第4話 消せなかったもの

 私の店舗にお昼休みはない。厳密にはあるが、各々時間がずれ込むのが現実だ。しかし、私は新米ということもあり、店長の計らいできっちり十二時にはお昼を食べることが出来ている。コーヒーメーカーを使ってカプチーノを入れながら、午後のことを考える。午後も、やることは大して午前と変わらない。出迎え、接客。そして営業の手助け。緊張することはないのに、いまだに緊張は抜け切らない。働くということ、社会と関わるということは大変な苦労を伴うものだ。個々人によってその度合いは違うのかもしれないが、誰にとっても同じようなものだろう。

「沙耶ちゃん。お昼?」

 津野さんが忙しげに駆け回っている。商談中なのだろう。手にはカタログと商談用の資料が握られている。

「はい。お先に頂きます。商談ですか?」

「そうなのーまったく、お昼時に限ってお客さんって来るんだからもうやだー!ご飯食べたいー。」

 そう言い残すと、津野さんは事務所に走って戻っていった。店長と話ているのが休憩室からも聞こえる。おそらく、客に提示する値段の交渉だろう。どうやら、商談は佳境に入ってきているらしい。残念ながら津野さんがお昼を食べられるのは、相当先になりそうだ。

 働く先輩たちを尻目に自分だけお昼を食べることには慣れたが、まだ抵抗はある。気を使うなと言われても、使ってしまうのは仕方ないだろう。お昼は相変わらずのコンビニ弁当だ。もちろん味気ない。しかし、自炊は面倒くさいし、何より朝にそこまで時間を用意する余裕は私にはない。そもそも考えてみると私は食事にも、それほど頓着がない。私にとっては食事よりも、煙草を吸う時間を確保する方がよっぽどな重要事項だ。

 弁当の前にサラダを開ける。せめてもの不健康への抵抗だ。シャキシャキと口の中で噛み砕かれる野菜たちは、手作りのそれと比べてどこか漂白されたような印象を受ける。味気ない、というのが適切なのか、それとも純潔であるというのか。どちらにせよ私は、そんなコンビニサラダが嫌いではなかった。

 テレビをつけると、小煩いバラエティが映し出された。誰も彼も楽しそうに笑っている。何がそんなに可笑しいのか、疑問に思う。暇つぶしになるかと思い、数分眺めたが、結局やかましかったので消した。うるさいのは、嫌いだ。自分に向けられる訳ではない笑顔や笑い声も、得意ではない。それはどこか、片隅に嘲りを連想させる。

 サラダを食べ終え、弁当に取り掛かろうとした時、テーブルの上のスマートフォンが鳴った。電話が鳴る事など会社からの用事くらいしかない私は、びくりとした。

「……え。」

 自分の凍った声が鼓膜を打つ。それは驚くほど間抜けな声だった。画面には「秀一」と二文字だけ表示されている。私は、何か重大なものを持ち上げるかのように慎重にスマートフォンを手に取ると、画面の上で指をスライドさせた。自分の指先が震えているのを感じる。声が、喉の奥で張り付いて、思うように出てこない。

「もし、もし。」

 やっと発した声は、酷く怯えていた。我ながら、実に滑稽だった。

「………まさか出るとは、思わなかった。」

 電話口の相手は、私の声に驚いているようだった。はっと息が止まる音が聞こえた。電話越しに、遠く、しかし近く存在を感じる。その距離感は、愛おしくもあった。

「私の連絡先、残してたの。」

 秀一の声が以前より低い気がした。それはこの一年の変化なのか、それとも今の状態を表しているのか、私には判断がつきかねた。

「消せなかったんだ。」

「…私もよ。」

 会話に緊張感がある。喉から思ったように言葉を紡ぐことができない。この感覚を、懐かしく思う。懐かしいのと同時に、一年前よりもぎこちない会話に時間というブランクを感じる。

「それで、いきなり電話してきたのは、どうして?」

 カプチーノで喉を潤し、問いかける。声が震えているのがわかる。私は、今緊張している。秀一が何をいうのか、想像がつかない。不安で心が潰されそうになる。嫌な空想が、脳を蝕む。それを、必死に咬み殺す。カプチーノの苦味と共に、吞み下す。

「ああ。…会いたいんだ。沙耶に。」

 自分が唾を飲込む音が聞こえる。時が止まったように感じる。唐突に突きつけられた日常への変化は、今の私にとってあまりにも衝撃だ。喉がひきつるような感覚を覚える。それを、私はひた隠しにする。バレてはいけない。私は、弱くてはいけない。孤独者は、強くなければならない。

「いいけど、急ね。何かあったの?」

 大丈夫だ。私の声は冷静だ。落ち着いている。繕えている。そう自分に言い聞かす。

「そう、だな。一年間歩いたけど何もなかったよ。何も。だから会いたいんだ。」

「私も同じようなものよ。でも、今更私と会って、どうしたいの。」

 私は拒否したいのか、賛同したいのか。自分の心が見えない。不安と期待が入り混じっている。どこに向かえばいいのか、自分で認識ができない。言葉は、ただ自然と溢れ出して、電話口の秀一と自分の心に刺さる。

「どうもしない。ただ話そうと思う。お前なら、理解してくれると思うからだ。」

 秀一は淡々と話す。言葉に迷いがない。それが、いやに不気味だった。一年前はもっと、どこかたどたどしいような、不安に苛まれているような話し方だった。今は何かの確信に基づいて話しているように感じられる。それが、私には不気味で仕方がなかった。嫌な予感がした。兄が、頭を過ぎった。

「わかった。会いましょう。」

「ありがとう。少しは、救われる。」

「救われる?何から?」

 沈黙があった。それはどれくらいだったか、わからない。ただ、私にはその沈黙が、氷のように冷たく固いものに思えた。触れてはいけないものに触れてしまったような、血の気が引く感覚がした。

「さあ、何からかな。気が向いたら会った時に話すさ。」

 弁当は喉を通らなかったし、午後の仕事もあまり手につかなかった。素知らぬ顔で物事をこなすのは慣れているはずだ。しかし、どこかぎこちなかったような、そんな気がしてしまう。他人からどう見られているかは、わからない。

 仕事を終えて自宅に帰ると、私は明日のことを考えた。明日、秀一と会うことになった。私は、心の整理ができずにいた。今の自分を、秀一の前にどれほど晒せるだろうか。退学した後のことを、誇りを持って話せるだろうか。皆目見当もつかなかった。

 夕飯のペペロンチーノを食べながら、一年前のことを思い返してみる。私の気まぐれから始まった秀一との関わりは、極短いものだった。しかし、印象強いものだったのも確かだ。あの時から、私は何も変わっていない。今でも、友人はいないままだ。孤独であることに変化はない。ただ、少し取り繕うことを覚えただけだ。では、秀一はどうだろう。何か彼は変わっただろうか。様々な疑問や、不安が脳裏を駆け巡っている。解決できない疑問の群れは、ぐるぐると頭の上を回転している。そんな自分の状態を思って、私は死体を狙って上空を旋回する猛禽類を思い起こした。

 しかめっ面で食べたペペロンチーノの味は、結局うやむやで、塩加減もニンニクの風味もあまりわからなかった。

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