六章 愛が自由を奪うということ
電話の相手は公安部の猪口からであった。
『おう、秋水君。今、大丈夫?』
秋水は念のため周りを見る。
ここは、物置で誰もいない。
「はい、大丈夫です……何か進展がありましたか?」
『うん、まず、あの【名前無し】を撃った人物が乗った車が見つかった』
「ほう……」
『千葉県の山中にあったそうだ……最初は盗難車かと思った地元の警官が照合すると、レンタルの車だった。それで調べてみると後部座席の窓から僅かに硝煙反応があった』
「なるほど……つまり奴さんはビニールなどで銃身をカバーして窓を必要最小限開けて発砲したと……」
『俺はそう見ている……レンタル会社に問い合わせたら奴らも偽装パスポートでレンタルしていた。だが、車を開けて驚いたことがある』
「何です?」
『三つ紙袋があって中に整然と積まれた札束があった。全部本物の一万円ピン札で、たぶん、レンタル会社などへの詫びなんだろうが量が多い』
「金に糸目を付けないほど義理堅い男ってことですか?」
『どうなんだろうねぇ……痕跡はほとんどなし。髪の毛一本落ちちゃいないし唾液のついた飲食物の形跡もなし、指紋もなし。ただ、足跡があって乗っていたのは二人。靴自体は市場に出回っているものだがサイズから結構大きい男だとは分かった』
「大きい男?」
『片方は百八十、もう一人は最低でも百九十。後者は大方の見方は二メートルを超える』
秋水は驚いた。
自分も二百十五センチあるが、自分ほど大きい相手に早々会ったことはない。
『あと、大切なことだけど、ちょっと別件で俺、担当から離れるから今後は何かあったら、部下に電話してくれ。あと、そいつが三分後に電話するから。じゃ』
そういうと猪口は電話を一方的に切った。
秋水は、スマフォのアプリを開いてニュースなどを見ていた。
きっちり三分後。
再び、電話が鳴った。
「もしもし、合言葉は?」
沈黙が流れる。
少しして秋水は苦笑する。
「冗談だよ、冗談……お前さんか? 猪口さんが紹介したのは?」
『はい、この事件を引き継いだ
秋水の脳裏に猪口を迎えに来たスーツ姿の男を思い出した。
「ああ、あの時のお前さんか?」
『はい』
「今後は……彌神に電話をかければいいんだな?」
『こちらからも情報が入り次第、お伝えします』
「よろしく頼む」
『あ、あと……』
電話を切ろうとしていた秋水を彌神が止めた。
「何?」
『まだ、詳細は分からないのではありますが、あの【名前無し】の所持品を何者かが盗んだところが防犯カメラに映っていました』
「特定はできないか?」
『サングラスのスーツ姿。しかも、現場は大混乱でしたから、まだ詳細が分かるまでにはお時間をいただきたいのですがよろしいでしょうか? 科捜研などで詳しく解析をしてもらいます』
「うん、頼む」
刑事というよりサラリーマン的な言葉遣いの彌神に秋水は苦笑していた。
通話を切り、秋水はライフルを構える真似をする。
たぶん、消音装置を付けたうえで、猪口の言うように煙硝反応が出ないようビニールで包み標的に当てる。
これは、オリンピックの金メダリストでも出来ない、文字通りの神業である。
裏打ちされた技術もさることながら、その集中力も感心する。
と、ある人物を思い出した。
猪口に巨大銭湯で話した『闇夜のバタフライ』の存在だ。
彼ならば……彼だけなら、出来るかもしれない。
一度だけ、彼の狙撃を見たが、恐ろしいほど静かだった。
当時、その姿を見た秋水は座禅を組む禅僧を重ねた。
自分や周囲にある雑音や雑念を一切払い、『無』の状態になる。
――照準を合わせて引き金を引く
この単純な動作のために『闇夜のバタフライ』は膨大な努力と研鑽を重ねてきたはずだ。
もしも、彼だとすれば、『背後』に誰がいるのだろう?
脳裏に浮かぶ彼は、実に地味であった。
名前を言うことも言われることもなく、自ら話すことはない。
話を振っても作戦に関するものに限り必要最低限のことだけ話す。
または、頷くか首を振る。
しかし、全く無表情で無関心かと言えばそうでもない。
ほかの仲間とふざけた話をしていると時々少しだけ口角を上げた。
石動が言っていた、『ポー』と名乗る外国人が似ているかもしれない。
ただ、『ポー』と言うのは名なのか、姓なのか分からない上に北欧系では比較的一般的な名前だ。
ドアが叩かれた。
思わず、秋水はビクッと背筋を伸ばした。
「あのぉ……平野平秋水さん」
入ってきたのは綾子の会社に勤めている男だった。
「な……何?」
男は少しだけ迷って言った。
「あなただけと、少しだけ、お話……いいですか?」
食堂に連れてこられた。
普段ならば「男とお茶なんてしたくねぇし」などと軽口を叩けるが、男の顔は思い詰めたものだった。
『嫌だぜ、これ以上仕事増やすの……』
そう思いながらもテーブルで対座した。
「俺、綾子さんの会社で経理を担当している
思い出した。
確か、綾子は仕事の時に「平山君」と何度か呼んで書類の確認などをしていた。
その姿は社長と気の合う部下、と言った感じだ。
石動と同じぐらいの背丈で眼鏡をかけ、天然パーマみたいで髪の毛は飛び跳ねている。
無精髭もはやしているが、不思議と不潔感はない。
「あ、どうも……俺は、平野平秋水っていいます」
自己紹介をする。
「あ、あの……秋水さんと綾子さんのご関係は何でしょうか?」
緊張している平山の問いに秋水は少し考えて応えた。
「まあ、よくある離婚した元夫婦だよ」
この言葉に平山は明らかに疑いの目で見ていた。
「そんな目で見るな……今、お茶淹れてやるから待っていろ」
秋水は逃げるように立ち上がり台所に立った。
お茶を淹れ、秋水は再び座った。
未だに平山は秋水を疑いの目で見ている。
――俺、何か悪いことをしたか?
