第20話 国道109号線 日ノ沢本町交差点


「私にあんなに優しくしてくれたの、なんだったの? 全部嘘だったの? ねえ、杉津君!」


 僕は無言のままハンドルを握りなおす。荷台を掴むサナエちゃんを振り返ることは、しない。

 騒がしかった周囲の生徒の一群も三々五々散ってしまって、高校の正門前はいつのまにかすっかり人通りもなくなっていた。迫る夕闇に「県立西平高等学校」の銘板がぼんやり鈍い光を浮かべている。


 ここで僕が何を言っても、それは嘘か言い訳のどちらかにしかならない。僕はあえて言葉を心の中に仕舞い込んで、黙って去るつもりだった。しかし、サナエちゃんは僕の自転車の荷台を掴んだまま、時の刻みごと止まっている。


 僕は観念して、ゆっくり振り向いた。サナエちゃんはその大きな瞳でじっと見つめていた。混じり気のない水晶のような純粋さで、一直線に僕を射抜く瞳。僕は、そこに吸い込まれていく。


―――今さら元に戻れるかどうかも分からないミハルでなくて、いいんじゃないのか?


―――こんなにも一途に僕のことを想ってくれているのに、何も応えてやらないなんて人としてどうなんだよ。


―――ぶっちゃけ、サナエちゃんに何か不満でもあるのか? あるなら言ってみろよ。


 僕の中の何かが、しきりに語り掛けて来る。


 僕は分かっていた。振り返れば間違いなく迷いが生じる。決めてきたはずの覚悟が、必ず揺らいでしまう。だからこそ、僕は振り向かずに去りたかったし、そうするつもりだった。でも、サナエちゃんの必死さは、それを許さなかった。僕は、振り返ってしまった。振り返ってしまった以上、こうなるのは必然だった。


 その通りだ。その通りなんだよ。全部その通りだ。間違ってなんかいないさ、なに一つ。ここでサナエちゃんの手を取って、二人で楽しく帰路に就く。それが一番楽で、自然で、ほとんどの人が納得できる結末なんだ。


―――そうだろ? もうミハルなんて放っておけよ。振り向いてサナエちゃんの手を握れば、万事解決なんだよ。ミハルは古田のヤローとよろしくやってんだよ。


 まったくだ。なんでそこまでして、僕はミハルにこだわるんだ。サナエちゃん、大人しくてかわいいし、真面目だし、天然で面白いし。教室での弾ける笑顔も、夜の家の前での妖艶に潤む瞳も、僕は知っている。

 そうだよな。いつまでもミハルへの未練引きずるなんて、ダサいよな。カッコよくないよな。


 僕は、サナエちゃんに柔らかく告げた。


「サナエちゃん」

「……」


 僕の声に、サナエちゃんがはっとして顔を上げる。


「サナエちゃんはかわいいし、楽しいし、一緒に過ごすだけで和めるよ」

「杉津君……」


 ここで一呼吸。しかし、その一瞬の間は、この後に続くセリフが逆説になることを何よりも雄弁に物語っていた。サナエちゃんの表情にぴしりと絶望の軋みが走る。


 心の中の声に、僕は言う。

 分かっている。分かっているけど、やっぱり僕にはどうしてもミハルが必要なんだ。サナエちゃんじゃ、……その隙間は埋められないんだ。埋められなかったんだ。


「でもな、サナエちゃん………、やっぱり俺は、行かなきゃいけないんだ。止めなきゃいけないんだ、ミハルを。だから……分かってくれよ」

「言わないで! それ以上、聞きたくない!」


 サナエちゃんは荷台をつかんだまま、悲壮な声を上げた。


「サナエちゃん。俺にとって絶対必要なのは、ミハルだけ、……ミハルだけだったんだよ。だからその手を、……離してくれないか」


 僕は、優しくなんかない。

 僕は、こんなにも冷酷で薄情な人間なんだ。

 僕に、すがってもいいことなんか何もない。

 だから、サナエちゃん、その手を離してくれ……。


 どこまで声に出して話したのか、僕自身覚えていない。

 しかし、僕の最後の言葉を聞いたサナエちゃんの手が、力なく荷台から離れた。


 呆然としたまま、無表情にも見える様子で立ち尽くしているサナエちゃん。僕は、自転車に乗り直して、そんなサナエちゃんに、最後の声をかける。


「ありがとう、サナエちゃん。俺、……行くから」


 僕が、礼を言う筋合いはないと思う。

 僕が、謝る筋合いもないと思う。


 それでも、僕はサナエちゃんに小さく「ゴメン」と謝ってペダルに力を入れた。


 そのまま、僕はバス通りへ向けて自転車を漕ぎ始めた。


「杉津くーん!!」


 サナエちゃんの涙声が背中をつついた。しかし僕はそれを振り切って、バス通りだけを目指して走り出す。


 どれだけ静寂を切り裂かれても、どれだけ涙が地面を濡らしても、どれだけ後ろ髪を引かれようとも、僕が向かう先は、そっちじゃない。


 だから僕は、ざくりと痛みが刺さる心に鞭を打って、ペダルを踏み続ける。


―――ただひたすらに。前だけを向いて。


 ◇


 サナエちゃんを振り切った僕は、バス通りの歩道に自転車で飛び出した。 

 県立西平高校前のバス停まで二百メートル。

 腰を浮かせて自転車を漕ぐ僕の傍らの車道を、一台のバスが警笛を鳴らして軽快に追い抜いて行った。最後尾のLEDの字幕には「61系統 日ノ沢本通り循環」と表示が出ている。


 あれは、……ミハルたちが乗るバスじゃないか!

