彼の望んだ結末
十二章 despair and hope(絶望と希望)
あれから、どれぐらい時間が過ぎたのだろう?
石動肇は、妻と元々住んでいた洋館へ戻り日常生活に戻った。
……はずだった。
船が炎上し、すぐに駆け付けた水上警察に救助され、色々聞かれたか何を話したのか記憶にない。
長谷川綾子は体に異常がないか怪我の確認など救急車で運ばれた。
正行は溢れ出る涙を止めることで精いっぱいだった。
不幸中の幸いで、あの爆発で死者は一人も出ず『ジック』はリーダーを含め全員が逮捕された。
同時に平野平秋水の痕跡も一切見つけることが出来なかった。
何がどうなったか、さっぱりわからない。
ただ、世界の色が色あせて見えた。
何とか必要最低限の日常生活を送ってはいるが、感情も暗く沈んでいる。
妻や家族同然の家政婦が慰めようとするが何を言っているのかよく分からない。
目を閉じれば思い出す、秋水の被弾と燃え上がる船。
――あの時、どうすれば、正解だったのだろう?
漠然とした問いだけが支配していた。
仕事も手に付かず、石動はずっと天井を見ていた。
と、前髪を掴まれた。
痛い。
目の前には大柄で眼鏡を掛け、髭面の男がいた。
親友の
「すまん、肇」
長年の友は、そういうともう片方の手で石動の頬を叩いた。
乾いた音が部屋中に響いた。
その痛みと驚きで石動は多少、状況が分かった。
ここは、屋敷のフロアーで、自分は中庭が見える窓の前に置いたアンティークソファーに座っている。
前には自分の髪を持っている、長年の親友。
後ろを見れば、心配そうな妻と家政婦が様子を見守っている。
妻のお腹が少し目立つ。
現実味がない。
「肇! 俺のほうを見ろ‼」
目の前の親友は石動の肩を持った。
どう反応していいのか、どう言っていいのか石動にはわからなかった。
友人は怒りと悲しみが混ざったような表情だ。
長い付き合いだが、こんな表情は見たことがない。
「ナターシャさんから話は聞いている……だが、俺は細かくは分からない」
ふと思い出した。
――そういえば、仕事はどうした?
案件が浮かんだ。
とは言っても何も命令する気も起きないが……
大野は石動の髪から荒々しく手を放した。
「お前、今、自分がどういう立場か分かるか?」
石動は首を傾げた。
「俺はお前にクーデターを起こした」
ますます、首を傾げる。
『クーデター』も何も会社は、『アイトライブ株式会社』の実質的役員は、石動肇と大野太の二人だけだ。
「腑抜けている間に俺が社長になった。だから、部下である石動肇に命令する! 元に戻るまで戻ってくるな‼」
そういうと強引に玄関に連れ出され、ポイっと外に放り出された。
よくわからない間に、ドアが閉じられ、施錠される音がする。
だが、この仕打ちに石動の片方の口角が上がった。
長年の友は、腑抜けて仕事が出来ないことを心配して『クーデター』という名の強制的な休みをくれたのだ。
本当は実働部隊のリーダーとして大変なのに『全て任せろ』と言ったに等しい。
だが、易々と心の空洞は埋まらない。
むしろ、自分の不甲斐なさに怒る気力もない。
ガレージに行く。
愛車を見る。
あれだけ『魂の半身』と思っていたグリフィスが、ただの鉄の塊に見えた。
石動は、ガレージを出て、足が歩むままに道を拾い始めた。
平野平家の住居兼道場は、工事中だった。
だが、だいぶ、形が出来てきた。
柱など使えるものは再利用しているらしく、一見、昔のままに見える。
「あ、石動さん。もうすぐ、完成しますよ」
以前、話を聞いた棟梁が近づいてきたが、石動は逃げるようにその場を去った。
いたたまれなかった。
思い出がたくさんある分、辛かった。
長谷川綾子のマンションに来た。
壊された場所を隠すためのブルーシートが目に眩しい。
どれだけ前なのか、考えすら浮かばない。
頭上から激しい怒鳴り声が聞こえた。
間違えがなければ、正行の声だ。
正行は、まだ一緒に住んでいたのだ。
『正行、しっかりしろ‼ おやっさんは戻ってこない‼』
この現実を言い、彼を支えるのが、多分、自分がやるべきことだろう。
でも、それが、正行の何になるのだろう?
