二章 大学青春天国
その日の昼。
市内の一等地にある星ノ宮大学
図書館で読書するもの、食堂で昼食を食べるもの、空き教室を使い昼寝をするものなど教員、学生関わらずそれぞれが思い思いの時間を過ごしている。
その建物の横にあるグランドでは、男子学生が集まり、サッカーに興じていた。
これが教育学部やスポーツ科学学科ならばプロとは言わないまでも、それなりに参加者に合わせた配置をし、それなりに作戦を立てる。
残念ながら、国文学科対商業科だと、そんな高尚なものはない。
現実問題、今使っているのは芝のある練習場ではなく中途半端な空き地みたいなグランドだ。
ラインもない。
極論、『我こそはキャプテンだ』と言わんばかりに騒ぎながら闘牛のようにボールを集団で追っているだけである。
ゴールキーパーは人数不足のため、いない。
それをコート内でぼんやりと数メートル離れて見つめている者がいた。
巨大銭湯でサウナに入っていた
父親似の顔と体形だが、父と比べて二回り小さく百九十センチ。
今どき珍しい黒の髪型はクルーカットではなく短髪で、若干目じりが下がっているので少し、お人よしに見えるし、実際、そういう性格である。
二十三歳だが、浪人と進級テストでの留年により現在大学二年生である。
空は快晴で、風が吹かなければ、それなりに温かい。
胃の中には、さっき食べた食堂のカレーライス(唐揚げ付)がある。
正行の起床時間は朝の鍛錬があるので、だいたい五時である。
午前中の授業は選択教科の数学の歴史であった。
ほぼ読経な講義に寝るものも多く、教授も淡々としていて注意もなく学生たちに睡魔が襲う。
実際、何人かはペンを持ったまま寝ていた。
とにかく、眠い。
午後の授業もあるが、眠い。
空き教室かベットのある保健室で昼寝でもしようとしたら同じ国文科の学生に「暇なら出てくれ」と言われた。
上手く断れないままグランドに来てしまった。
陽気のせいか、瞼が重い。
脳が『眠りたい』と指令を出している。
――このまま抜けてもバレないだろう
そんなことを思っていると、声がかかった。
「平野平君‼」
金網に同じ学部の女学生が立っていた。
だが、金色の短髪が風にそよいでいる。
「ビアンカさん……」
正行は、金網まで駆け寄った。
鳶色の目に正行の姿が映る。
「今、大丈夫ですか?」
ビアンカ・リンザーが問う。
彼女はアメリカの姉妹校からやってきた交換留学生である。
日本文化の研究をしているビアンカが交換留学生として来日したのは、半年前だ。
平野平家は、純日本家屋で彼女を案内したことが縁で日本の生活で不便なことや分からないことをサポートしている。
最初のうちは日本語の曖昧さなどに戸惑っていたが、同じ学科の友好的な者たちも積極的にかかわったため、すぐに打ち解けた。
日本語も堪能で担当教授からは「変な日本かぶれの外国人や日本人より日本文化や日本語を知っている」と評されるほどだ。
ビアンカ自身も十九歳ならではの、まだ若干少女らしさも残る、女性で礼儀正しく、明るく分け隔てなく接する。
勉強熱心でもあり、何度も平野平家を訪れては家の歴史や構造などを家主である秋水に聞いていた。
秋水は何度か余計な下世話話やナンパしようとしたが、そのたびに正行が厳しく咎めビアンカに謝罪した。
だが、彼女は二人のやり取りを可笑しそうに笑っていた。
――下手なコントより面白い
そんな旨のことを言っていた。
「何か?」
悩みの相談事だろうか?
