七話

 リョゲン亡き後の薬師を継いだリョホウは、自然と村人から頼られるようになった。

 貧しい村には医者がおらず、街の医者は診察料だけでも高価で、貧困に喘ぐ村人にはとても支払えない。

 必然的に村唯一の薬師に力を求め、そしてリョホウの腕は確かだった。

 それでも最初は、まだ子供と言ってもいい年齢の少年に不安があったが、しかしリョゲン以上に腕が良いことがわかると、これまで以上に信頼され、自然と尊敬も集めた。

 やがて縁談の話が、リョホウと同じ年頃の娘を持つ親たちから、それとなく、あるいは直接的に勧められるが、リョホウはすべて断り、そのうち縁談話を持ち込まれることはなくなった。

 リョホウが縁談を断っている理由は誰もわからなかった。

 家庭を持つにはまだ早いと考えているのか、違う理由なのか。

 だが明らかに他者を拒む頑なな壁が彼にあった。

 ただ祖父が亡くなる以前の生活を変わらずに続けていた。

 変わることのない沈黙と、能面のような動かぬ顔で。

 それに変化が起きるのは、メイリンとの出会いだった。



 リョホウとメイリンの出会いは、春の訪れの季節だった。

 周辺地域の中心地である町では、月に一度に三日間、市場が開かれ、クオリ村の村人たちもそこへ様々な目的で訪れる。

 その中で、工芸品を売りに来たホウロと、食材を仕入れにきた宿屋の主人夫婦と、二人に付いて来たユイハたちと一緒に、薬の原料を求めて市場に来たリョホウは、雑踏の中でひときわ輝く美しい少女を目にした。

 いや、そう感じたのはリョホウ一人だけだったのかもしれない。

 事実彼女を見つめていたのはリョホウだけだった。

 しかしそのことに彼は気付かなかったし、気付いたとしても些細なことでしかなく、ただ彼女を見つめることが全てとなった。

 それは運命的でも劇的でもない、ただ見かけただけだった。

 果物の一つを手に取り、思案している少女。

 風になびく黒く艶やかな長い髪は光を吸い込むように。

 細い指は触れれば折れてしまいそうで。

 薄い朱色の唇は誘うように。

 清純の白肌は絹よりも柔らかく。

 穏やかな瞳は深遠の朱。

 その姿を一目で見惚れ、彼女が不意に顔を向けると、二人の瞳が目が合った。

 リョホウはその瞬間、彼女の虜となっていた。

 手にする薬の原材料が袋から零れ落ちていることにも、店の人に注意されてからようやく大切な原材料を地面に撒いていることに気付いて、慌てて袋に入れて縛った。

 視線を彼女に戻した時、もしかするともういなくなっているのではないかと考えて酷く不安になった。

 だが彼女は変わらずそこにいて、そして自分に微笑みかけてくれていた。

 なぜか嬉しくて心が沸き立った。

 しかし彼女は自分の滑稽な様子を笑ったのだと気付いて、恥ずかしくなった。赤面して俯いたリョホウは、その場から離れたくなったが、しかしここで分かれれば二度と会うことはないかもしれないと思い踏みとどまった。