本人は自覚もしていないし学業は平凡だが、正行は物や人の本質を見極めることが出来る賢い人間だ。
いくら『兄貴分』を演じたところで、この腑抜けたような自分が何を言っても正行の心には響かない。
怒りや呆れは返ってくるかもしれない。
それが何になるのか?
ただ、傷口を広げ、塩を振るだけではないのか?
石動は再び雑踏の中に身を進めた。
いつの間にか、雨が降っていた。
元から曇り空だったが、雨足が強い。
ちょうど、帰宅ラッシュらしく多くの人間が鞄やハンカチで頭に乗せ、速足で喫茶店やコンビニなどに避難するが、石動は足を引きずるように歩いた。
途中、何度か人にぶつかった。
中には文句を言いたげに鋭い目で自分を見るものもいたが、石動の顔を見ると気味悪げに一瞥して脇を通り抜ける。
気が付くと、目の前に十字架を掲げた一軒家があった。
横の看板には『教会』の文字がある。
石動の足は、そこで止まった。
すぐ近くには呼び鈴がある。
――何を話す?
心の中の石動が蔑んだ声で自問する。
――子供の頃に世話になったシスターに何を話す?
安易に話せば、ここにまで被害が広がるかもしれない。
親に連れられ、悪戯ばかりしていた子供だった自分を追いかけまわしていたシスターだって老いた。
仏陀も神もキリストも信じていない自分にとって、聖書は何の意味も持たない。
それでも、ここも、石動にとって大切な、守るべき場所であった。
「大丈夫ですか!?」
背後から声がかかった。
振り向くと傘を差し、ローマン・カラーを着て壮年に差し掛かった男がコンビニの袋を下げていた。
男は傘を石動に渡した。
「まずは、教会に入ってください。温かい飲み物を用意しますので……」
そう言って男は鍵を出して教会の玄関を開けた。
座らされたのは礼拝堂ではなく、食堂と会議室を兼ねた部屋のパイプ椅子だ。
細長い部屋に四つの会議用長テーブルを組み合わせ十人ほどが座れるようにしてある。
幸い、石動の着ていたジャケットは撥水加工がしていたため、折りたたんだ傘と一緒に来客用のポールにかけた。
数分もすれば、乾くだろう。
あれだけ濡れたにもかかわらず、スーツは奇跡的にあまり汚れていない。
ただ、全身から力の抜けた石動を男はテキパキとタオルを持ってきて顔や頭の水分を取ってくれた。
「ホットレモネードです……どうぞ」
手櫛で髪を整えていると男は目の前に、ガラスのコップを置いた。
湯気からレモンの甘酸っぱい匂いがする。
礼を失さぬように一口だけ啜る。
冷えた体にレモン特有の酸味とほろ苦さ、ガムシロップの甘さが芯から温めてくれる。
だが、やはり全部飲み干すだけの気力がない。
「……牧原先生は?」
石動は始めて口を開いた。
男は驚いた。
「あなた、シスターの牧原先生とお知り合いですか?」
質問する男に小さく頷く。
少しして、男が言った。
「間違っていたら、ごめんなさい……石動肇さんですか?」
今度は石動が驚いた。
「どこかでお会いしましたか?」
「いえ、初めてお目にかかります……ああ、名前を名乗るの忘れていました。自分の名前は
男は名乗った。
「石動さんのことは牧原先生から、よくお話を伺っていますよ。『子供頃から悪戯好きだったけど優しく賢く、強い』と言っていました」
まだ、両親が健在だったころに日曜学校に通わされていたが、確かによく悪戯をした。
大学生の時に両親が不慮の事故で亡くなったときには、自分のことをとても心配してくれた。
「牧原先生は、何処に……」
「隣の眞光市の教会に行っています。あっちの牧師さんが胃潰瘍で入院して、今、代理をしているんです」
石動は頭を抱えた。
牧原牧師なら自分の不甲斐なさを叱責してくれるかもしれない。
そう思っていた。
それから、気がついた。
――どうするつもりだ?