ビアンカの表情は珍しく陰がある。
「困ったことがあったら何でも相談してください」
正行は言った。
ビアンカに対して、正行は丁寧に話す。
「実は……午後の授業が終わったら第二講堂に来ていただけませんか?」
この言葉を聞いた瞬間、正行の脳裏にある妄想が湧き出た。
夕方。
空き教室。
夕闇に映える一つに重なった影。
愛の言葉。
場面が変わる。
ほのかに薄い部屋。
広いベットに一糸纏わぬ姿の正行とビアンカ。
この妄想を正行は約二秒で全て思い浮かべた。
ビアンカの全裸は想像する。
ベットの上のことは、文章や映像では見たことあるが、まだ実体験したことがないので想像の限界であった。
下半身が妙な感覚になる。
――ヤバい‼
眠気も加わり、正行の妄想は膨らむばかりだ。
父や祖父から教わった武道のおかげで外見は変化ないが、脳味噌では、この『千載一遇』を逃すまいと各所で『ホテルはどうする⁉』『いや、その前に避妊具はどうする‼?』『銀行に行けば、ギリギリ軍資金はあるぞ‼』などと騒ぐ。
お祭り状態ではない。
暴動である。
「……は、はい」
声が少し上ずる。
体もおかしくなっている。
心臓が高鳴り続け、夏でもないのに体が熱い。
「おーい、平野平ぁ‼」
現実に戻ってきたのは、返事をした直後であった。
目の前が真っ暗になり、何かが頭部を強打した。
その後。
正行は午後の講義を受けるため教室にいた。
担当の教授が入室してくる。
当番の学生が号令をかける。
「起立、礼……着席」
のそのそした動きで教室にいた学生は立ち上がり礼をして、教授が黒板の前に立ち、着席をする。
「えー、今日は日本文学の中で近代における……と、平野平。頭に氷嚢を乗せてどうした?」
「いやぁ、昼休みに商業科とサッカーしていたら身をもってゴールを守ってくれて……」
同じサッカーをしていた年下の同級生が報告する。
教室から失笑ともとれる笑いが少し起こった。
正行も困って苦く笑う。
サッカーボールが頭に強打し、大事を取って氷嚢を頭に乗せた。
それ以外は普通に授業を受け、ノートに要点などを書いていく。
が、その中でも約三分の一は暴動が続いている。
――いますぐ、鞄に入れたスマートフォンでホテル検索をし、マナーも知りたい‼
――万が一に備えて鞄の側面ポケットにある箱買いしたコンドームは大丈夫か?
――今すぐ、家に帰って新品の下着にはき替えたい‼
等々の妄想を理性で必死に抑える。
頭を冷やしているのに脳が割れそうに痛くなる。
生き地獄だと思った。
授業が終わり、正行は急いで氷嚢を保健室に返すと、ほぼ走るに近い早歩きでビアンカの言った第二講堂へ赴いた。
ドアの前に立つ。
数回呼吸をする。
二日酔いの時に使うミント味の口臭清涼剤を数粒、口に入れ、かみ砕き嚥下する。
色々懸念されることはあるが、何より、女性を待たせることは失礼にあたる。
数回ノックをする。
「はい、どうぞ」
ビアンカの声がする。
その声だけで胸が爆発しそうなほど高鳴る。
「失礼します」
ドアを開けると、そこにいたのは文学部の女子十数人だった。
この光景を見て、それまでの妄想は一気に消えた。
そして、逆の意味で心臓が高鳴り、冷や汗が出た。
正行が中学生の頃。
ある日。
数人の男子が少し不器用な女子を過度に冷やかした。
その女子は大泣きし、虐めた男子たちは大笑いした。
だが、数日後。
事態は風雲急を告げる。
まず、クラスの学級会で女子たちが虐めを議題にあげた。
ふざけていた当事者である男子たちも徐々に自分たちの立場が分かり始めると血の気が引いてきた。
女子たちがあげるいじめの証拠などは担任を怒らせるには十二分だった。
幸い、その前にインフルエンザで休んでいた正行は直には見てはいないが、女子たちの苛烈な追及は、ただ見ていた男子たち(多少非難されたが)ですら震え上がったという。
特に主犯格の男子たちは前々から女子たちから怒りを買っていたらしく、三学期が終わるまで虫けら同然の扱いを受けることになる。
数か月後。
主犯格の男子は父親の都合で他校へ引っ越したが、生徒たちの間では『女子の中に極道の親がいて彼の親を問い詰め他所へ追いやった』という噂がまことしやかにささやかれていた。
その時、正行は教訓として『女子の団結力の強さ』と『女子を怒らせると怖い』ということを身に染みて学んだ。
『俺、何か悪いことをしたか?』
