平穏という名の蜃気楼

四章 Every day is a good day(日々、是好日)

 翌日。

 正午前。

 いささか酒を飲み、タクシーで家に帰った石動は事情を話し、妻を連れて再びタクシーで街に戻り、今度こそ駐車場に向かい愛車・TVR社のグリフィスを使った市街地にそびえる山の中腹へ向かった。

 平野平親子に会うためだ。

 だが、立派な敷門と白玉砂利を敷き詰めた庭はあったが、中にあった県指定の武家屋敷は屋根や土間がヘルメットを被った大工たちによって解体されていた。

 石動は呆然とした。

 妻を車に残し、石動は門を通り現場に近づいた。

 図面を見て指示を出している親方らしい人物の怒号やかんなで材木を削る音などがして煩い。

 と、親方が不意に呆然と立ち尽くす石動に声をかけた。

「あんた、誰?」

 明らかに不審そうな目で石動を見る。

 石動はそれには答えず、反問した。

「おやっさん……家主の平野平秋水さんはどこへ?」

 その言葉に親方は一瞬眉をひそめたが、すぐに明るい表情になった。

「あー、お前さんが石動さんですか! 秋水の旦那から聞いています……家が腐ってきたから改修工事をしているんでさ」

 よくわからない。

 石動の顔を見て、親方は少し丁寧に解説をした。

「この手の日本家屋は木で出来ていて、どんないい材木などを使っていても長年の加重や虫食いなどで土台が摩耗や腐ってボロボロになるんです。そこで、何十年かに一度大規模改修をするんですよ。それに今回は電気とガスの線の改修もやらないと火事になる可能性があるんです……この家を作ったのは立派な大工だったんでしょうね、ほとんど釘を使わずに組木だけでこれだけ立派なものを作ったんだから……分解したら使える部分はそのままで現代の俺たちが補うって形ですかね……またとない勉強ですよ」

 そういうと解体されている武家屋敷を見た。

「秋水さんは何処にいますか?」

「そうですね……電話すれば居場所を教えてくれるんじゃないですかね?」

 そう言われて、棟梁に一礼して石動は車に戻った。

「あなた、どうだった?」

 妻、ナターシャが聞いてきた。

 美しいコバルトブルーの瞳に金色の髪、目鼻立ちの整った綺麗な顔。

 写実主義の画家が描いた理想の女性像から抜け出たような儚さと美しさがある。

「どうやら、おやっさんたちは何処かに一時的に引っ越したようだ」

 石動は事情を聞こうとハンズフリーにしていたスマートフォンを手に取り履歴から『平野平 秋水』の名前をタップする。

 数回のコール音の間に、石動は耳に付ける。

『はい、どちら様ですか?』

 軽やかな女性の声がした。

 最初は、恩師の悪ふざけかと思った。

 歳に似合わず悪戯好きなのは出会った頃から変らない。

 悪ノリ大好き。

 そして、それを支えるだけの様々な力と技量がある。

 声帯模写もお手の物である。

 だが、数秒して思った。

――この声、どこかで聞いたことがある

 脳の中のアルバムを引っ掻き回す。

――思い出した!

「長谷川さんですか⁉ 長谷川綾子さん⁉」

『はい、【元】主人と息子がお世話になっております』

 何故、秋水のスマートフォンに彼の別れた妻が出たのか?

