八話
「ここは?」
メイリンは夕風になびく髪を押さえながら尋ねた。
「僕の気に入っている場所」
少し高い丘には、神の祀られた小さな祠があり、食べ物や菓子、工芸品などが納められていた。
ここからは、街と市場を見下ろし、草原の遥か彼方の地平線まで見渡せる。
風が草原に明暗の模様を彩る。
「素敵なところね」
素直で単純な感想に、リョホウはとても満足した。
遠い彼方に目を向けるメイリン。
そんな彼女を見つめるリョホウ。
「明日も会えるかな?」
リョホウの言葉は疑問というより確認で、次の再会をまるで疑っていないかのようだった。
しかしメイリンはすぐに答えなかった。
肯定も否定も。
それは他人からは些細な雰囲気の変化にしか思わなかったかもしれないが、リョホウはメイリンの機微を感じ取った。
「どうしたの?」
「……あの、私、帰らないと」
たったそれだけを告げるのに、途方もない労力を必要としたようなメイリン。
「帰るって?」
当然家に帰るという意味だが、前回のそれとは異なっていた。
「帰るって、どういうこと?」
リョホウは再び訊ねるが、メイリンは返答しなかった。
返答しようとして、答えが喉元で積止められたかのように。
「また明日、いや、次の市でもいい。会えるよね?」
メイリンは酷く悲しげな目で、しかしはっきりと首を振って否定した。
「ここにいられるのは、明日まで。明日には帰らないといけないの」
帰るということが、遥か遠方の故郷のことだというのはすでにわかっていた。
おそらくは、二度と会えないことも。
しかしこれはあまりにも急ではないか。たった二回しか会っていないのに。
彼女のことをなにも知らないのに。
リョホウはどうすればいいのかわからず途方にくれた。
「それじゃ」
振り切るように走って、メイリンその場を去った。
リョホウは思わずその後ろ姿に向かって叫んでいた。
「待ってるから。君がいつかまた来る時に、また会えるように、市の日には、あの場所で待ってるから」
それは約束にならない約束。
二度と会えないことを知っていながら、かすかな望みをつなぎとめようとする言葉は、夕凪の虚空に消えた。
時は彼らのことなど気にせずに流れ、次の日が訪れた。
時は約束など気にせずに流れ、日は高く上り、人々は商売に励み、また楽しみ、やがて日が傾き、夕暮れとなる。
リョホウは通りすがりの人々が人形と勘違いしてしまいそうなほどまったく動かず、約束の場所で待ち続けた。
もう彼女とは会えないとわかっているのに。
ホウロは果物を一つ手にしてリョホウに話しかける。
「一つどうだ?」
差し出された果物は、偶然なのか、メイリンを初めて見かけた時に彼女が手にしていた物と同じだった。
リョホウは首を振った。
ホウロは無理に進めず、リョホウの隣に座る。
メイリンとリョホウは、まるで十年もの月日を重ねたかのような強く深い心の絆で結ばれていた。
二人が遠くない将来、人生を共にする約束をすることが容易に想像ついて、その実現を疑わなかった。
だが幸せの予感など、ただの妄想だった。
本人のものだろうと、他人のものだろうと。
取り残された子供のように待ち続けるリョホウは、メイリンと出会う前の感受性が欠落したかのような表情のなさだった。
たった二日しか会わなかった彼女の存在は彼にとってどれほど大きなものだったのだろうか。
彼女にとってリョホウはどんな存在だったのか。
確かめる方法はない。
本当に?
かすかに変化があった。
ホウロは自分の感じたものがなんだったのか理解できず、なにより言葉として表せないほど些細な変化で、しかし確かに感じられた。
思わず知らず顔を上げてみると、夕日の中にメイリンの姿があった。
彼女は走ってきたのか、息を切らせていた。
ホウロは驚いてリョホウへ視線を向ける。
彼は驚いているふうではなく、しかし喜びを顔に表さず、淡々とメイリンの前に足を進めた。
相対する二人は沈黙して見つめ合う。
リョホウは変わらず表情の抜け落ちた顔で。
メイリンは困ったような表情で。
「あの」
メイリンは声をかける。
「うん」
リョホウは促す。
「私、帰れなくなったの。もう、帰る方法なくなったの」
遥か遠方の故郷への帰還する手段の喪失を意味することは理解できた。
それでも彼女は来たのだ。
もう一度、会うためだけに。
約束にならない約束を違えないために。
リョホウは、彼女の言葉の意味を心の奥底に浸透するまで待つかのように、深く呼吸をした。
そして答える。
「じゃあ、僕とずっと一緒にいよう」
彼女に手を差し伸べる。
手を握ってくれることを切望して。
彼女は少しだけ涙をこぼして、その手を握り締めた。
夕暮れの中、二人は二度と離さないかのように抱きしめあった。
それから一ヶ月後、二人は結婚した。
幸せに包まれた二人を村人は祝福した。
幸福の証明は目の前にあるのだから。
新婦に微笑む新郎。
心を顔にけして表さなかった者が、本当に心を許した相手に、自分の思いを伝えるように。
「こうして二人は幸せになりましたとさ。めでたしめでたし」
ユイハがお伽噺の定文のような言葉で締めくくった。
宿に戻ってから随分時間が経ち、若い恋人同士が一緒になるまでの経緯を、どこまで誇張されているのか定かではないが、たっぷり聞かされることになった。
聞きたいといったのはコウライだが、まるで暇を持て余した中年女の井戸端会議に、まだ十代で参加可能なほど、友人の個人的な話を暴露するユイハに少し呆れた。
おまけに、ユイハは酒が入っているためか顔が赤い。
コウライが軽い気持ちで勧めたのだが、勧めるべきではなかったと後悔している。
ユイハは飲み始めるととまらなくなるらしく、テーブルの上には兵士に出すはずだった酒瓶が数本空になっている。
さらにおまけに、泣き上戸だ。
「あううう、感動的ですぅ。二人の世界に入っちゃってぇ。どうしてわたしにはいい男がいないのよぉ。うぇえええん」
友人の幸せを喜んでいるのか妬んでいるのかよくわからない。
「まあ、そのうちいい男が見つかるよ」
心にもないことを言って慰めるが、まったく効果はないようだった。
「まだ一人身のコウライさまが言っても説得力ありません」
何気に傷つくことを言われた。
「仕事中に酒とは、感心しないな」
戸口で、いつの間にか帰ってきていたフェイアが、苦笑して窘める。
「あたしが飲んだんじゃないよ」
「見ればわかるよ」
では注意をしたのはどちらなのか。
兵士に夕食を出さなければならないのにまったく仕事をしていないユイハか、そのユイハに付き合って村の警備をまったくしていないコウライか。
両方かもしれない。
「あううぅ、わかりましたぁ。ただいま食事をおつくりいたしますぅ」
どこか呂律の回らない調子で、ユイハは席を立ち厨房へ姿を消した。
同時に食器類がいっせいに割れ、鍋類が落ちる不協和音が響く。
「なにやってるんだい! けっつまずいて!」
「酒を飲んで歩けば当然だ!」
両親の怒鳴り声からして、どうもユイハが転んだらしい。
しかも周囲に被害を拡大して。
「「……」」
大丈夫かどうか少し気になったが、確認する必要もなさそうなので、コウライは気持ちを切り替えて、席に着いたフェイアに尋ねる。
「それで、どうだった?」
「厄介なことになりそうだ」
妖気の痕跡は一切なかった。
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