正行はまず、それを考えた。
彼女たちより年上だが、それなりに真摯に対応していたつもりだし、目の前にいる女子たちのうち数人とは時々軽い冗談でも言い合うこともある。
「な……何か?」
恐る恐る、正行は女子たちに聞いた。
「平野平君、廊下見ていて」
「は?」
「いいから早く!」
「は、はい……!」
正行は慌てて命令されたように今さっき歩いてきた廊下を見た。
放課後なので誰も見ない。
何か背後で女子たちがひそひそ話しているようで、物音もする。
とりあえず、自分に何か落ち度があったようではない。
「もう、いいわよ」
一分後、言われて振り返ると、教卓に何かある。
近づくと二つのカットされたザッハトルテとペットボトルの水が置いてある。
「これ、食べていいわよ」
「え?」
意味が分からなかった。
ただ、下手に抗議をすれば中学時代の恐怖が待っているだろう。
正行は教卓にあるパイプ椅子を引き出して座る。
手を合わせて言う。
「いただきます」
女子たちが注視するが、正行はプラスチックのフォークを取り食べ始めた。
数分後、ザッハトルテは綺麗に食べ終わった。
「ごちそう様でした」
再び、正行は手を合わせた。
「ねぇ、ねぇ。どっちが美味しかった?」
女子の一人が少し興奮気味に聞いてきた。
正行は困った。
下手なことを言うと女子たちに何をされるか分からない。
故にすぐには返答せず、こう質問した。
「何で、俺なんです?」
「だって、平野平君の家ってグルメなんでしょ?」
「は? グルメ?」
正行の脳は疑問形でいっぱいになる。
「あの、俺、グルメじゃないですよ」
「また、また謙遜して……ジャーで自家製の塩鮭や漬物とか持ってきているくせに……」
別の女子に、こう言われ、正行は閉口した。
確かに、正行が持ってくる弁当には自家製の塩鮭や漬物、手作りの味噌汁などがある。
だが、それは健康に気を使ったわけでもないし、ましてや美食家を気取る気なんて一切ない。
単純に説明すると「他所からの大量に余り物などをもらうので、その消費のため」ということになるだろう。
まず、平野平家は家主の秋水、その息子の正行だけの二人暮らしだが彼らは大食漢である。
日々の修行や裏稼業で体を動かすため、腹が減る。
加えて、巨体や筋肉を維持するための栄養も必要だ。
彼らは武道の道場を休日などに自宅で行っている。
弟子の中には釣り好きなものがいて「食べるでしょ?」と大量にとれた魚を平野平家に渡すものが多い。
また、自宅や市が運営している家庭菜園、または趣味の山菜取りで大量にとれた野菜なども同様に運ばれてくることがある。
多ければ小魚なら発泡スチロールのトロ箱(海産物を入れる箱)三箱、夏野菜なら肥料袋に二袋等々。
早い話が、釣れすぎ、作りすぎたものを『大食漢でしょ?』という理由で押し付けてくるのだ。
これを秋水たちは干物にしたり塩漬けにしたり味噌汁に入れたり糠漬けにする。
ついでに、味噌を自家製にしている理由は自分たちのためと言うより、弟子たちの交流であるという部分が大きい。
味噌を作る過程は、大人たちにとってはストレス発散になり、子供たちには勉強になる。
結果として、大量の味噌になる。
手作りが多いのは家の周りで夜まで営業しているスーパーやコンビニが周囲に全くなく、場当たり的に作ったものに過ぎない。
最寄りの二十四時間営業しているコンビニに行くまで車で十五分と微妙な距離なのも要因だ。
商店街で買い物する理由も顔なじみが多く『スーパーより安くしてくれて、おまけもしてくれる』からである。
故に食糧がなくなりそうになれば商店街に行って、そこにも欲しい材料がなければスーパーやデパートにも行く。
ファミレスで食事することにも抵抗はない。
今日みたいに時間がないと学食や近くのコンビニのお惣菜で済ます。
食に対するこだわりもなく、時にはラーメン屋などに行ったり、目玉焼きに味の素をかけたり、夜食にインスタント食品を食べたり、ネットや漫画の料理のまねごとをすることもある。
つまり、彼ら、平野平家は大量に食べはするが極端に悪食家でもないが極端に美食家でもない。
普通の味覚の持ち主である。
正行は少し考えた。
――さて、どう答えればいいだろう?
下手に答えれば、残りの大学生活が地獄になることは目に見えている。
しかし、誤魔化したところですぐに見透かされることだろう。
では、どうするか?