 くそ、あとちょっとなのに!


 僕は必死にバスに追いすがった。しかし、夕方のバス通りの車の流れは速い。あっという間に、赤いテールランプが遠ざかって行った。


 間に合わない!


 バス停のベンチには、バスを待つ二つの人影が見える。到着するバスをぼんやり眺めているミハルと、横で何かを話し続けているイケメンイインチョ―ヤロー古田だった。


 バスは、二人のいるバス停の手前で左ウィンカーを出して減速した。手に届かないところまで行ってしまうかのように思えたバスのテールランプとの間隔が、徐々に縮まってくる。僕はそのままの勢いで自転車を走らせた。


 あと、少しで追い付ける!


 バスは前方のバス停にすうっと停車して、おもむろに乗車口が開いた。

 乗車口の周囲がライトで明るくなり、「61系統橋塚別れ経由、日ノ沢本通り循環バスです」とテープの案内放送が繰り返す。

 イケメンイインチョ―ヤロー古田は、立ち上がって社交ダンスをするかのような所作でミハルの手を取った。いちいちキザったらしくてヘドが出るぜ。ミハルは古田に手を引かれながらベンチから立ち上がって、エスコートに従ってバスの乗車口にゆっくり足を進める。


「ミハル! それに乗っちゃ、ダメだ!」


 僕は後方から大声で呼び止めた。

 ミハルが、その声にはっとした顔を向けて、向こうから自転車に乗る僕を凝視していた。まだミハルのところまで五十メートルぐらいの距離がある。古田の爽やかなイケメン顔がいびつに歪んで、ミハルを急かす仕草に焦りのようなものが混じった。


 あれはきっと「ちっ、なんで杉津が邪魔しに来るんだよ。キタちゃんさあ、あんなのほっといて早く行こうぜ」みたいなセリフを言っているのだろう。脳内で古田のセリフをアテレコした僕は、お前の本性はバレてるんだ、行かせてなるもんか!  と気合いを振り絞ってペダルを蹴りつけた。


「ミハル! 行くなー! 行っちゃだめだ―!」


 ミハルたちのいるバスの乗車口までは、あとバスの車体二つ分、三十メートルぐらいだ。僕は、古田を睨みつけて自転車をこぎ続ける。


 ミハルは、スポットライトに照らされた舞台階段を上がるように、ためらいながらバスのステップに足を置く。片足をステップに載せた状態で、しばらく躊躇している。しかし「キタちゃん、早く乗らないと、他のお客さんの迷惑だぜ」と古田に急かされた様子で、最後のステップを上った。


 ぎこちない笑顔を、僕にちらっとだけ見せるミハル。

 古田はミハルの手をぐっと引っ張り、二人はバスの乗客となった。


「ミハルー!! 乗るなー!! 乗っちゃダメだー!! ミハルー!!」


 僕の叫び声なんて一顧だにすることなく、バスの乗車口が遮るようにびしゃっと閉まった。


 僕には分かった。

 ミハルは、まだ迷っている。

 このまま行っていいかどうか、アイツはまだ迷っている。


 右ウィンカーの点滅とともに61系統は夕闇迫る街角に向かって、何事もなかったかのように走り出した。

 テールランプの赤色は、今度こそみるみる僕の目の前から遠のいて行った。


「くそっー!!」


 僕は低く唸り声をあげて、再度ペダルに力をこめた。

 追いかけろ。追い付け。ミハルを手放したくなんかないんだろ?

 バスの車内は僕からは見えない。しかし、ミハルは僕が追いかけているのを、車内からきっと見ているはずだ。僕は確信していた。確信してバスを追い続けた。


 ◇


 僕の追走にもかまわず、バスは無情にスピードを上げて走り去っていく。

 交差点の信号も嫌がらせのようにずっと青が続いた。全連が終わってから全力疾走を続けてきた僕の足は、そろそろ限界に差し掛かってきているようだ。いくらペダルに力を込めても、スピードが上がらなくなってきている。息が乱れる。


 神は、僕を見放したのか……。


 バスは橋塚別れの交差点を左折していった。曲がった先は日ノ沢本通り。片側三車線になって、さらに車の流れが速くなる。


 ああ、ミハル……。もう、だめなのか……。


 それでも僕は残る力を振り絞ってバスから遅れること数分、橋塚別れの交差点に差し掛かった。青の矢印信号に従って左折すると「61系統 日ノ沢本通り循環」の表示が思いのほか近くに見えた。老人が一人、ゆっくり緩慢な動作でバスに乗車している。


 橋塚別れのバス停利用客の乗降に時間を取られていたんだ!

