十一章 Pains of losing(失う事の痛み)

 ポーのワゴン車で港へ向かい、桟橋に横付けされたクルーザーに乗り換えて平野平秋水、正行、石動肇は『ジック』が所有する船に乗り込んだ。

 武器や防具などはポーがあらかじめ、用意してくれた。

 石動肇は、装備を身に付け敵地に向かう間、妙な気分に襲われていた。

 この絶望的な状況で、心のどこかが喜んでいるのだ。

 無論、平野平親子の心中を察知れば表情にも出してはいけないことだろうが、圧倒的な怒りの中に興奮気味に浮足立つ自分がいる。

 本来ならば、悲しいことなのだ。

 しかし、確実に石動は心の何処かで楽しんでいた。

 退屈な日常からの脱出。

 肌がひりつく様な緊張感。

 それらは、どんな酒や女よりも得難い快楽であった。

 護衛のためのゴムボートを見つけた。

 ナイトクルーズで遭遇したように装い、侵入してきた者たちをその場で気絶させた。

 待っていた者たちも手早く気絶させ、クルーザーに置いた。

 誘導はポーが行ったが、背後から気絶させるのは全て秋水が行った。

 見事であった。

 一人に要する時間は一秒もない。

 気配と足音を消し的確に素早く相手を気絶させる。

 言い換えれば、人間の構造をよく知り致命傷も知っていることの証左だ。

 加えて、気配が異常に静かなのだ。

 普段、こういう事件の時でもいつもなら、秋水は何処かおどけていたり、悪ふざけをしたり、時には自分たちを混乱に陥れるようなこともする。

 それが一切ない。

 ポーの気配を『森の静寂』と例えるなら、今の秋水の気配は『深海の静寂』だ。

――道化の仮面に隠された本当の顔

 長い付き合いの石動ですら、このような師を見るのは初めてである。


 平野平家の家系を秋水の父である春平から聞いたことがある。

 曰く『暗殺専門に扱う忍者の末裔が自分たち』なのだそうだ。

 その技術などを転用したのが『星ノ宮に棲む鬼』や『厄介事引受人』と名乗るようになった原因らしい。

 裏社会では『霧の巨人』と呼ばれた傭兵でもある秋水も子供のころから鍛えられていた。

 正行も同様だ。


「石動さん、行きますよ」

 正行が声をかける。

 ゴムボートに乗り換えて敵の船は豪華客船のように巨大だった。

 後に知ったことだが、この船は某国で引退した豪華客船を秘密裏に買い取り内装を変えて転用したものだ。

 仲間を装い、船のほうから縄梯子を投げてもらい、難なく船内へ侵入する。

 しかし、すぐに侵入者だと分かり襲い掛かる見張り達。

 それを正行は全てかわして全員を海に投げ捨てた。

 道場で学んだことであり、全ての動きが合理的だ。

 普段、このような場だと文句を言って、または緊張して受け身一方になる。

 正行の心は相手や状況に対して過度に恐れ、迷い、自己を過小評価する部分があるからだ。

 今回はそれがない。

 戸惑いも恐れもない。

 彼もまた、本人の自覚はあるかどうかは不明だが、今回の事態に父同様に怒りを覚えていたのだ。

「正行、ポー。お前たちは下の動力源を壊せ。綾子は俺と石動で探す」

「俺も母さんを助けたい」

 正行が反発する。

「行け」

 秋水の言葉はあくまでも静かだ。

 だが、そこに有無を言わせない冷徹さがある。

 逆らえば自分の子供であっても命さえ危ない。

 父の言葉に鋭い眼光を避けるように息子は一回首を上下に振った。

「頼む」

「はい」

 親子はそれだけの会話で背を向けて走り出した。

 石動とポーも相棒を追いかえるよう走る。


 秋水は走る速度を変えずに敵兵を薙ぎ倒していく。

 彼を追う石動はその速さに舌を巻いた。

 元々、学生の時から運動神経が良く、格闘技を含め様々な運動部の助っ人をしていた。

 その中で、特に得意だったのは持久力と早さを求められるマラソンや反射神経が要求されるバスケットボールなどだった。

 体育祭などでは、学年どころか学校で一番を取ったことも何度もあるし、野球部などを全国大会に導いたこともある。

 その石動でも秋水の速さは驚きだ。

 確かに、学生の時から比べれば年齢による衰えはあるだろう。

 それでも、トレーニングをし、平野平家の道場で修行をした。

 他の同年代から比べれば筋肉もあるしスタミナもある。

 頼まれて裏社会に首を突っ込み全力で逃げることもあるが後ろにいたのは秋水である。

 今は、彼の背中を追いかける。

 追いかけるのに精いっぱいだ。

 その上、秋水は敵たちを倒す。

 文字通り『一撃』である。

 その動きは、まさに『悪鬼』そのものである。

 相手は一瞬で這いつくばり気絶し、中には泡を吹き、呻いているものもいる。

 気絶か戦闘不能にはさせているだけだろうが、正行よりも動きが機敏で正確なのに変わりない。

 敵も訓練されているが、所詮はつけ焼き刃だ。

 平野平家の人間は、その血に暗殺者としての遺伝子が組み込まれているのだ。

 石動は目の前にいる男の恐ろしさを改めて感じた。

 戦場で『霧の巨人』と呼ぶにふさわしい。

 彼が味方ならば希望を見出し、敵ならば絶望を学ぶだろう。

 秋水が足を止めた。

 石動も走るのを止めた。

【pig Person】

「豚小屋?」

 石動が塗料スプレーで書いたであろう、ドアの文字を見て首をひねり、直後、血液が逆流するような不快感が襲った。

――上等な女なら妾か慰み者にする

 秋水が前蹴りで鋼鉄の扉を蹴り破った。

 その部屋は奇妙な機械が置かれていた。

 ちょうど、入室した者が最初に目にする巨大な、それは妊婦の診察台のようなシートを囲うように様々な装置があり各所からパイプやコードで繋がり、機械でありながら巨大な生き物のようでもあった。

