十五章 純白
ポーは、いつも違和感に襲われていた。
『自問』とも言っていい。
――自分は、何を求めているのだ?
彼の人生に親の姿はない。
しかし、ある程度の身なりをしていたから、たぶん、愛してはいたのだろう。
ただ、不運にも両親は戦火の中で死んだ。
ナターシャの家族によって人になりえた。
だが、それも養父が無残に打ち砕いた。
何かを言いたかった。
その言葉を思い出せない。
仮に思い出したとして誰が得をする?
怒る人はいるかも知れないが、喜ぶ人がいるとも思えない。
いや、喜ぶ人もいるだろう。
宗教。
悪徳業者。
思想。
政府。
テロリズム。
他にも例を挙げればきりがなく、そして、例外もなくポーが忌み嫌うものだった。
『ナターシャ』という女神から、忌み嫌うものを守るために自分は地獄に落ちようと考えた。
幸い、自分には天性の才があったようだ。
組織で彼は徹底的に訓練された。
特にスナイパー(狙撃手)としては、鬼の教官たちでさえ舌を巻いた。
噂と実績で仕事は嫌でも舞い込んできた。
そこで家族を知った。
それまでも『女』は知っていた。
ただ、その『行為』はあくまでも『行為』でしなかった。
女が発情し求め、男が瞬時の快楽で放精をする。
それで終わりだ。
愛した彼女は処女だった。
だから、丁寧に扱った。
その時、知った。
愛し合いする『行為』は豊穣なのだと。
そして、子供が生まれた。
あたりまえだが、生まれたての子供は泣き叫ぶことでしか意思疎通ができない。
排泄も食事も誰かに頼らなければ死んでしまう。
ポー自身、真夜中に泣き叫ぶ我が子に使用済みのオムツを新品に交換して、哺乳瓶でミルクを与えたことは覚えている。
組織に属していた頃は夜の仕事が多かったし、徹夜も平気だった。
その頃から病気がちになりつつあった妻はポーに感謝していた。
子供の成長は、早い。
いつの日だったか。
ポーは、ある親ナチス団体を壊滅させた。
確か、この時、平野平秋水という日本人に会った。
家から少し離れたホテルでシャワーを浴び、香水を少々つけて、着替え、『ピアノの調律師として、あるコンクールのピアノの調律をしていた』として家に帰宅した。
玄関のドアを開けると、娘が駆け寄ってきた。
少し走るには不安定だが、ポーは旅行鞄を置いて抱きかかえた。
その後ろを少し困ったように妻が追いかけてきた。
二人は、自分のためにチョコレートケーキを、あのホテルで食べたケーキと同じものを作ってくれたのだ。
この時、すでに仕事を辞めた妻は比較的顔色も良かった。
――『幸せ』と言う形を具現化したら、こういう形になるのかもしれない
その瞬間、ポーは深い闇に呑み込まれたような気になった。
目の前にある幸福が、ほんの一つの小さい歯車が狂い欠損しただけでも全て崩壊する。
あれほど、感じていた幸福感は徐々に絶望に蝕まれていった。
その頃、結婚に反対して妻の親戚の一人が自分の正体を知り、ポーと二人きりになるとこう切り出した。
「最後の話し合いだ。用件は、一つ。別れろ。お前に家族を幸せにする力はない。否定をすれば俺たちはお前の正体を公にして裁判をする」
その言葉を出したとき、その叔父の手は震えていた。
まるで目の前に死神がいるように……
いや、彼にとってみれば自分は死神なのだろう。
実際、そういうことをしていたのだから……
だから、こう言った。
「お
その直後だった。
妻の病状が急変した。
それまでも四方の名医に見せていたが彼らは言った。
『手遅れです』
文字通り金に糸目は付けなかった。
だが、どんな大きな病院でも優秀な医者でもやることは全て似通っていた。
切望的な表情で首を横に振り、溜息を吐き、先ほどの言葉を言うのだ。
――ホスピタルのある病院で静かに残された時間を家族と過ごすのか?
――少しでも長く生きられるように投薬や手術をするのか?
