになっていた。最初は儀式のように吸っていた。気づかないうちに、煙の味と香りに美味しさを覚えるようになった。それからは、徐々に吸う本数が増えていった。これではすっかり、彼女と同じになってしまった。今も、彼女はどこかの寂しい場所で一人、煙草を吹かしているのだろうか。そんな空想が、夜空に白煙と共に浮かんでは、消える。

 雪に反射する自動車のヘッドライトが、網膜を焼く。それは煙に目が燻されるのと似た痛みをしている。見渡す限り、歩道に人影はない。シンシンと雪が、降り積もっていく。ふと、背後を振り返ると、僕の残した一人分の足跡が続いている。足跡は、どこか過去の人生を思い起こさせる。…僕は、どこでふらついたのだろう。または、道を踏み外してしまったのだろう。自分の歩く道は、くねくねと曲がっている。綺麗な直線を描く、現実のそれとは違って。

「もうすっかり、煙草が美味くなったよ。お前はどこでどうしてる、変人。」

 誰にも向けることのできない独り言が、雪に吸い込まれて、消えた。

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