思考が堂々巡りをする。
秀でた状況判断能力を持つ男が思考の輪から抜け出ることができないのだ。
それを察したのか、上平が提案した。
「自分に話すのは、どうですか?」
石動は少しだけ迷った。
すぐに上平は察した。
「じゃあ、とりあえず、自分の話を聞いてくれませんか?」
「え?」
「実はね、今日は、こんな服装をしていますが、実際は近所の工場の工員です」
目を点にする。
「それに、自分、数年前まで六本木に自宅と会社がありました。一応、『ヒルズ族』でした」
「なんで、こんな場所で牧師の真似事をやっているんです?」
わずかに石動はこの男に興味を持った。
「よくある話ですよ。ITバブルの時に……敵対的買収を繰り返して親から引き継いだ事業を拡大させました。でも、それが終焉した時、唸るほどあった金は全て保証などに当てられ、追い出され、一週間もしないうちにホームレスですよ」
上平の言葉を聞く石動。
「それから、どれだけ時間が過ぎた分からないぐらい何をしたのか……気が付いたら、この街に流れ着いていました。ある日、見るからに『その道』と分かる人が公園のベンチで寝ている自分に言ったんですよ。『金をくれてやるから、ある男を監視しろ』と……」
それから、上平はニヤッと笑った。
「その相手が平野平秋水さんです」
「おやっさん⁉」
石動は驚いた。
ここに恩師の名前が出てくるとは予想していなかった。
「ええ……でも、素人ですから、すぐに気が付いたんでしょうね。彼が街角の煙草屋で店のおばあちゃんと話していて自分は反対側の角で様子をうかがっていました。すると、いきなり話を止めて近づいてきて『気配がうるさい』って手首掴まれ強引に連れてこられました」
上平は当時を思い出したのか苦笑する。
「ちょうど、庭掃除をしていて、そこに今の社長がいて、あれよあれよという間に工場の社員になり、住処も見つかり……幸運でした」
上平は少し天井を見た。
「あの時、見つけてくれなかったら自分はどうなっていたか……なんだかんだ言って秋水さんは優しいです」
上平は自分の前に置いたマグカップを手に取った。
舌火傷しないように中身を冷ましながら、ゆっくり飲む。
一息入れて再び上平は語る。
「ただね、今、牧原先生がいないから言えるんですけど自分自身、今もって『神』という存在に対して正直、あやふやなところがあるんです」
「ほお……」
「今日は、留守番のためにこんな服を着ていますが、ぶっちゃけ、洗礼は受けていません。お金が溜まって生活に余裕が出たら通信教育ですけど宗教について学ぼうと思っています」
上平の目は生きる活力に満ちていた。
対して、石動は上平の目に映る自分の姿を想像して自嘲した。
「石動さん……あなたは、浮かない顔をしていますね。まあ、自分が年頃の娘さんなら『ニヒルでカッコいい』と、ときめいていたかもしれませんが……」
沈黙が落ちた。
普段は気にも止めない年季の入った柱時計の音と窓に当たる雨音だけが部屋に響いている。
――そういや、悪戯して怒られたときも似たような場面があったな
石動はぼんやり思っていた。
違うのは、目の前の人物が説教ではなく提案をしたことだ。
「『独り言』を言ってみるのは、どうでしょうか?」
「独り言?」
「ええ。今日は幸い、会議も早く終わったし牧原先生も誰もいません。今、この教会にいるのは自分と石動さんだけです。ここで聞いたことを誰にも話しません」
石動は少し悩んだ。
それから、上平の顔を見て断片的に話し出した。
「贅沢になったのかも知れない……」
喉を湿らすようにホットレモネードを飲む。
「言葉の上では『いつ死んでもいい』とか『愛する者のために戦う』とかいろいろ言っていたけど……俺、身近にいる人を助けられなかった」
秋水が撃たれた時が脳の中で再生される。
――自分がもう少し用心していれば……
後悔が胸を苛む。
「『頭脳労働』を自任しながら何も考えることが出来なかった……」
思考はどんどん悪化する。
今なら、何故、秋水がいつも自分たちの背後にいたのか理解できる。
味方が怪我や不調になった時、いち早く見つけて背負うためだ。
いつも冗談や悪ふざけをしていたのは、みんなの気持ちを一つにまとめやすくするため。
もしも、自分が同じ立場になったら出来るだろうか?
出来ない。
今まで気づきもしなかったのだから……
『平野平秋水』とは何だったのか?
――人々を厄介事に巻き込み、楽しんでいる
本当にそれだけだったのだろうか?
石動は、様々な事件に遭遇するたびに多様な人々を見てきた。
自分の地位のために他人を罠にはめる者、過去の恐怖におびえて一歩が踏み出せない者、善良がゆえに不運な目にあう者……
だが、秋水は言う。
『確かに漫画やドラマのようにスポットライトが当たる奴らばかりじゃないけど、決して不幸な日陰者ではないよ』
秋水は様々な依頼を遂行したが、決して依頼者を『甘やかす』ことはしなかった。
それは、自分も同じだった。
普段、子供のように駄々をこね、拗ねたことをしている秋水だが肝心な部分は石動の意思を尊重していた。
結果の責任も負わせた。
――ああ、そうか
石動は不意に気が付いた。
恩師は、様々に『家族』を演じていたのだ。
弟のように我がままで、兄のように頼りになり、母のように愛情を、父のように厳しさを、その時々に合わせて使い分け石動を成長させていたのだ。
彼に会わなかったから、自分は『孤独』に自己満足し、どこかの国で野垂れ死にしていたのかも知れない。
そんな秋水に対して、自分は何が出来たのだろう?
