一章 銭湯中
本州から突き出た千葉半島と同等の大きさを持つ島が全て『豊原県』のものである。
遠くハワイ列島からマントルの動きで日本まで来た海中列島が、数万年前に地殻変動で隆起してできた島である。
他の県同様に、中心都市である星ノ
星ノ宮市郊外に『トータス健康ランド』がある。
元は、『亀の湯』という地域密着の銭湯であった。
しかし、過疎化や高齢化、家庭に風呂が常備されたことにより客足はどんどん減り、三代目主人が思い切って郊外に土地を買い、他の同業者も集めて巨大日帰り温泉を建設した。
東京に通じる高速インターチェンジ側だったこと、近くに源泉があったことなどが加味されてガイドブックなどで紹介されている。
同時に地元の人間としても手軽なレジャー施設となり人気がある。
しかも、宿泊もできるので大型連休などではかなり込み合う。
木枯らしが舞う季節。
『トータス健康ランド』は平日と言うこともあり、近所の老人たちが一番風呂を浴びに来ていた。
そこの男風呂に設置してあるサウナ室で巨漢が汗を流していた。
身長二百十五センチ、体重は百二十キロ。
体形に見合う筋肉。
よくみると、その体には様々な傷や痕がある。
何も語らずとも、それらは雄弁に彼の強さを訴えかける。
でも、体同様に黒髪のクルーカットで野趣あふれる顔だが、何処か親しみもある。
笑ったらつられて笑ってしまうような可愛さもある。
そんな男が六人掛けのベンチに腰かけているが、半分以上を占拠している。
「熱い……」
普段、多弁な男がぼそりっと呟く。
タオルで拭いても体中から汗が噴き出る。
「まだ、出ないんですか?」
忌々しくに隣を見る。
彼の隣には、普通の男性がいた。
百七十センチほどの中肉中背。
四角い顔に白い短髪。
体も綺麗だ。
「もう、ギブアップ?」
男も汗まみれだが、彼よりか余裕を持っていそうだ。
「まさか……」
強がってみるが、限界は近い。
「そういえばさ、
額から噴き出る汗をタオルで拭いながら普通の男が大男に言う。
大男は熱さからか溜息をつく。
「いえ、公安の課長さんが来るとなったら色々大変だし、ここに幽霊になった爺さんがいたら『そんなことするより仕事に精を出してください』って言っていましたよ」
男の四角い顔が苦く笑った。
「面倒な契約を親父たちはしたものだ……『我が
「『我が
二人は皮肉な笑みを浮かべた。
「君達の高度な戦闘能力や情報網、経験などは非常に我々、公安部にとって有益なのだよ」
「まあ、俺たち『
秋水と呼ばれた男は、そう言いながら時計を見た。
入って十五分。
サウナから水風呂に入り、また、サウナへ。
今は三巡目である。
そろそろ、頃合いであり、限界である。
蒸される室内。
汗だらけの男が二人。
意外にも最初に立ち上がったのは、余裕を持っていた四角い顔の男、猪口である。
続いて秋水が立ちあがり、出口のドアを上げた。
約一時間後、水風呂に入り、体を洗い、二人は館内着を着て休憩所にいた。
午前ということもあり人は少なく、テレビを見たりタブレットをみたりしている。
『トータス健康ランド』は、タブレットを貸し出しており、あらかじめダウンロードされた専用アプリで料理の注文が可能であり、漫画やゲームなどの娯楽などを提供している。
インターネット環境なども完備されていてスマートフォンなどで専用アプリをダウンロードすれば割引なども可能。
今でいうフリーWi-Fiの走りである。
畳の敷いてある一角で、秋水は名物のホットサンドを食べていた。
値段の割にいいパンと他のメニューの端材などを使っているので中々美味い上に種類も豊富。
何よりも、作り置きを電子レンジで温めるのではなく注文を受けてから作り専用の機械で焼くので表面が香ばしく焼きあがる。
それと好きなドリンクが付いて四百円から八百円は安い。
風呂上がりのビールのお供にもいいし、子供の小腹が空いたときなどの軽食にもいい。
ここの名物料理である。
秋水は車で来ているため、猪口は午後から警視庁の会議に出ないといけないため、互いジュースで済ます。
「それで、何の用なんです?」
手についたハンバーグのデミグラスソースを舌で舐めとりながら秋水は、まだハムとチーズのサンドイッチを食べている猪口に聞いた。
猪口は男性用Lサイズの館内着でゆったりしているが、秋水は館内でも最も大きいものでも筋肉がはちきれんばかりだ。
ちょっとでも、力を入れたら袖を破ってしまうだろう。
「三日前に電話で『朝風呂を浴びよう』なんて誘ってきて、驚いたんですから……」
「何か、予定でもあったの?」
顔を上げた猪口に秋水は憮然とした口調で言った。
「昨日の夜から早朝までネットの友人たちとオンラインゲームで一狩り行く予定だったのに……」
「そりゃ、悪かったね」
猪口はそう言いながら紙コップからストローを使いジュースを飲む。
「で、本題は何です? 東京じゃ分からないことがあったんでしょ?」
「忙しいのなら別にいいよ」
「急に引きましたね」
「『押して駄目なら引いてみろ』さ」
「『毒を食らわば皿まで』……今更ですよ」
秋水は憮然としたままだ。
「じゃあ、これを見てくれるかな?」
猪口は私物入れのバックからタブレットを出した。
館内で使用されているものではない。
猪口の私物である。
「先週、羽田空港でアメリカ人歌手、エディ・オールドマンが襲撃されたことは覚えている?」
「エディ……」