秋水は、このマンションに来てからのことを考えた。
表向きの仕事である不動産業は平常だ。
裏向きの仕事も、猪口の案件はあるとはいえ、石動の妻を守ることぐらい。
別に妻の仕事にちょっかいを出しているわけでもない。
むしろ、今までも自分が不動産で妻が設計会社だから連携が取れていると言っていい。
とりあえず、二人は茶をすすった。
誰ともなくため息が漏れた。
平山は決心がついたように背筋を伸ばした。
「平野平秋水さん……俺、長谷川綾子さんが好きです。愛しています!」
その迫力に秋水は……動きが止まった。
それから、数秒して笑顔になった。
「……そうか、安心した」
秋水は再び茶をすすった。
「もしも、酒場で言われたら『こいつ、酒の力を借りないと何も言えないのか?』と思うし、下手に『死ぬほど愛しています』だの『彼女のために何でもします』なんて言ったら『自分勝手で自分で何も考えられないやつ』って思っていただろうね」
今度は平山が黙った。
「だから、安心したよ。お前のような男なら安心できる」
「秋水さんは……あなたにとって綾子さんはどんな人なんですか?」
二度目の問いに秋水は珍しく言葉を選んだ。
「俺の元カミさんで、気心知れた友だち……かな?」
そう言いながら、胸の奥に針で刺したような痛みがあった。
実際、離婚が成立してからも同じ市内に住むせいか、時々、顔を合わせることもある。
例えば、街中の銀行や夜の居酒屋だ。
会えば、軽くお茶や酒を飲み、お互い時間が空いていれば観たかった映画を観に行く。
話題は、息子である正行の成長が主だが、他にもくだらないテレビ番組や仕事の話もする。
その中で秋水の家が改修される話も出た。
綾子はそれを聞いてあっさり言った。
「だったら、私の住むマンションに来なさいよ。道場はないけど屋上なら使えるでしょ?」
この提案に秋水はいささか驚いた。
「いいのか?」
「いいわよ。あのマンション、今、私以外誰も住んでないから……」
危険に身を置く立場からすれば、この提案は願ったり叶ったりだった。
「本当にいいのか?」
再度念を押す。
「だから、いいって」
「お前、俺がどういう立場の人間か分かっているのか?」
「……『霧の巨人』と呼ばれた伝説の傭兵」
「危険なんだぞ、危ないんだぞ」
「でも、あなた。強いじゃない?」
「そりゃ、まぁ……」
その直後、上映のブザーが鳴り、二人は映画に集中した。
平山は秋水に告げた。
「綾子さんの心には、あなたが住んでいるんです」
「……は?」
秋水は首をひねった。
「あいつの心に?」
「綾子さんと、どのような理由で離婚されたか、俺は知りません。でも、彼女はずっとあなたのことを想っています」
「そりゃ、俺を過大評価しているな……俺は彼女を、綾子を………」
言葉に詰まった。
おどけることもできるのかも知れない。
平山の目はそれを許さない。
裏社会で家族を持つことは負担が大きくなることを意味する。
幸い、先祖代々裏社会にかかわっていた平野平家からすれば(具体的には亡父である春平の言葉を借りれば)『現代は敵討ちやら決闘が来ないだけ未だマシ』なのだが、一般家庭から来た綾子からすれば大変だったはずだ。
まして、覚悟していたとはいえ十六歳で息子である正行を産んだのだ。
――彼女の人生を自由にさせたかった
これが離婚を決意した理由だ。
正行は自らの意思で秋水のもとに来た。
「……ありきたりに言えば、俺にとっても綾子にとっても『家庭』というシステムが窮屈だったのかも知れないな」
「……わかりました」
憮然としたままだが、平山は頷いた。
これ以上の詮索は無意味だと悟ったのだ。
「綾子にそんなに惚れているのなら俺から奪ってみろ」
秋水は平静を装っていた。
しかし、胸の中の痛みは悲鳴を上げていた。
「じゃあ、奪います……」
そう言って平山は手を出した。
「今から俺とあなたはライバルです」
この宣言に秋水は苦笑いをして手を握った。
「こちらこそ、よろしく」
笑顔で言っているが、心の中は無数の針で突き刺したように痛い。
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