九章 KOIGOKORO(恋心)

 平野平秋水は、今まで感じたことのないような違和感を持っていた。

 周囲からは体つきや言動から「馬鹿親父」とか「理解不能」などと言われているが、これは望んだことだ。

 おどけたり、ふざけたりしながらも毎日は平凡に過ぎて行った。

 家の改築もほぼ予定通りに進んでいる。

 それが終われば、家に戻れる。

 でも、離婚した妻の家での同居生活は悪いものではない。

 引っ越し翌日に気まぐれで昼飯を妻の会社の社員に振舞ったら好評で、気が付けば、昼飯を作るようになっていた。

 ついでに居候なので朝と夜のご飯も作ることになった。

 社員たちからは、今まで近所のコンビニや弁当だったものには手間がかからず、無料なので喜ばれた。

 正行は部活動の助っ人として時々冬休みの大学に行く。

 石動肇と、妻ナターシャは狙われているとはいえ、今のところ敵側の目立った動きはない。

 逆に心配なのは時々起こるナターシャのつわりだったりする。

 彌神からの連絡も今のところはない。

 正行がある時、深刻に言った。

「親父。俺、ここにいたら自堕落になる」

 その自覚があるだけ、正行はまともだ。

 何不自由ない、平和な日々だ。

 なのに、違和感がある。

 不意に思い出される言葉。

『秋水さん……俺、長谷川綾子さんが好きです。愛しています!』

『綾子さんの心には、あなたが住んでいるんです』

 綾子の部下である、平山が告げた言葉だ。

 胸の辺りで感情の糸が絡まり整理できない。

――女友達に彼氏ができた

 それは、一人の友人として喜ぶべきことだった。

 それだけの話だ。

――結婚式に呼ばれれば式を盛り上げる役に徹しよう

――デートをするのなら、絶好のデートスポットを紹介しよう

 なのに、それが許せない。

 言いようのない不安や恐怖、孤独感が胸を締め付ける。

 それが違和感の元だ。


 夜。

 社員も帰り、夕食を食べ、各々が好きな時間を過ごして、風呂に入り、寝静まった時刻。

 秋水は家から持ってきた武器の整備をしていた。

 家に伝わる日本刀は全て信頼できる専門の研ぎ師に預けて研いでもらうことにした。

 テーブルに置いた武器は拳銃であった。

 整備用のグロス(布)やブラシ、油などを出して、銃を一つ一つ分解し丁寧に磨いて元の姿に戻す。

 明日、油の臭いに気づかれないように換気扇は全開にしている。

 電気はつけなかった。

 大きめの窓から入る街の光だけでも、それなりに細かい所までわかるからだ。

 もっとも、銃器や刀剣を手足のように使える秋水からすれば、目を閉じていてもできない事もない。

 持ってきた拳銃を専用のケースに仕舞い、秋水はぼんやりシェラカップに入ったコーヒーを飲んでいた。

 調理器具にもコップにも使えるシェラカップは、アウトドアはもちろん、最近ではお洒落な小物としても人気があるらしい。

「起きていたんですか? おやっさん」

 ドアが開き、石動肇が入ってきた。

 テーブルのケースを見て石動の整った眉が若干動いた。

「武器の整備ですか?」

「当たり。常駐戦場ってとこだ。どうした? 眠れないのか? 夜伽の相手してやるぜ」

 コーヒーを飲む。

 自分のシェラカップに元妻の職場から失敬した粉末コーヒーを入れて水で溶いたものだ。

「嫌ですよ。俺は単に仕事を片付けて水を飲みにきただけです……おやっさんこそ、どうしたんです?」

 石動がテーブルを挟んでベンチに座った。

「どうしたって何が?」

「何か心配事とかありません? 時々呆けていますよ」

 さすが、長年、共に戦った『相棒』をしていることはある。

 ふざけることもできただろう。

 実際、そうやって誤魔化してきたこともある。

 だが、秋水はまじまじと石動を見た。

 昼間打ち合わせに行き今まで仕事をしていたのか、寝巻用ジャージ姿の自分とは対照的にブラウスにズボン姿の男は、若干疲れているようだっただがいたって健康みたいだ。

 街の光が病的な陰になり、ニヒルなヒーローにも見える。

 秋水は直接、答えなかった。

「なんかさ、贅沢だよね」

「贅沢?」

「俺がガキの頃は、果汁百パーセントのようなジュースなんて高くて駄菓子屋の人工甘味料やら合成着色料のはいった柔らかいプラスチックに入った三十円ぐらいのジュースを悪友と『美味い美味い』って言っていたんだ」

 石動は黙っている。

「菓子だって駄菓子屋でうまい棒だの餡子玉だのを買って食べていたんだ……それが今じゃあ駄菓子屋はないし、値段の割に美味いとも思ったこともなかった酒やコーヒーを飲むようになったんだぜ……俺も贅沢になったもんだ」

