旅路の果てに

十六章 娘

 その夢は何度も何度も見た過去の再現上映だった。

 妻の死に際。

 ポーは愛娘と共にベットの傍に座り同じ目線になり、骨と皮だけになった手を握っていた。

 最後の感謝を述べて、妻は旅立とうとしていた。

 だが、ここでいつもの夢ではない妻の異変に気付く。

 小さく、潤いのない唇がわずかに動いていた。

 その動きを読み取る。

『でも、生きたい』

 

 ポーは目を覚ました。

 石動たちと対峙して、どれぐらい時間が過ぎたのだろう?

 部屋の明かりはレースのカーテンを通して部屋全体を明るくしている。

 ここは海辺なのか、窓の向こうは青が水平線で区切られているだけだ。

 白を基調とした部屋は、病院のように殺風景ではない。

 テーブルやソファーにテレビまでもある。

 壁にある鏡面台も装飾品で豪華だ。

 自分はスーツではなくパジャマを着ていた。

 その下は包帯がまかれている。

 痛みはほぼない。

「生きている……」

 辺りを見て身辺を確認するが誰もいないし武器もない。

 と、横のサイドテーブルにチョコレートケーキと紅茶があることに気が付いた。

 この部屋にあるということはポーに食べて欲しいという意図があったのだろうか?

 ポーはお盆ごとテーブルに置く。

 カットされたケーキの横には緩くホイップされたクリームが添えられている。

――ザッハトルテか……

 側のソファーに座り思わず皮肉な笑みが浮かぶ。

 妻との出会いの味である。

 ポーは世界中を飛び回っている間、暇を見つけては洋菓子店に足を運びチョコレートケーキを食べてきた。

 だが、妻の作ったザッハトルテを超えるチョコレートケーキはなかった。

 フォークを手に取り、固いチョコレート層を破り一口大に切り分け、口に入れる。

 その瞬間、ポーは目を見開いた。

 あの時の、初めて出会ったときに妻が作ったザッハトルテの味だ。

 ポーは混乱した。

 妻は死んでいるのに、この味を再現できる人間はいないはずだ。

 いや。

 この世界に一人だけ、可能な人間がいる。

 娘である。

 一日たりとて忘れたことのない妻との間に生まれた娘。

 娘は子供の頃に母の隣でお菓子や料理の作り方を見ていた。

 でも、娘は妻が死んだときに置き去りにした。

 声ですら、もう、十年以上聞いていない。

 どんな姿になったかなど想像すらできない。

 戸惑いをよそに、空腹だったポーは感動する間もなくザッハトルテを食べ終えた。

 ドアがノックされた。

――敵か?

 反射的にポーは身構えた。

 だが、入室してきたのはうら若き女性であった。

 最初は、顔だけ見て、この部屋のメイドかと思っていた。

 服がそういう服ではない、普通の女性が着るワンピースだったのでそうではないらしい。

 ただ、横顔が妻に似ている。

 ある結論に達する。

「……チセか?」

「お父さん……」

 ポーは十年以上読んでいない愛娘の名前を呼んだ。

 平野平正行の通う大学で留学生だったビアンカ・リンザー、本名チセ・ポー・ジャンクは父の前で頷いた。

 再会の抱擁をかわそうとする娘に対して、父はまるで呪詛のように冷酷に言った。

「今すぐ、ここから出ていきなさい。そして、ここにいたこと全て一切を忘れなさい」

 その言葉にチセは、深く傷ついた顔をした。

 鳶色の瞳から幾筋も涙が流れている。

 ポーも分かっていた。

 自分が口にしたことがどれほど、娘を傷つけたか。

「理由を教えて……」

 昔と違い、娘は難しい言葉でも理解できる賢さがあるはずだ。

「チセ……俺は人を傷つけてきた。殺しても来た。だから、俺には恨みや妬みで俺を殺そうとする人間がいる。お前も……」

「知っていたよ、お父さん」

 その言葉にポーは再び驚いた。

「お父さんが本当は殺し屋だってこと、私も母さん知っていた」

 ポーは娘の言葉にどう反応していいか分からなかった。

「お父さん……私を引き取った叔父さんの事なんだけど、父さんがいないときに母さんに会って言ったの。『お前の夫は人殺しだ。今すぐ別れなさい』」

 ポーは黙って聞いている。

「でも、お母さんは言い返したの。『ええ、知っているわ。部屋の掃除をしていたら銃や弾丸が出てきたから……でも、私が初めてお客様用に出したケーキをあれほど美味しく食べた人が悪い人だとは思えない。もしも、彼が地獄に落ちるのなら私も地獄に落ちます。彼のいない世界はつまらないから』」

 ポーは頭を抱えた。

――ああ、自分はなんて勘違いをしていたのだろう

 それまで、ポーは妻と娘を守るために彼女たちを捨ててきたと信じ切ってきた。

 だが、それは思い上がりの馬鹿な勘違いであった。

 いつも、馬鹿な自分を黙って見守られていたのは妻と娘だった。

 そして、胸の中に封じていた思いが一気に涙と共にあふれ出た。

『誰かと共に生きたい』

 最初は一人で当たり前だった。

 ナターシャとの時間が幸せだったのは、衣食住の充実以上に、王政という中でも人々が優しく互いに尊敬し尊重し合えていたから。

 養父のところが嫌だったのは、衣食住は十二分にあっても、誰も尊敬も敬愛もできる人物がいなかったから。

 自分には愛される要素はないと思い込んでいた。

 そんな自分に、妻と娘は寄り添ってくれた。

 しかし、これで罪が消えるわけではない。

 これからも、死ぬまでずっと、ポーは恨まれ妬まれるだろう。

 後悔をし、痛みに苛まれる。

 どうなるかは分からない。

 それでも、家族と共に歩みたい。

「お父さん」

 チセがポーの手を優しく解いて顔を近づけた。

 妻に似た美しい顔だ。

 娘は言った。

「私もお母さんと同じように地獄に行く。そこで殺しちゃった人に事情を話して一緒に謝る。そうすれば、お父さんの苦しみを減らせるから……」

 その言葉にポーは思わず涙を出しながらも心の中で吹き出しそうになる。

 謝ったところで相手が生き返るわけはない。

「お願い、私も一緒に連れて行って」

 父の手を娘は握りしめた。

 娘の手は妻と同じように火傷や血豆の痕がある。

 そう、あのザッハトルテを再現するために、彼女は努力をしていたのだ。

「その手は……」

 確認のため、ポーはチセに聞く。

「あ、これ……大したことじゃないの……チョコレートの結晶を調べるために湯煎したチョコを触るんだけど、中々上手に出来なくって……あのね、本当に偶然なんだけど母さんと同じ店で修行した人と店でバイトしながら教えてもらったの」

 妻は、こんな自分を『共に生きたい』と願いつつ亡くなった。

 娘は、こんな自分と『共に生きたい』と願ってくれている。

 自分はなんて幸せ者なのだろう。

 二人は会えなかった時間を取り戻すかのようにお互いボロボロの手を握りしめ合いながら涙を流した。

 そこに船の汽笛が出航のため、鳴った。


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