しかし、どれも結末は同じだ。
妻は、自分の状態もポーが悩んでいることも知っていた。
夫に妻は言った。
「私は娘と、あなたと、あの家で暮らしたい」
家とは言っても、安いアパートである。
本当は高級な住宅も買えたが、そうすると自分が目立つため、あえて、働いていた当時の彼女の給料に見合ったアパートの一部屋を借りた。
三人家族には狭くもなく、広くもなく、ちょうどいい部屋だった。
角部屋で娘が多少泣いても近隣住民は大目に見てくれた。
妻はほとんど、病床から出ることが出来なくなった。
ホームヘルパーなども雇い、育児などはポーができるだけ受け持った。
それでも、暇になれば娘と妻の傍に寄り添い、色々な話をした。
どれも、取り留めもない話だ。
出会った頃のこと、娘のこと、娘と公園で遊んだ話……
その間だけは、幸せだった。
それでも、妻は日に日に弱っていく。
最後は自分で食事も排泄もできなくなり、ほどよい容姿は骨と皮だけになった。
終わりの時が来た。
ポーは娘と共にベットの傍に跪いて妻の手を握った。
よく見ると、パティシエ時代に負った火傷や血豆の痕があった。
手を握りながらも『死』を理解できない娘は不思議そうに母を眺めていた。
「あなた……」
妻は持てる力を振り絞り、顔を天井から夫たちに向けた。
「今まで、本当に娘と私を愛してくれてありがとう……」
普通の夫婦なら、ここで何か気の利いたことの一つでも言えたのかも知れない。
でも、自分にはそれが出来ないでいた。
全て白々しくなるだけだ。
何も分からない娘には言葉ではなく、自分と同じ金色の髪を撫でた。
それが終わると、妻は静かに目を閉じて息を引き取った。
泣くことも叫ぶことはしなかった。
どんなことをしても死者は生き返ることはない。
ポーはそれを身に染みて知っていた。
娘を養育に十二分な金を共に義兄夫婦に預けた。
当てのない旅を始めた。
だが、胸の空白が埋まることはなかった。
そこに、来たのは自然保護団体だった。
「あなたをツンドラ王国へのスパイとして雇いたい」
「……俺に二重スパイをしろという事か?」
「危険は伴うが『生き甲斐』は見つけられるかもしれない」
自然保護団体の男はそう言った。
ツンドラ王国は鎖国していて、一般人の自然環境に対する意識が非常に薄い。
故に希少な動植物が金銭目的で人間に殺されている。
しかも、地域を研究すると、そこには大量の金銀やレアメタルが埋蔵されていることが分かった。
もしも、これが世間や市場関係者に口外されれば、先進国や大企業は競ってツンドラ王国に接触をして莫大な利益を得ようと躍起になるだろう。
かわりに、豊かな自然が壊される。
人々の素朴な暮らしが壊される。
壊されるものは、敬愛するナターシャが愛してやまないものばかりであり、いくら金を積んだとしても元に戻すことが出来ないものだ。
命のように元には戻らない。
ポーは、これにも頷いた。
ツンドラ王国の諜報員として、その裏では、自然保護団体のスパイとして、彼は生きた。
ある時、非通知回線でポーの電話が鳴った。
これは、自然保護団体からの緊急連絡を意味する。
昨夜、ある街で気まぐれに拾った娼婦に服を着せてもらいながらポーは電話に出た。
『やられた‼』
最初の言葉はそれだった。
ツンドラ王国の秘密を『ジック』『バイス』という組織に知られたという。
親玉はツンドラ王国対外組織の上層部の人間。
偶然にもポーの直接の上官である。
ポーは自然保護団体から、上層部の人間であるヘルガ ・オロフソンに対する調査を開始した。
同時期、ヘルガもポーに対しナターシャ捜索のために捜査を命令した。
ポーは二つの捜査を同時に進行させていた。
もっとも、ポー自身にとってナターシャは女神と同義語なので『ふり』をしていた。
だが、ヘルガも馬鹿ではないのか、別のスパイを雇ったのか、彼は何処からか情報を得て自分が雇っている傭兵集団を使い平和に暮らしていた平野平たちを襲った。
