十八章 密会

 ポー親子を乗せた船が日本を出国して数日後。

 星ノ宮の晴天は長くは続かず、雨になった。

 部屋を叩く雨の音で長谷川綾子が夢から現実にゆっくり戻った。

 安心できる力に包まれて名前を呼ばれていた。

「目を覚ませ、綾子」

 閉じていた目を開けると逞しい筋肉に無数の傷のある身体があった。

 若かったころの修行時代に付けた傷や傭兵時代に負った傷が体に刻まれていた。

 上を見ると平野平秋水の顔があった。

 大きなベットの上でお互い一糸まとわぬ姿である。

「どれぐらい、寝ていたかな?」

「そうだな……二十分ぐらいじゃないか? 俺も少し寝た」

「そう……だいぶ、乱れていたんでしょ?」

「しょうがないだろ。誘拐された時の薬の影響だから、気にするな……まあ、俺のが蕩けてとろけて消えちまうかもと思ったぜ……」

「やめてよ」

 秋水の冷やかしに綾子は苦笑しながら厚い胸板を叩く。

「だいぶうなされていたぞ……」

「……」

 病院ではない。

 ここは星ノ宮郊外にあるラブホテルである。

 品がいいとは言い難い薄赤い照明に、安い建材のせいか、外壁を打ち付ける雨の音が響く。


『ジック』に誘拐されて以来、綾子は自分自身の性欲を持て余していた。

 仕事中は社員たちの手前、淫らなことはできないが社員たちが全員帰り、修繕されたマンションに一人になった時、綾子は乱れに乱れた。

 ネットの通信販売やアダルドグッズ販売店で様々な道具やDVDも買って使った。

 そして、そのたびに夢を見る。

 身近な人間、平山をはじめとする社員たちや石動肇、息子の正行などが綾子の自慰行為を蔑んだ眼で見て、一人、また一人と自分の前から去っていく。

 いつの間にか、彼女は黒い顔の表情すら見えない見知らぬ影に犯されていた。

 嫌なのに体が敏感に反応する。

 絶頂の直前。

 最後まで残っていた秋水が踵を返して背を向けた。

 体の絶頂とは反対に綾子は悲しい気持ちになった。

 とても、寂しかった。

 自分の身体が憎らしかった。


 綾子はポツリポツリ秋水の腕の中で夢の話をした。

「……最悪よね。正行たちに偉そうに言っていたのに……」

 綾子は自嘲気味に笑った。

 それに対して秋水は彼女の滑らかな肩を撫でた。

「久しぶりに抱いたが……お前、可愛かったぞ」

「……知っているんでしょ?」

「何を?」

「私が平山君にも抱かれていたこと」

 しばらく、沈黙が下りた。

「まあ、察しぐらいはついていたぜ」

 秋水の言葉に綾子は驚いて顔を上げる。

【元】夫の表情はいつも通り飄々ひょうひょうとしていた。

「平山がお前のことを『綾子さん』と言っているし、年齢が年齢だ。そりゃ、健全な男女ならお互い身体が欲することもあるだろうよ」

「平山君はビジネスだと『長谷川さん』っていうのよ、本当に……でも、秋水なら私よりもっとかわいい子とか……」

 だが、その言葉は唇に当てられた人差し指で止められた。

「あのな、厄介事引受人こんな仕事なんてやっていれば、色々な女から誘われる……でもな、そういうのは大抵罠だ。有り金がすれるぐらいは可愛い。最悪、腹上死に似た毒殺とかで翌朝早朝にゴミの集積場でカラスの餌になっていることだってあるんだ。ハードボイルド気取って誰とでも寝るなんざアマチュアのすることだ」

「でも……だって……」

 綾子は言葉を継ごうとする。

 自分が裏社会などを甘く見て結果秋水たちに迷惑をかけたこと謝罪。

 薬を盛られていたとはいえ痴態を演じたことの情けなさ。

 言葉は浮かび脳の中で弾け、消える。

 どういう言葉を言えばいいのか、綾子は迷っていた。

 雨音だけが部屋の中に響く。

 今度は秋水が話し出した。

「あのさ、綾子。俺、考えたんだ」

「何を?」

「自分の事」

 自己中心的な性格に見られがちだが、秋水の性格は基本的に献身的な性格だ。

 相手が望む、必要な役を演じる。

 実際、彼とのセックスでも彼は常に綾子を思いやり自分の欲望よりも彼女の心と体が満足できるようにしっかり避妊をして丁寧に扱った。

 欲望に身を任せて腰を振ることなどない。

 秋水と深く長い間付き合っていた綾子だからこそ気づけた性格だ。

 そもそも、何処にも行き場所のない不良寸前だった彼女を拾ったのは彼だった。

『おいで』

 豪雨の中、路地裏で座り込んで濡れていた綾子に、自分が濡れるのを構わず、秋水は傘を差し出した。

 その言葉で自分はどれだけ救われただろう。

 綾子が欲していた、『自分にとって都合のいい人』。

 それが秋水だった。

 彼はいつも自分の事なんて二の次、三の次であった。

 常に彼は周囲に目を配り側にいて力になった。

 だから、驚いた。

 秋水が自分自身のことを考えるなんて珍しい。

「俺、集中治療室にいたとき、ずっと自分のことを考えていた……幸せって何だろう? 何がしたいのか? そんなこと……綾子たちに言いたくって言えなかったこととか……」

 今度は綾子が黙って聞いている。

「子供の頃は、そんなこと考える暇もなかった。あったとして、親父のいない間に縁側で昼寝をするぐらいだった……」

 それから、秋水は綾子の体を抱きしめた。

「だから、お前と正行で家族になれた時は嬉しかった。だから、怖かった」

「離婚した理由?」

 秋水は頷く。

「それと『鬼』と呼ばれていた親父への当てつけだったのかも知れない。俺のわがままだ。だから、離婚して戦場を渡り歩いた。でも、虚しかった。孤独だった。慣れているはずなのに……」