秋水は飲み終えた紙コップから氷を頬張るとボリボリ音を立てながら記憶を探る。
日々のシュールなニュースに、星ノ宮の『
だが、約三十秒後。
かみ砕いた氷を飲んだ秋水は顔を上げた。
「あれ? カシリズム・ミスタリって名前だったんじゃ?」
「それは、マスコミ用の名前。エディ・オールドマンが本名……偽名が示すように世界的に有名なラッパーにしてキリスト教原理主義者の軍事愛好家。彼が日本公演をするために羽田に到着した……」
「大変な騒ぎでしたよね。俺も味噌作り用の大豆の選別をしながら見ていましたよ。熱狂的なファンがいる一方でアンチも凄かった……もみくちゃになりながら玄関を出た瞬間にライフルによる狙撃を受けて……」
「エディやファンなどに怪我はなかったが、タクシーに乗ろうとしていた白人男性が一人、頭部を撃たれて即死。後は、窓などに銃弾が当たった」
現場は騒然となり、エディは日本公演を急遽全てキャンセルし帰国。
羽田空港は一時騒然となり、混乱した。
警視庁なども素早く動き、政府もすぐに対策室を設けた。
だが、日々のニュースに徐々に人々から忘れられ、俳優とタレントの不倫が直後に世間を騒がせ、この事件は世間的にはだいぶ薄れてきている。
「で、俺がやることとは? 正直、俺が役に立てるとは思いません……」
「まあ、そういわずに、まずはこれを見て」
液晶画面に映った、それは血の付いたアタッシュケースだった。
「何です?」
「これをどう見る?」
一段声を潜めて猪口が指を滑らせる。
次の写真になる。
アタッシュケースの中身だろう。
必要最小限の荷物は普通だった。
秋水の目を引いたのは複数のパスポートだ。
どれも違う国のものだ。
「空港側で調べると殺されたのは、アナスタシヤ・ベシカレフ。国籍はカナダ。ところがカナダ本国に問い合わせてもそんな人間いやしない。ほかにも、マルティナ・カルヒやオリガ・シハレフなどの名前でロシヤからギリシャ、オーストラリアなどの偽造パスポートを持っていた」
「もしかして、『
戦争や親の問題で戸籍を持たない子供が生きるために裏社会に入り悪事に染めることは、ままあることだ。
戸籍がないから足がつかないし、罪に問えない。
もっとも、故に命が軽いという人道的問題もある。
「その可能性が高い」
秋水の目が真剣になる。
「だとすれば、普通は麻薬や
「ところが、この『名前無し』には一切麻薬の痕跡や金を運んだ形跡はなかった。目下、犯罪者リストを洗っても全く痕跡すらない」
「純粋に日本旅行ですか?」
猪口は、その質問に困った顔をした。
「そう思っていたんだけど、現場にいた人間の数人が混乱に乗じて『名前無し』が物色されていると証言している……で、元傭兵の秋水君に狙撃者がどんな人物か、『現場検証』をしてほしいのさ」
「……責任、持ちませんよ」
「そこは上手くやるさ……あ、触るときはちゃんと手を拭いてね」
秋水は渋々手をお手拭きで拭うと猪口からタブレットを受け取り、太い指で器用に操作する。
すぐに眉をひそめた。
それからタブレットを置いてライフルを構える仕草を小さく何度かして、頭を抱えた。
その間に猪口はサンドイッチを食べ終え、ジュースも飲み終える。
約十分後。
タブレットを返しながら秋水はこう言った。
「狙撃者は極度に下手か、極度に巧い人間です」
「どうして?」
「一つの考えとしては、遺体も見ましたが確実に急所にヒットさせています。狙撃手は歌手のほうではなく、最初から『名前無し』が標的だった。カモフラージュで数発撃ったとして普通なら銃の反動などで何発かは人ごみに当たる。それを意図的に回避している。それほどの巧者です」
「うん」
「逆に歌手が目当てだったが、ものすごく下手くそでライフルが暴発。奇跡的に犠牲者一名で済んだ……という見方もあります」
今度は猪口がこう聞いた。
「じゃあ、仮に秋水君の中で『この人だったら可能』という巧い狙撃手はいる?」
また、秋水は考えて、今度はすぐに返答した。
「国籍、実名、容姿や案件内容を出さないという条件でならいいですよ」
「頼むよ」
少し秋水は息を吐き、声を落とした。
「うちらの世界では『闇夜のバタフライ』なんて呼ばれている暗殺者です。一度だけ一緒に仕事をしたことがあります」
「どんな奴なの?」
「異常に気配が静かな上に地味なんですよ。バタフライのように相手に悟られずに殺める。暗殺のために生まれてきたような男です」
「何かエピソードはない?」
秋水は猪口の問いに首を振った。
「他の奴と雑談をしていても自分のことは一切言わないし、仕事が終わってからは何の連絡もありません……まあ、風の噂程度に聞いた話では今でも俺と同じで現役で生きているみたいですが……」
猪口はため息を吐いた。
時計を見ると、そろそろ服に着替えて本庁に向かわないと午後の会議に間に合わない頃合いだ。
視線を感じて後ろを振り向けばスキンヘッドをして黒ずくめのスーツを着て髭を生やした男が猪口を待っていた。
「……運転手が来ちゃった……じゃあ、俺は東京に戻るよ。また、何か、情報があったら連絡をくれるとありがたい」
「わかりました。俺はもう少しダラダラしています」
立ち上がり猪口は着替えるべく背を向けようとした。
その時、秋水は驚くべきことを言った。
「そうそう……俺の家、先週から解体されましたから」
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