 ふと気がつくと、彼女はいつの間にかリョホウの前に立っていた。

「大丈夫ですか?」

「え?」

 一瞬なにを問われたのかわからずに、しかしすぐに薬をこぼしたことだと理解した。

「あ、うん。大丈夫。少しぼうっとしていて」

「そう、良かった」

「あ、あの。市の時はいつもここにいるの?」

 初対面でいきなりなにを聞いているんだろうか。

 自分の図々しさが信じられなかった。

 しかし後で考えると、そんな大層な話題でもなかったかと思った。

 彼女はどう思ったのか、明るく答えた。

「いいえ」

「そう」

 なら次はもう会う機会はないということか。

 いや、どの市場に出るのか聞けば、また会える。

「ここに来るのは、今日が初めてなんです。この町に来るのが初めてなんですけど」

「あ、そうなんだ」

 なら会える機会は思ったより多いのかもしれない。

 いや、次に会ってからなんて考えなくていい。

「それじゃあ、僕が案内しようか?」

 初めてなら地理に不慣れだろうという発想からの提案だった。そしてそれは成功した。

「本当? ありがとう」

 彼女は顔を輝かせて喜んだ。



 その日は彼女と一緒に市を回った。

 彼女は地理を覚えるために歩いていただけで、特に用もなかったらしい。

「だからあなたの好きなところを教えて」

 彼女の言葉にリョホウはどこへ行くべきか迷ったが、結局自分のいつもの経路を歩くことにした。

 途中で彼女が興味を持ったもの、興味を持ちそうな場所に立ち寄る。

 南方の果物を積んだ荷車に、得体の知れない骨董品売り。

 各種様々な人相模様のお面。

 甘い飴。

 弓の遊びでは命中するごとに彼女は拍手をし、玉当てでは彼女は当たらないことに意地になった。

 不意に手が触れると、彼女は赤面して手を引っ込め、リョホウも酷くうろたえる。

 しかし一時のささやかな心の混乱が過ぎると、なんだかとても楽しいものに思えてきた。

 彼女はおかしそうに含み笑い、リョホウは後ろ髪を掻く。

 そして二人は手をつないで歩いた。

 それは数年来の付き合いだと誰もが思う仲の良さで、今日であったばかりなのだと誰も思わなかった。

 リョホウは彼女の動作一つ一つに瞳は釘付けになり、言葉一つ声一つに耳は他のものが入らなくなる。

 微笑む彼女のずっと側にいたい。

 側にいてほしい。



 楽しい時間は過ぎ、夕暮れが別れの時を告げる。

「今日はありがとう。楽しかった」

 純粋に感謝の言葉を告げる彼女に、リョホウは返す言葉が見つからなかった。

 言いたいこと、伝えたいことは自分でも明確に自覚しているのに、それを伝えることができない。

 とても単純な気持ちが表せない。

 彼女は怪訝に不思議そうな顔をする。

 勇気を出せ。リョホウは自分を叱咤する。

「あの!」

「はい!」

 思わず大きな声のリョホウに、彼女は驚く。

「あの、また会えるかな?」

 彼女はその言葉が心の奥底に浸透するのを待つように、そして深く理解してからのように、少しの沈黙を経てから、答えた。

「明日、また来るから」

 そうして早足に立ち去ろうとする彼女に、リョホウは聞きそびれていたことを慌てて尋ねた。

「ねえ、名前はなんていうの?」

 彼女は振り返る。靡く髪が夕日に照らされて輝いた。

「メイリン」



 別れるときの再会の約束は、一生に一度の約束であるかのように、たとえ来なくとも自分は必ず待ち続けるかのように強い約束だった。

 そして約束どおり、次の日に同じ場所で、二人は再会した。

 自分の知る場所を多く知ってもらおうと、前回とは違う場所を回り、メイリンは楽しそうにリョホウについていった。

 手をつないで歩く二人は、誰の目から見ても仲睦まじい恋人同士で、会うのが二度目だとは誰も思わなかった。

 楽しい時間は早く過ぎる。

 高かった日差しも随分傾き、ふと見るとメイリンの顔が少し暗いものに変わっていた。

「どうしたの?」

「ううん。なんでもない。少し疲れただけ」

 一日中遊びまわっていたのだ、細い体の彼女には体力があるとは思えない。

「そこで休もう」

 リョホウは馴染みの茶屋に入ると、お茶と菓子を頼む。

「可愛い子、連れているのね」

 いつの間にいたのか、それとも初めからいたのか、すぐ隣の席にユイハとホウロがいた。

「やあ。市はどうだった」

 自然とこぼれる笑顔で、今日の商売を訊ねる。

 それは誰もがする挨拶のような話題で、しかしユイハとホウロはなぜか驚いた顔をした。

 なぜそんな反応を見せるのか、リョホウにはわからなかったが、ただメイリンが気になるのだと解釈した。

「ホウロとユイハ。僕と同じ村なんだ。この子はメイリン」

 二人の内心に気付く由のないリョホウは、メイリンに紹介すると、三人はお互いに会釈した。

 ホウロはメイリンとリョホウを交互に、そしてなぜか驚いているような眼で見ていた。

 そしてユイハは、メイリンにどこか剣呑な視線を向けていた。

 その視線に少し怯えてメイリンは身を引いた。睨んでいるような目になっていたことに気付いたユイハは、すぐに笑って安心させる。

「はじめまして。メイリンさんね。メイリンって呼んでいい?」

「……うん」

 言葉少なく首肯するメイリン。

「大丈夫? 少し歩きすぎたかな」

 メイリンの二人への対応が自分の時とは少し違うが、先程からの疲労によるものだと思ったリョホウは、気遣う言葉を向ける。

「ううん。平気」

 それから四人で色々なことを話した。

 出身がどこであるとか、そういったことは聞かず、どの店の団子がおいしいか、大道芸はどこが面白いかという、取るに足らない他愛のない話で、すぐに打ち解け合った。

 お茶を飲む。香りが喉を潤す。茶菓子を食む。甘味が口に満ちる。

 やがて湯飲みは空になり、茶菓子もなくなる。

「さて、俺たちはそろそろ行くよ。ユイハ、お前も親父さんたち待ってるんじゃないのか」

 ホウロに指摘されて、ユイハは名残惜しそうに席を立つ。

「それじゃわたしたちはもう行くね。メイリン、またね」

 二人が去った後しばらくしてメイリンは訪ねた。

「次はどこへ連れて行ってくれるの?」

「もう大丈夫?」

「うん」

 実際メイリンの疲労は回復したようだった。

「じゃあ、行こうか。見せたい場所が、一つ残っているんだ」

「行きましょう」

 メイリンとリョホウは自然と手を取り合った。



 再び街中へ向かう二人の姿を、屋台の影から伺うホウロとユイハは、内心愕然としていた。

「信じられない」

「リョホウが、気を使ってるぞ」

 知り合ったのは何年も前だというのに、冷淡なリョホウは笑顔を見せるということが滅多になかった。

 まして特別優しさを見せたこともない。

 薬師の技量に優れ、病人に面倒もいいリョホウだが、仕事の領域を超えたことはなかった。

 それは友人であるホウロにも、ユイハにも同じだった。

 それがまったく無関係の、客でさえない娘に、必要のない労力を惜しみなく注いでいる。

「うそぉ。なんでよぉ?」

 ユイハは泣きたくなってきた。

 だが認めないわけにはいかない。

 目の前に真実は存在する。

 そして、自分が戦わずして負けたことも。

 ホウロが慰めるように頭を撫でたが、慰めになっていなかったので、振り払うついでに、頬を引っぱたいた。

「……なんで俺を?」

 やるならリョホウにしてほしい。

「近くにいたからっ!」

 八つ当たりだった。

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