 石動は理解できなかった。

 と、電話の向こう側で子供らしき泣き声が聞こえてきた。

 よく聞くと、スマートフォンの向こう側がにぎやかなのに気が付く。

 複数の大人や子供の騒めきに秋水の大声も混じっている。

「あの、ちょっと、状態が呑み込めないんですけど……」

 いくら考えても、今の状態が分からない。

『あー、説明したんですけどね……私たち、今、手が離せないんで……あと、一時間ぐらいしたら事務所に来てください。【元】主人とか手が空くと思うんで……』

 そういうと通話は切れた。

 事務所の場所は知っている。

 最悪、移転しても後ろのアタッシュケースにあるパソコンを使えばすぐに居場所が分かる。

 しかし、妻が狙われている。

 自分の発した電波で自分の位置が特定される可能性もある。

 出来るだけ早く、秋水に会いたかった。

 裏社会で生き抜く術を教えてくれたのは、彼だからだ。

 隣で心配そうに見守っている視線。

 石動は考えた。

 結論が出た。

 隣のナターシャを見た。

「これから、街のデパートで買えなかった日用品を買おう」

 夫の提案にナターシャは一瞬不思議そうな顔をしたがすぐに頷いた。

「そうですね……急なことでしたから……」

 石動はグリフィスをUターンさせると眼下の街へ向かい走り出した。


 約一時間後。

 土曜日のせいか、店は混んでいたが道路は比較的空いていた。

 グリフィスは、街中にある一軒のビルに入った。

 玄関への階段の脇に地下駐車場に続く出入り口がある。

 駐車場に入るとセンサーが感知して四隅のライトが光った。

 意外と広く十五台ほどの駐車スペースに八割ほどの車がある。

 バックで駐車させエンジンを切ると不満げのようなモーター冷却用のファンが回り始める。

 その唸りは元来スポーツカーなのに、街中の軽自動車のように扱われていることへの不満のようにも思える。

 亡き父から引き継いだ二人乗りのスポーツカー。

その不釣り合いな馬力は、フル回転させれば、苦労に合う快楽スピードを与えてくれる。

 苦楽を共にした『相棒』であり『魂の半身』なのである。

「あなた……」

 ナターシャが心配そうに見つめる。

「ああ、大丈夫。荷物を降ろそうか……」

 シートベルトを外し、トランクを開ける。

 本来、収納スペースの少ないスポーツカーに生活用品とバックなどを収納した。

 ロックが壊れなかったのが、奇跡だ。

 実際、トランクを閉めるときは若干押し込んだ。

 中身が破損や故障していないことを願いたい。

 二人は駐車場から多くの荷物を抱えて(ナターシャには一番軽いボストンバック一つだけでほとんどは石動が持った)外に出た。

 地下から地上に出て空を見上げた。

 空が高く、ちょうど、太陽が雲に隠れる。

 休日で排ガスなどが少ない分、青空が美しい。

 そう、隣のナターシャの瞳の色もそんな色をしている。

 石動は、隣で空を見上げる鼻梁の整った妻を見ながら自分の選択は間違ってないと思う。

 半ば強引に日本に連れてきて、よかったと思う。

 だからこそ、平穏な日常を守りたい。

 そのために裏社会に引き込み鍛え上げた恩師である秋水に会う。

 二人で階段を上がろうとしたとき、勢いよくドアが開いた。

 思わず、石動はナターシャを庇おうとした。

 だが、出てきたのはよく会う子どもたちと大人だった。

 それも、大勢。

 子供たちは早く帰宅したいのか、親を何処かに待たせているのか外に出ると子供用スマートフォンを出して連絡したり、駐車場に向かったり、年長者と一緒に公共交通機関へ行ったり、様々だ。

 少し遅れてきた大人たちも、子供たちの待つ駐車場に足を運び、他の子供たちの見守りをしながら帰っていく。

「あ、石動さん、こんちわ」

「どうも、お久しぶりです」

 石動たちの目の前を通るものは挨拶をする。

 とりあえず、波が収まると石動は少し思い出深いドアの前に立った。

 横のカメラ付きインターフォンを押す。

『はーい……あら、石動さん。二階の台所まで来ていただけませんか? まだ、少し手が空かないので……』

「はい……」

 二人は顔を見合わせ、少し決意してドアを開ける。

 玄関はなく土足のまま中に入り泥落とし用マットで靴底をこすり合わせる。

 木を使用した廊下は広く、一階はインテリアなどの家具売り場だ。

 階段を上る。

 バリアフリーを意識してか幅が広く、段差は少ない。

 二階は、確か、モデルルームや事務所や来客室があって、自宅の台所と給湯室を兼ねた大きな食堂があったはずだ。

 階段から二階の廊下を歩いて真正面に扉を開いた。

 その瞬間、醤油の香ばしい香りが鼻を突いた。

 中にはラー油やニンニクなどの匂いも少しする。

 匂いで石動は気が付いた。

 この匂いは、現在改修中の家で過去何度も食べた饂飩の汁の匂いだ。

 テーブルと一体となっている長ベンチには数人の男たちが案の定饂飩をすすっていた。

「じゃあ、社長。ごっそさんでした!」

「高久君、ごめんね。急な仕事で……」

「いえ、早く帰れてよかったですよ」

 奥の調理場で作業をしていた、髪の毛を濃い茶色に染めた女性が振り返って言う。

 石動と目が合った。

「あら……こんにちは、石動さん。隣の人は……奥さん?」

「はい……長谷川さん、お久しぶりです」

「お昼食べました?」

「いえ、まだです」

「じゃあ、お昼ご飯を食べながらお話を聞かせてください」

「おお、石動君、久しぶり! 屋上で月一の合同修練と綾子の会社の昼飯一緒にしたんだ」

 ガス台で饂飩を茹でていた秋水も振り返る。

 台所には似合わない、短パンにタンクトップ、その上から割烹着を着ている。

「座って待ってな。すぐ、茹で上がるから……」

「はい」

 綾子と秋水は再び自分の作業に戻った。

 ふと見ると、ナターシャが珍しく口に手を当てくすくす笑っている。

「どうした?」

「いえ、何か、二人の後姿が可愛いなぁって……」

 改めて二人の後姿を見る。

 二メートルを超える巨躯と百六十センチほどの小柄な綾子が一緒に家事をする後姿は、何処か微笑ましい。

 思わず、石動も唇が歪む。

「親父、母さん。ただいま‼」

 そこに秋水と綾子の息子である、正行がドアを開け入ってきた。

「あれ? 何で石動さんがいるんです?」

 驚く正行。

 ドアのほうを見て、石動も驚いた。

 思わず言った。

「お前、太ったか?」





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