「だから、傭兵を辞めたの?」

「何もかも捨て去った気持ちになっていた。でも、そんなの嘘だった。ただ、自分の気持ちから逃げていただけだ」

「じゃあ、これから、どうするの?」

 綾子も抱きしめる。

「もし、許されるのなら……」

 その時、無粋な電子音が流れた。

 二人は顔を見合わせる。

 音源は壁のフックにかけた秋水のブルゾンからだ。

 綾子は汗を流すためか、取水の腕を解いて風呂場へ向かった。

 ベットを出て秋水は自分のブルゾンから出したスマートフォンの画面には【非通知】の文字。

 だが、だいたい、内容は分かっている。

「はい、平野平」

『よう、今、大丈夫かい?』

 案の定、猪口からであった。

「何か?」

『なんか、刺々しいな……あのUSBみつかった? ……今、事後処理ついでに数人の刑事を動員して現場を探しているんだけど欠片もないんだよね』

 スマートフォンから猪口の愚痴が聞こえる。

「だから、入院中にわざわざメールで報告でしょ? 弾丸でバラバラになったって……」

 場所を誤魔化すようにテレビを付けた。

 下らない芸能ニュースをしていた。

『そうなんだけどさ、欠片とかあれば多少の修復は出来るからね……もっとも、全部の欠片があれば、万々歳だけど……』

「ツンドラ王国と上手く交渉するためですか?」

『俺自身には関係ないけど、外務省が結構本気で探している……全部【ジック】【バイス】のせいにしてとらえた手柄は自衛隊と在日アメリカ軍に横取りされたから、実益が欲しいみたい』

「もしかして、俺たちが隠し持っているとでも思っているんですか?」

 秋水は言葉に怒気を含ませる。

『まさか……君たちの存在自体、公安部でも極々限られた人間しか知らないよ』

 横目で見るとシャワールームから綾子が心配そうに秋水を見ていた。

『あ、そうそう。外国人歌手を撃った狙撃者の外見が少しわかった』

「どうせ……」

『身長百八十センチのほうだ』

「え?」

 予想していない返事だった。

――ポーではないのか?

「第三者が関わっていると……?」

 声を潜めて秋水が言う。

『まあ、徹底的に証拠を無くしているから追跡が難しいだろうね……』

 テレビでは短いニュースを流している。

 誘拐、詐欺……

 相変わらず、この世界は目まぐるしく変化する。

――次のニュースはアメリカで行われた宇宙葬に関しての……

 原稿を読み上げるアナウンサーの後ろに見知った男の影が見えた。

 思わず、前に身を乗り出す。

 しかし、ニュースは次の季節の話題になっていた。

『どうした?』

 ただならぬことに猪口が聞く。

「いえ……彌神はどうしました?」

『え? 彌神? どうして聞くの?』

「今さっきテレビに……」

『そんなはずないよ……彌神は死んだんだぜ』

 また、秋水が驚く。

「死んだ?」

『ああ……実は事件前からアメリカで何かやりたいことがあるらしく辞表を出していたんだ。で、最後の事件として今回のことがあった……でも、数日前かな? 【同居人】と名乗る人物から律儀に亡くなったことを知らせる手紙が来たよ』

「……見間違えなんですかね?」

『彌神が持っていると? 何のために?』

 こう改めて聞かれても秋水は困った。

「壊れたUSBメモリーをもって裏取引?」

『まさか、あいつの経歴を見たが俺の部下になるまでは至極真っ当な経歴の持ち主でツンドラ王国とは関係がないんだぜ』

「そうですか……」

 そう言いながらベットの横にあるごみ箱を見る。

 避妊具に包まれ処理された己の体液が複数捨てられていた。

 最盛期に比べて数が少ない。

――若い、と思っていても疲れるとロクなこと考えないな

 秋水はそう思った。

『じゃあ、USBは、もう、この世界にないという事でいいんだな?』

 猪口が念を押すように聞く。

「はい。まあ、看護師さんが『ゴミ』として処理したのかも……」

『分かった、上のほうにそう報告する……駒を失うのは痛いけどな』

 通話が終わった。

 溜息を吐く。

 全裸で脱力と言うものだいぶ間抜けだ。

 股間の自分自身もだらりっと下がっている。

 無様な姿である。

 しかし、猪口が石動の妻でありツンドラ王国国王の前妻であるナターシャの名前を出さないだけありがたい。

「秋水……」

 シャワールームの扉から綾子がこちらをうかがっていた。

「どうした? シャワー、まだ浴びてないのか?」

 頷く綾子。

「じゃあ、一緒に浴びるか?」

「嫌よ」

「大丈夫だって……興奮しても手を出さねぇよ」

「……じゃあ、私が興奮して手を出してきたらどうするのよ?」

 その言葉に秋水は胸が高まり、綾子を見た。

 下がっていた秋水自身が反応する。

 その可愛い彼女は恥ずかしそうに下を見ている。

 雨が降り続いている。

 まだ、雨が止むまで、ここにいることになるだろう。

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