 そのシートに長谷川綾子が全裸で座っていた。

 太腿は大きく広げられ、固定され陰部を遮るものが一切ない。

 乳首も洗濯挟みのようなセンサーが挟まれている。

 秘園に機械に繋がった疑似男根が上下に挿入されて激しく動いていた。

 手首も機械に固定され、首も留め具で激しく動けないようにしている。

 鼻から上はカバーが取り付けられて外部の情報は分からないようだ。

 全身が汗などの体液でまみれている。

 機械の傍には様々なアンプルと使用済みの注射器が落ちていた。

 周囲には黒山の兵士たちが興奮気味に見ていた。

 中にはズボンに手を入れている者さえいた。

 最初、目の前の現実が理解できなかった。

――趣味の悪い夢

 にわかには信じられなかった。

 だが、目の前に現実はあった。

 口はボールギャグと呼ばれる口枷をしていて、呻きをあげている。

 血が冷たく沸騰する。

 これが妻だったらと思うと、自分を抑えることに自信がない。

 楽しむ余裕などない。

 石動は堪らず、みだらに動く細腰から目を背けた。

 秋水は、音もなく前に出た。

「何者だ! てめぇ‼?」

 襲い掛かる兵士。

 だが、秋水は最低限の動作で地に伏せさせる。

 すぐに、誰も手出ししなくなった。

 悶える綾子から秋水は機械を外し、素手で全ての枷を外した。

 最後に頭を覆っていたカバーを取り、綾子の肩を優しく叩く秋水。

「綾子、綾子……」

 目を閉じていた彼女はうっすら目を開け、横を見る。

 秋水の姿が映ったはずだ。

 羽織っていた黒のジャケットを綾子にかける。

「ごめんな、綾子」

 優しく声をかける。

 秋水の悪鬼のような形相だったのが、普段の温和な顔になった。

 その瞬間、綾子の顔は歪んだ。

 救ってくれた喜び、誘拐された理不尽さ、みだらな姿を大勢に見られた屈辱などが入り混じった表情だ。

 次の瞬間。

 綾子は部屋全体に響くほどの大きな慟哭し涙を流した。

 彼女を秋水は黙ってジャケットごと抱きしめていた。

 やがて、電池が切れたように綾子は崩れ落ちた。

 泣き疲れたのか、体力の限界だったのか……

 秋水はジャケットごと優しく抱え上げた。

 腕の中の元妻を抱えて秋水は歩き出した。

 その姿は、卑猥な部屋において一幅の絵画のような壮麗さがあった。

 皆、その姿に畏敬の念を抱いた。

 石動の前で秋水の足は止まった。

「石動」

 茫然としていた石動は、秋水の声で我に返った。

「はい!」

「綾子を連れて正行たちと合流して、待っていろ」

 秋水は丁重に差し出された石動の腕に目を閉じた元妻を下ろした。

 その時だ。

「私は、平和と愛の機関ジックのリー……」

 秋水に向けて銃を構えた兵士がいる。

 その瞬間だった。

 銃声がした。

 秋水が抜き手も見せずに隠し持っていた拳銃で背後の兵の肩と股間を撃ち抜いたのだ。

 周囲に飛び散る肉片と悲鳴。

『リーダー』と名乗りたかった男は確かに、他の兵士のような迷彩服ではなく、気障きざに白のタキシードであった。

 銃を持った肩と股間から赤がにじみ出て広がる。

 秋水が手にして拳銃はスミスアンドウェッソン社のM29(4インチモデル)である。

 元は狩猟用の拳銃だ。

 あまりの速さに、敵兵は沈黙を守った。

 わざと足音を立てて秋水はリーダーの前に立った。

 そこに感情はなかった。

 怒りもなく、喜びもなく、悲しみもない。

 精巧な機械に人間の皮をかぶせたような表情。

 リーダーは痛みのあまり跪くように悶えていた。

 脚を上げる秋水。

 見た目に似合わず、足は垂直に上がった。

 それを冷徹に頭めがけて振り落とす。

 その姿を見たとき、石動は綾子を抱えたまま叫んだ。

「やめてくれ‼」

 それは、秋水を思いやった言葉ではない。

 石動が、『殺しを嫌う』ことに起因する。

 その言葉が届いたのか、リーダーの頭を砕く寸前、秋水の足の軌道は僅かに逸れ、撃ち抜いた反対側の肩に当たった。

 再びリーダーの苦悶が部屋中に響いた。

 たぶん、肩の骨が砕かれたであろう。

 終いにはあまりの痛みに口から泡を吹いて気絶した。