 その言葉を聞いた石動は、席を立ち、食器棚から注ぎ口が細いやかんを出し、水を入れ、コンロにおいて火をつけた。

 お湯が沸くまで、石動はコーヒーミルと缶、ドリッパーなどを出した。

 缶を開けるとコーヒー独特の香ばしい、深みのある香りがする。

 石動はそれらをテーブルに置いた。

 豆をスプーンで量り、丁寧に挽いていく。

 粉になった豆を既にドリッパーにセットした紙フィルターに入れ、コーヒーサーバーの上に置いた。

 沸騰したお湯を丁寧に注いでコーヒーを抽出する。

 余ったお湯で温めておいたコーヒーカップの中身を捨て、抽出したコーヒーをサーバーから入れる。

 二つのコーヒーカップの一つを自分に、もう一つを秋水の前に置いた。

「俺も子供のころは正直、母親の作るクッキーやケーキよりも駄菓子の方が好きでしたよ」

 今度は、秋水が黙る。

「でも……両親を亡くした頃から手作りのものが『美味しい』と思うようになりました。思い出の補正とかではなく、もちろん駄菓子を作っている人を蔑もうなんて思っていませんが、身近な人が作ってくれたものは工程などを見ている分余計に美味しく感じるんですよね」

 石動はコーヒーを啜った。

「それに、酒やコーヒーを飲むことで味覚が成熟して楽しいですよ。依存症になっては駄目ですが……」

 秋水もコーヒーを飲む。

「……苦いな」

 そういうと、秋水はぽつりぽつり、平山の独白から自分の胸の内を語った。

 少し時間が掛かった。

 まとまりがなく、混乱していることを自覚した。

「……どうすりゃ、いいんだろうね?」

 秋水は半分以上減ったコーヒーを啜った。

 石動の顔は、明らかに呆れ返ってきた。

「そんなことか……深刻な顔をするから、心配しましたよ。他人のことには無遠慮に図星を突くのに自分のことをここまで知らないとは……」

「何だよ、その言い……」

 秋水は反論しようとする。

 だが、石動の次の言葉で言葉が出なくなった。

「それはね、おやっさん。おやっさんが今でも綾子さんに心底愛して惚れて、その平山さんに嫉妬しているってことでしょ?」

 秋水は目を見開いた。

 石動の指摘は、端的に秋水の胸の中の糸をいともたやすく解いたからだ。

 だが、反射的に強がって見せようと考えたが、これにも石動は先手を打った。

「別におやっさんが、綾子さんと再婚しようが身を引いても俺たちに余計なことをしなければご自由にどうぞ……自分で決めてください」

「冷たいな……」

「そうですか? 俺とおやっさんの立場が逆ならもっとズケズケ言うでしょ? というか、ナターシャを妻にしたとき、背中を押したのはおやっさんですよ」

「……何だよ、俺がデリカシーのない奴みたいに言うな」

「だって、そうじゃないですか」

 もう、さすがの秋水も苦笑するしかなかった。

 残りのコーヒーを飲む。

「じゃあ、明日も仕事があるから俺はシャワーを浴びて寝ますね」

 石動は席を立った。

「おう、お休み。片づけはコーヒー代でやっておくよ」

 秋水は秋水でカップなどを片付けようと立ち上がる。

 と、扉の前で石動が首だけ回して秋水に言った。

「そうだ、おやっさん」

「何だよ?」

 語気を少し強めながら秋水が石動を見た。

 これ以上冷やかされたくなかった。

「おやっさんの人生はおやっさんのものだから、自由にしていいんですよ」

 その言葉に肩の力が不意に抜けたような気がした、


 翌日。

 秋水は、ぼんやりと天井を見ていた。

 ここはある雑居ビルの一室。

 パーテンションで区切られてはいるが、電話が鳴るたびに罵声が飛び交う。

 出されたお茶は冷めている。

『自由にしていいか……』

 そんな中でも秋水は昨夜の石動の言葉を思い出していた。

――自由にしていい

『自由人』だとは正行などから言われる。

『無頼漢』を気取る気はないが、それでも、自分のやりたいようにやってきたつもりだ。

 とりとめのない感情が湧いては消える。

「平野平さん、お久しぶりです」

 そこに派手めのスーツを着た強面の男がやってきた。

 うすら寒くなったのに未だジーパンにタンクトップ、アロハシャツ、スニーカーの自分のほうが怪しまれるかも知れない。

「確か……木崎……だったよな。元気そうだな」

 傷のついた木崎の顔がにんまりと笑う。

「おかげさまで、こちらの商売は上々です」

 木崎がシングルソファーに座る。

「でも、いくら表向き質屋でも間違ったことはするなよ」

 秋水がずいっと前に出来る。

「はい。そこは、速水の兄貴や組長おやじからも厳しく言われております」

 周囲の怒号を聞く限り、かなりグレーゾーンのようだ。

 秋水は、あえて無視をする。

 彼らとは持ちつ持たれつの関係なのだ。

 流行の言葉で言うのなら『ギブアンドテイク』になるのだろう。

「それで、妙なものが見つかったって聞いたが、どうした?」