約一分考えて、正行は言葉を慎重にしながら結果を口にした。
「あの、これ、左の皿が手作りで、右が洋菓子屋さんから買ってきたものですよね?」
女子たちは顔を見合わせた。
「なんで、分かったの?」
女子の一人が聞いた。
「まず、表面のチョコレートの光沢です。右のほうが艶やかでしたし、口当たりもふんわりして、チョコレートとスポンジの一体感もありました」
正行は正直に言い、こう付け加えた。
「ただ、みんなのほうも美味しかったです……と言うより、かなり頑張ったと思います」
その言葉にビアンカの目に涙が浮かんだ。
周りにいた女子が肩を持つ。
正行も慌てる。
「いや、頑張ったというか専門店とかじゃないと無理なことってあるんですよ」
「どういうことよ?」
若干刺々しく肩を持つ女子が聞く。
「専門店とかは、文字通り専門家であり、それなりに専門の質のいい材料を使えます。俺たちが普通に買えるものじゃないですし、それなりの知識もあるということです。お店だと性能のいいオーブンもありますしね……」
そこまで言って正行はペットボトルの水を飲んだ。
「それに、俺は両方とも美味しかったですけど……」
「フォローになってないわよ」
女子たちが言う。
正行は何とか話題を変えたかった。
できれば、この刺々しい空間から逃げたい。
「何で、これを作ったんです?」
その言葉にビアンカはワッと泣き出した。
女子の批判めいた視線が正行に突き刺さる。
この時、正行は自分の大学生活が真っ暗になるのを感じた。
だが……
「……正行さんのせいじゃないんです」
涙を拭いて、ビアンカが制した。
とりあえず、正行が座っていたパイプ椅子に座らせる。
ビアンカはぽつりぽつり語りだした。
最奥の記憶は家族でザッハトルテを仲良く食べている風景だ。
父も母も幼い娘に愛情をかけていたと記憶している。
ある日、母が病に伏して亡くなってしまった。
葬儀を済ませた数日後に父は突然失踪してしまう。
残された彼女を『養女』として迎えに来たのは母の姉夫婦であった。
姉夫婦は裕福で子供がいなかったせいもあり、『ビアンカ』と名付けて変わらぬ愛情を注いでくれた。
しかし、去年。
高齢だった二人は病に伏してしまう。
幸い、夫妻は裕福で病院で濃密な医療が受けられたが、時すでに遅く、病はかなり進行していた。
養母が亡くなり、その精神的ショックから養父も病状が悪化した。
今際の際、養父はベットの縁でひざまずき泣きながら手を握るビアンカに告げた。
――ビアンカの実父は日々、命の危険にさらされている
――自分たちは結婚当時から妹と、彼女の胎内にいる赤子の事を案じて「別れろ」と言っていた
――そして、実父は妹、つまりビアンカの母が亡くなると消えた
――それから、自分たちはビアンカに寂しい思いをさせないようにしてきた
――お前は、もう大人だ
最後はこう言った。
「これからは、お前の好きなように生きなさい」
そういうと祖父は息を引き取った。
彼らが残した莫大な遺産をビアンカは手に入れた。
身寄りのない彼女が願ったことは、遺産を元手に起業するわけでもなく、遊蕩するためでもなく、『本当の父を探したい』と願った。
しかし、手掛かりが全くなかった。
有名な探偵社をいくつか回り、報酬を支払い、情報を得ようとした。
ほぼ意味のある情報はなかった。
ただ、分かったこともある。
父の母国は君主制であり、事実上鎖国状態のこの国は二十一世紀の現在において十八世紀の建物も現役として現存する。
半世紀前あたりから少しずつではあるが軍などの近代化を進めた。
理由は民主化と開国を求める民衆が国内でテロ行為や内紛を起こしたのが原因である。
『アメリカ同時多発テロ』以降は一部過激派が国外のテロリストと結託して育成や武器の密輸も始めたからだ。
これらをネットで知り父の安否が心配になった。
少しずつ開国しているとはいえ名目上は未だ鎖国中で、かなり情報などが制限されている。
思い悩んでいると、スマートフォンがメールを受け取った。
本文には何も書かれず、添付ファイルもない。
タイトルに一言だけ。
『君のお父さんは日本に行って仕事をする』
このそっけない文章を見たとき、暗かった目の前が一気に広がる気がした。
幸運なことに通っていた大学では成績が優秀で条件を満たしていたため、姉妹校である日本の星ノ宮大学への留学を志願した。
ここまで話し、正行座っていた椅子に腰かけ語っていたビアンカは一息溜息を吐いた。
「今はネットなどで探していますが……ザッハトルテは両親との思い出の味なんです。再会したら食べさせたくって……」
「だったら、さっきのでも十分……」
正行の言葉にビアンカは首を振る。
「母は本場、ウィーンの生まれ育った人で元パティシエです」
「レベル高いわね……」
女子の一人が呟く。
正行も同感だ。
「君たち、そろそろ閉めるから出なさい」
用務員が正行たちに声をかけた。
正行たちは大慌てで片づけると急いで家路に向かった。
「平野平君、しばらく味見役してね」
途中まで一緒だった女子からの言葉に正行は困った。
正行は他人からの頼みを、特に女性の頼みごとを、上手に断ることが苦手だ。
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