 万が一、頭に同様のことが起こった場合、頭がい骨と脳は破壊され確実に死んでいたはずだ。

「石動」

 秋水は石動を見た。

――『殺し』はしない

――だから、早く行け

――そして、綾子を守ってくれ

 石動は、表情からそう読み解き、秋水に背を向け来た場所を戻り始めた。

 同時に床が揺れた。

 何かが爆発した振動。

 正行たちが動力源を破壊したのだ。

 部屋を出たのと同時に銃声や悲鳴が上がった。

 静かな海のような秋水の気配は『怒り』という嵐によって荒れ狂った。


 合流地点は乗船したデッキである。

 緊急用の小型ボートがあり、それを使って脱出しようというわけだ。

 ほぼ同時に石動と正行たちは合流した。

「石動さん、母さんは?」

「大丈夫、気絶しているだけだ」

 どういう状況に置かれていたかは説明しなかった。

 敵と戦ったことと母親が無事なことに正行は普段の調子に戻っていた。

と、ポーの姿を見ない。

「正行、ポーはどうした?」

「……あれ?」

 指摘を受けて正行も辺りを見回す。

「ここに来るまではいたんですけどね……探しに行きましょうか?」

「いや、おやっさんを待って、あのボートに乗ろう」

 両手の塞がっている石動は顎で外を示す。

 そこにはボートのような小型救命艇があった。

 急いで正行がカバーを外す。

 ドンッ!

 大きな腹に響く爆発音が床を揺らした。

 それから、音こそ小さいがあちらこちらから火の手が上がった。

「正行、俺が操縦するから彼女を頼む!」

 石動は秋水のジャケットに包まり眠っている綾子を正行に渡した。

 慌てて受け取る正行。

「石動さん、救命艇って外から解除しなくちゃいけないんじゃ……」

「今の救命艇は基本、操縦席からできる。何度か接待ついでに操縦方法は習っている」

 燃料などをチェックする。

「親父!」

 そこには、衣服をぼろぼろにしながらもやってくる秋水がいた。

「石動! 船は出せるか⁉」

「はい!」

 この状況で石動の心は少しだけ安らいでいた。

 ポーの所在は気になるが、とりあえず、人質を救出し生還できる。

「正行は母ちゃんと船に乗れ!」

 秋水が殿しんがりをするようだ。

 母親を抱えた正行が乗船し秋水が乗り込もうとした時だ。

 銃声がして、秋水が倒れた。

「ナターシャは俺たちがもらう‼」

 そこには秋水に迫りそうな巨漢の男が銃を構えて歩み寄っていた。

 狂気に彩られた目。

 石動も正行も、すぐに分かった。

――戦闘狂だ

 だが、正行は綾子を抱え、石動の操縦席からは距離がある。

 と、その歩みが止まる。

「ま……待て……」

 男の片足を秋水が抱え込んでいた。

「石動、船を出せ‼」

「おやっさん‼」

 迷う石動は声をあげる。

 男も久々の強敵と見抜いたらしく、ニヤリっと笑い、銃を捨て方向を変えた。

 だが、秋水は胸部を打たれたらしく足元がふらついている。

 アメリカンフットボールようなタックルで秋水に突っ込む。

 受ける秋水は壁にぶつかる。

 だが、それが狙いだった。

 秋水のぶつかった先には緊急脱出用のボタンがあった。

『例外』としてメンテナンスなどに使う船の外部から救命艇を降ろす装置だ。

 石動が、そのことに気が付いた瞬間。

 船は落ち、大量の海水が頭上から降ってきた。

 石動も正行も揺れる船体から海に落ちないように周囲の物を握りしめ、衝撃に耐えた。

 揺れも収まり、石動たちが目を開き、前を見たとき、彼らは声が出なかった。

 船は、ありとあらゆるところから炎が噴き出し爆発し燃え上がっていた。

 周囲の海には、船から脱出したものが泳いでいるが死体の影はない。

 爆発音で正行の腕の中で綾子が目を覚ました。

「どうしたの?」

 まだ意識がぼんやりしている綾子が正行に問う。

 正行は、その問いに声に出して泣き出した。

 石動にも痛恨だった。

「おやっさん!」

 いつも慣れ親しんだ言葉を石動は漆黒の海へと叫んだ。


 

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