「はい、見回りをしていた従業員が妙な外人を見つけて問い質したところ、たどたどしい日本語で『これを預かっとけと言われた』とこんなものを持っていました」

 木崎は懐からビニール袋を出した。

 中身は掌に収まるほどの石と手のひらサイズ紙が一枚、USBメモリー。

 その時、秋水に予感が生じた。

 勘と言ってもいい。

「おい、木崎。大きい綿手袋と定規あるだろ? 持ってきてくれ」

「え? ……ああ……はい、只今持ってきます」

 木崎はパーテーションの外側に向かい「おい、誰か大きめの綿手袋と定規を持ってこい‼」と叫んだ。

 三十秒もしないうちに他の若い衆が白い新品の綿手袋と鉄の定規を持ってきた。

 秋水はアロハシャツのポケットに入れておいた小型のルーペを出し、綿手袋をしてビニール袋を開けた。

 そして、ルーペで石を観察し定規を当てた。

「やっぱり……」

 秋水は思わずつぶやいた。

「やっぱり?」

「これは、金鉱脈だ」

「金鉱脈って、あれですか? 山を掘ったら金銀がざっくり出るっていう……」

「そんな単純な話じゃないぞ。金っていうのは通常、金鉱脈があったとしても一トン掘って数グラムにしかならない。しかし、この鉱脈は凄いな。普通の金鉱脈より太い……」

「つまり、どういうことです?」

 木崎が質問した。

「つまり、この石が取れる場所を多くの国が喉から手が出るほど欲するってことさ……俺は専門家じゃねぇが、この分だとレアメタルも相当あるんだろうな……」

 秋水はそこまで言って、USBメモリーを出した。

「これを見たのか?」

「いえ、まだ……最近は危険なウィルスとかもありますからね。できれば、秋水さんサイドのほうで鑑定していただけるとありがたいのですが……」

「無茶言うね」

「すいません」

 そう言いながらも秋水はビニールに入っている一枚の紙を見た。

 そこにはアルファベットの羅列があった。

「これを全部持ち帰ってもいいかな?」

 木崎に聞いた。

「はい、ぜひ」

「あと、その外国人はどうなった?」

「はい、パスポートなどを見ると不法入国みたいですぐに警察に突き出しました」

「そうか、じゃあ、引き続き繁華街のことは任せる」

 綿手袋を外して秋水は立ち上がった。


 石とUSBメモリーと紙を持った秋水は木崎が経営している質屋を出て、ある洋菓子店に立ち寄った。

 数分後。

 秋水の手には店で作ったもらった紙に包まれたクレープがあった。

 できたてならではの皮がパリパリでほんのり温かい。

 洋菓子専門店なので生クリームまで妥協点はなく美味い。

 そこは、星ノ宮市市街地でも飲食が比較的自由にできるエリアだった。

 夕方のこの時刻。

 多くの学生や仕事帰りの勤め人などが疲れを癒すべく、様々な屋台などの料理を注文して食べ歩いている。

 クレープを三分二程食べた頃に、背筋が伸びた。

 考えるよりも肌が素早く反応したのだ。

 野生動物が感じる『におい』『鳴き声』にも似ていた。

 ジャングルなどで自分の縄張りを主張するために木に体臭などを擦り付ける。

 または、独特の鳴き声で侵入者を威嚇する。

 その足音は独特だった。

 歩幅や速度が戦場の足音に似ていた。

 普通の人間ならば他の足音と混ざり気にも止めないだろう。

 しかし、秋水の耳はわずかな違和感に反応した。

 本人も気が付いていない癖だろうが、秋水は知っていた。

 多くの人が歩く歩行者天国で歩くことを止めるわけにはいかなかった。

 警戒しながら、秋水も歩き方を変えた。

――お前がその気になれば、ここで始末することもできる

 そんな警戒を込めて歩く。

 向こうから、足音の主が歩いてきた。

 クレープを食べ終えた秋水は包んでいた紙をポケットにしまう。

 近づき、すれ違う。

 この瞬間、秋水は言葉をかけた。

「久しぶりだな」

 だが、言葉が通じなかったように相手は、ボー ・ストークマンは、横を通り過ぎた。


「ただいま」

 居候している綾子の家に着いた時、秋水は玄関先にもかかわらず尻もちをした。

 知らず知らずに緊張していたのだろう。

 気持ちが緩んだ瞬間、力が抜けた。

 夏でもないのに汗が噴き出る。

 一応、警戒のために色々なところを歩き様子を見たが追いかけている様子はなかった。

「おかえりって……親父どうした?」

 息子の正行が出てきて驚いたようだ。

「何でもねぇよ……って正行、どこか出かけるのか?」

「今日、母さんの仕事が一段落付いたから何か作ろうかなって……」

 立ち上がる秋水。

「ナターシャさんの様子は?」

「そんなにつわりはないみたい……」

「じゃあ、手巻き寿司大会でもやるか?」

 その言葉に正行の顔は明るくなった。

「久しぶりだからいいね」

「どうせ、石動君も暇そうだし、手伝わせるか……」

 正行と一緒に台所に戻って冷蔵庫の中身を確認することを始めた。

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