その後、ポーは秋水と密会し無事を確認した。
直後、ヘルガは山の奥にある秘密基地にポーを呼んだ。
表向きは日本の機械産業視察だが、真の目的はナターシャ誘拐の現場指揮をするためだ。
叱責されるかと思ったが、待たせている間に酒を煽ったのかヘルガはほぼ酔っていた。
その勢いで口を滑らせた。
ポーの前にビニールに入った小さな牙を見せた。
「ツンドラセツゲンヒョウの子供の牙だ。俺が、親子一緒に殺した」
その言葉を聞いた時、ポーの中で何かが弾けた。
今まで我慢して、我慢して耐えてきたものがひっくり返った。
ポーは一瞬でヘルガを気絶させると最上階の部屋の隅に隠し持っていたプラスチック爆弾を投げた。
その階にいた者は、ポーの奇行に悲鳴を上げて逃げていく。
もっとも、ポーの爆弾は時間差があるし部屋一個を爆破するだけの威力しかない。
ただし、爆弾の数は持っていた。
歩きながら爆弾を部屋に投げるポー。
そこにあるのは明確なる殺意のみであった。
「ポーさん、殺すのは止めましょう。いいことないです」
正行が切ない表情で諭す。
「あなたと一緒に酒を飲んだけど、とても楽しかったです」
石動は秋水の体を調べていた。
「……脈も呼吸もある……病院に診せる必要はあるが大丈夫だ」
その言葉にポーと正行の表情が一瞬だけ緩む。
「ポー、俺も正行と同じ意見だ。この男を殺してもお前の罪が一つ増えるだけだ」
そう言って石動はヘルガを指さす。
怯えるヘルガ。
「……ならば、石動肇。お前が俺を変えてくれ……
今度はポーの銃口は石動に向けられた。
「真っ新な人間?」
石動の言葉にポーは頷いた。
「待ってください、石動さんを……」
正行は止めようとする。
だが、その時。
苦しそうなうめき声がした。
「親父?」
秋水は意識がもうろうとしながらも、力を振り絞り懐からあるものを出した。
「石動、来い」
普段では考えられない弱々しい声で石動を呼ぶ秋水。
ポーとヘルガを注視しながら石動は倒れた秋水の傍による。
スミスアンドウエッソン M36。
通称『チーフス・スペシャル』と呼ばれる回転式拳銃だ。
元は軍用であったが『女性でも扱いやすい』と長年人気はある。
意識を無理やり引き留めて秋水はチーフス・スペシャルの弾薬を確認した。
秋水は、マガジンを元に戻し、拳銃を石動に渡した。
「お前がポーの願いを叶えてやれ」
そして、再び秋水は気絶した。
石動は少し考えると、受け取った拳銃を腰に差しポーと対峙するように前に立った。
「え? え?」
正行は混乱している。
「何の意味があるんですか⁉ こんなの無意味でしょ⁉」
正行は叫ぶ。
だが、ポーの耳には入っていない。
同時に石動も同じように反応しない。
爆発音や叫び声がしているはずなのにポーと石動は無音の世界にいた。
ポーも腰の後ろのベルトに拳銃を差した。
異物が入れば一瞬で真っ二つにしそうな冷たい空気。
それは、母国、ツンドラ王国の冬の夜に似ていた。
ポーも石動もグリップに手を近づけながら相手が油断する瞬間を狙っていた。
もう、正行もヘルガも何も言わない。
集中力の限界にきた。
ほぼ同時にポーと石動は正反対の方向の横に飛びつつ拳銃を引き抜いた。
重なって鳴り響く銃声。
次の瞬間。
ポーはあおむけに倒れていた。
体が動かない。
体が熱い。
そこにパトカーのサイレンが鳴り響き、止まり、中から人が出てきたようだ。
「正行君、大丈夫⁉ ……うわ、これどうしたの⁉」
多分警察官が来たのだろう、
ヘルガもいるから、彼の犯罪も白日の下にさらされるだろう。
ポーは亡き妻に思いを馳せながら目を閉じた。
『ようやく自分は真っ新な人間になれるのだ』とポーは心の中で安堵した。
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