再び、石動の中で後悔が疼く。
そんな下を見る石動に上平は口を開いた。
「独り言に返事をするのは無粋だと思いますが……石動さんは平野平秋水さんの遺体を見ましたか?」
首を振り否定する石動。
彌神から日々秋水の探索をしている。
傭兵どもはほぼ全員水上警察に逮捕されたが、秋水の遺体どころか衣服すら見つからない。
爆発の様子を思い出す。
生きているほうが『奇跡』だ。
「絶望って、なんで絶望というか分かりますか?」
石動は首を少し横に振った。
「自ら『望み』を『絶つ』から絶望。嫌な言い方になりますが、今の石動さんは自ら作った絶望の中で『ここは絶望だ』ともがいているんです」
「神に
「そんな腑抜けたあなたならば神のほうから見放しますね」
石動は反論できなかった。
「神のご意志は分かりませんが、たぶん、秋水さんも同じことを言いたかったのだと思います」
上平はそこまで言うと身を乗り出した。
「石動肇さん、あなたは『自由』です」
その言葉は石動の呪縛を解いた。
「例え、あなたがこのまま絶望の淵に立とうと、何か希望を見出すことも、闇に堕ちることも、あなたには、その中で生き抜く知恵も力も平野平さんから学んでいるはずです」
ここで上平は自分のマグカップを持って中身を飲み干した。
「でも、それは『誰かのため』じゃないです。『自分のために』生きてほしいのです」
石動は沈黙した。
窓を撃ちつける雨の音が再び大きくなった。
答えは、石動が、以前、秋水に言った言葉ではないか。
「自分を過小評価する、ということはとても安易なことですが無責任です。それ以上に悪いのは、関わった全ての人を『そんなもの』にしてしまうことですよ」
「……そんなつもりは……ない」
「ならば、胸を張りなさい。『未来』は予知や予想をするものじゃないです。『自分で可能にする』ことです。そして、今を生きるという事は、目の前のことを着実にやりこなすことです」
石動は考えた。
秋水のためでも社会のためでもない。
自分が何を望み、どうしたいか。
いつのまにか、雨音が止んだ。
部屋の中に太陽の光が差してきた。
石動は顔を上げた。
そこには、迷いも悩みもない。
実に晴れやかな気持ちと強い意志があった。
「俺、やりたいことを見つけました」
「それはよかった……では、帰る前に、残っているレモネードを飲んでくださいな」
玄関まで上平が見送ってくれた。
乾いたジャケットを羽織る。
「では、大変お世話になりました」
石動は上平に感謝の言葉を捧げた。
「いえ、こちらこそ、いろいろ生意気を言いました」
上平も頭を下げた。
「あ、そうだ。大切なことを言い忘れていました。あなたのような人は、思ったことをすぐ言葉にするといいですよ。言葉はすぐに色あせますから……」
と、上平が石動の背中越しに何かに気がついた。
石動も何事かと振り返ると白髪の小奇麗な年配女性がやっていた。
「ごめんなさいね、上平さん。雨がひどくって……代わりに向こうの教会に信者さんがケーキを焼いて……石動君?」
石動は体ごと女性に向ける。
「お久しぶりです。牧原先生」
「ちょうどよかった、一緒にお茶にしない?」
「いえ、今日はお暇します」
二人に頭を下げ、石動は街の雑踏に出た。
その背を見ながら牧原牧師は上平を見た。
「あなた、石動君に何か説教したの?」
「まさか……ただ、ちょっと尻を蹴った……ですかねぇ?」
そういって上平は笑った。
街に出た石動は人波をすり抜けながら、ポケットの中にスマートフォンがあるのを確認して取り出し液晶画面を叩く。
『はい、もしもし……』
「太、心配かけたな。俺だ」
短い言葉であったが、その口調と大きさに電話の向こうで親友が安堵したのが分かった。
『よかった……これで……』
「すまん! あともう数日だけ、『社長』でいてくれ」
石動の頼みに大野は反発した。
『はぁ⁉ 嫌だよ‼ 慣れない会議に接待に……俺の腹に臍が三つできるぞ‼』
「頼む!」
沈黙が流れる。
折れたのは友人だった。
『分かった……腑抜けになられるよりかはいい……ただし、条件を付ける』
「条件?」