 まだ諦めるのは早い。僕はもう一度ペダルに力を入れて漕ぎ進めた。


 しかし、自転車のスピードはほんの少ししか上がらない。呼吸が苦しい。バスは老人を乗せると再び右ウィンカーを点滅させて走り出した。片側三車線の日ノ沢本通りの早い車の流れに乗って、今まで以上に僕とバスとの空間を広げていく。


 バスは大きな交差点を青信号で通過していった。国道の日ノ沢本町交差点、片側三車線の車道同士が交差する市内でも指折りの交通量の交差点だった。僕の自転車が交差点に差し掛かった時、信号は無情にも黄色から赤になった。

 

 僕の行く手をを遮るように、途切れることなく左右に流れる自動車たち。

 ミハルを乗せたバスは、その間にもどんどん先に進んで行ってしまう。

 それは、あたかも現生と彼岸を分ける三途の川の流れだった。


 僕は此岸にたたずんで、行ってしまったバスのテールランプを見つめている。


 交差点の信号が青になるころには、バスの最後尾も見えなくなっていた。


 もう、……追いつけないじゃないか。

 こんなに離れちゃったら、もう……分かんないじゃないか。

 ミハルに僕の手が届くことは、なかったんだ……。


 僕は、力なく青信号に従って交差点を渡った。

 しかし、それはただの惰性だった。


 僕が追うべきものは、ここにはもう、ない。


 ◇


 僕はもはや目標を見失った猟犬だった。


 足取りも重く、自転車をゆるゆると惰性で進める。もう漕ぐのも限界になって、自転車を降りて歩道を押して歩き始めた。周囲はすっかり夜になっている。都会の夜はきらびやかで、澄んだ夜空に月が煌々と輝いている。でも、今の僕にはそれを味わう余裕はない。


 あんなにサナエちゃんに大見得切ってきたのに、このザマかよ……。


 とぼとぼと歩道を歩いていると、どうしようもなく情けなくなってきて、僕はこっそり涙を拭いた。


 これは自分の力が及ばなかった惨めさの涙、サナエちゃんにひどいことを言った悔悟の涙、そしてミハルを失った自分への憐憫の涙……。



 どれぐらいそうやって自転車を押し歩いただろう。僕の視線は自然とうつむきがちになって、ほんの数メートル先しか見ていなかった。

 ふと気づくと、歩道を小走りに走る足音が聞こえる。顔をあげて前を見ると、歩道の先に制服の女子が、小走りでこちらに向かってくるのが目に入った。


 ―――!?

 あ、あれは幻か?

 僕の願望が見せる夢なのか?


「ふふふ、途中で降りて来ちゃった」

 

 間の抜けた顔で前方を見つめる僕に、ミハルが駆け寄ってきて、いつもの涼やかな笑顔で話しかけた。少し息を弾ませながら。

 

「……古田のヤローは、……どうしたんだよ」


 あんなに追い求めていたミハルを前にした僕の第一声がこれなのか? と自分で呆れる。決してイインチョ―ヤローを心配したわけではないが、そのあたりの事情が気になって聞かずにはいられなかった。


「なんかしきりに手とか握ろうとしてくるのがとってもイヤでね。やっぱり二人で古田くんの家に一緒に帰るのって、違和感しか感じなかったんだ。だからね、また逃げてきちゃった」


 ふふふ、とミハルはまた笑った。


「ミハル!!」


 僕は思わずミハルをガバっと全力で抱きしめた。


「ミハル!! バカヤロー!! もう二度と、俺の目の前から消えないでくれ!  頼むからもう二度と、手の届かないところに行ってしまわないでくれよ!」


 僕の腕の中でミハルはへへへと小さく微笑んで、ゆっくり息を吐きながら答えた。


「カズヤくんこそ、サナエちゃんのとこ、行っちゃうんじゃないかと思ってた……」


 ミハルはちょっと苦しいよ、と言いながら僕の腕をそっとはがして抜け出した。

 そして、僕を正面から見つめながら改めて言った。


「カズヤくん、帰ろ? 乗せて行ってくれるでしょ?」


 脚はかなり疲れてはいたが、ここは即答するところだ。


「もちろんだ。ほら、乗りな。たぬき坂の最後は歩いてもらうけどな」


 自転車を方向転換させると、ミハルは荷物を前かごに載せて、僕の自転車の荷台に横座りで乗った。あんなに疲れていたはずなのに、ペダルに力を入れると自転車はすいっと動き出した。


「……ミハル、うちでなんか食ってく?」

「そうだね。遅くなったから頂いて行こうかな」

「よしっ、帰るか!」


 ミハルを乗せた僕は、月明りの下、自転車で軽快に走り出した。

  

 僕の帰り道にミハルがいる。

 坂の途中で歩くことになっても、もう何も心配ない。

 僕が一緒だ。

 これからもずっとこうやって一緒に帰れますように。

 僕は、心の中で正体のよく分からない神様たちに向けて、そっと祈った。


 自転車で進む僕の目には、星ヶ丘ニュータウンの街並みに向かってすっと伸びる一本の道。


 それは、月明りに照らされた、僕たちの帰り道だった。


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