『この案件が終わったら、何があっても俺はしばらく休暇をもらうからな‼ どんな仕事も受け付けんからな‼ 覚悟しておけ! 俺は南の島で家族とのんべんだらりと過ごすんだ‼』
友人の言葉にフッと石動の顔に笑みがこぼれた。
――それぐらい、お安い御用だ
「……了解。ありがとう」
家に戻った。
大野たちは帰ったらしく、出迎えたのはナターシャだけだった。
「おかえりなさい」
生気の甦った夫にナターシャも安心したようだ。
石動は突然、その妻を抱き寄せた。
その細い肩は石動の手が余ってしまうほどだ。
ふと、ナターシャに自分の思いをぶつけたときを思い出した。
あの時も、彼女を抱きしめた。
天涯孤独だった石動肇が『守りたいもの』を得た瞬間だった。
腰まで伸びる細くしなやかな金髪を撫でる。
今、抱きしめているのはナターシャだけではない。
心の中で、彼女のお腹の中にいる我が子も抱きしめていた。
まだ、触ることすらできない我が子だが少しでも愛情を注ぎたい。
しばらくの間、石動とナターシャの影は一つに重なり長く伸びていた。
「ナターシャ、愛している」
「私も、愛しています」
夜。
深夜とは呼ぶには少し早い時刻。
石動はうっすら目を開けた。
ナターシャは横で熟睡している。
その様子に石動は安心した。
妻を起こさないように石動は静かに部屋を出た。
音が出ないように寝室のドアをゆっくり閉める。
妻が起きる気配はない。
そのまま石動は静かに執務室へと移動した。
執務室は月の明かりに満ちていた。
青白い夜だ。
その光に浮かぶ石動の目は鋭く、口は真一文字になっている。
本革張りの椅子に座ると、重厚な机の上にチタン製の防弾プレート、ザイテルバトン(特殊警棒)、スタン・ナックル(電極を仕込んだ皮手袋)、マイオトロンというスタンガン、スタン手裏剣(同じく電極を仕込んだ棒手裏剣)などを出して、不備がないか確認をする。
そして、立ち上がると隠していた伸縮性のある黒の細身のスラックスと長袖のシャツを出し、寝間着から裸になり机に出したものを全て装備した。
黒ずくめの姿に、かつて隠密作戦のため同じような服装になった平野平秋水から『黒き疾風』などと冷やかされたこともあった。
それが、いつの間にか裏社会の二つ名になっていた。
最後に足音を立てないゴム底の靴を履く。
靴先には作業靴のように鉄板が仕込んである。
最後に、机の引き出しにしまったツンドラ王国地下資源のUSBメモリーを胸ポケットに入れる。
外に出て車庫のシャッターを開け車庫に入る。
月の光にグリフィスの漆黒が映える。
昼間に見たときは、ただの鉄だった『魂の半身』は生き物のように、意志があるように語りかけてきた。
――何処までも行こう‼
――我が魂の半身‼
石動は運転席に座り、ハンドルに頭を置いた。
「……ありがとうな」
そう礼を言って座り直し、運転席にあるボタンの一つを押した。
追加装備されたマフラーが作動し、爆音がほとんど聞こえない程度に落ちる。
かつて、恩師によって改造された一つ、グリフィスのフィスパー・モードだ。
静かにゆっくり、グリフィスは家を出た。
目的地は昼間のうちにインターネットを駆使して調べ上げた。
そして、ある程度離れるとフィスパー・モードという余計な装備を仕舞う。
『どこまでも行けるなら行ってやる‼』
――おいおい、俺のために大げさだなぁ
もしも、秋水が隣の席にいたらニヤニヤ笑いながら組んだ手を頭に回して苦言を呈していたかもしれない。
でも、違う。
『これは、おやっさんのためじゃない! 俺のけじめだ!』
深呼吸をしてから、妄想を消して石動は目的に向かってアクセルを踏み抜かんばかりに倒す。
グリフィスはエクスタシーを叫ぶように轟音と共にコンクリートの道を駆けだした。
車も自分も風のようになった気がする。
徐々に自分と車の境目があやふやになってくる。
意志が一つになる。
どこまでも行ける。
どこまでも走れる。
だから、行くのだ。
敵討ちへ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます