第16話 市バス61系統「日ノ沢本通り循環」
「だから……、杉津君、今日は、……これでガマンして。ね?」
サナエちゃんは目を伏せて、僕の腕を抱えたまま顔をそっと寄せてきた。
息がかかるほど、近くまで……。
間近で見るサナエちゃんは、教室で見るよりもずっと可憐で、街灯の明りに潤む瞳が極限まで煽情的で、その艶やかな唇はどうしようもなく耽美的だった。
これは―――、もう、引き返せない。
これは―――、もう、抗えない。
サナエちゃんの放つ蠱惑的な魅力の前に僕はあまりにも無力だった。
杉津一哉十七歳。今、僕は人生の分岐点を、通り過ぎようとしている。
僕は、僕の腕を掴んだまま僕を見上げるサナエちゃんのほっぺに手をあてた。そして、サナエちゃんの顔に自分の顔をぐっと近づける。
「きゃっ」
サナエちゃんは、ほとんど嬌声と言っていい小さな叫び声を上げて、ほっぺにあてた僕の手のひらの上に自分の手を重ね、そして赤い顔で妖艶に微笑んだ。
見つめ合う瞳の距離、わずか十センチメートル。
「杉津君……」
そして、サナエちゃんは、ゆっくり覚悟を決めたようにまぶたを下ろした。
僕も、サナエちゃんに合わせて目を閉じようとした刹那、突然、サナエちゃんは閉じかけたまぶたくわっと見開いて、僕を突き飛ばすようにして距離を取った。一瞬のうちにメートル単位まで離れた僕とサナエちゃん。あっけに取られた僕に、サナエちゃんが手のひらで口を覆って言った。
「ご、ごめん、杉津君。わ、わ、私、ギョーザドッグ食べて歯磨いていない……」
「は?」
としか、言葉が出ない僕。
「ごめん、ホントにごめんね。く、臭くなかった?」
「はあ?」
「つ、次は、ちゃ、ちゃんと、じゅ、準備しておくから……。ホントごめんなさい!」
それだけを一気に赤い顔で叫ぶと、サナエちゃんは全力で後ろを振り返り、玄関に向けて駆けて行った。
◇
「えええ! カズヤ、あんたバカなの? アホなの? ホント信じられない! 生きてて恥ずかしいと思わないの! なに生き恥さらしてんのよ!!」
放課後の部室は僕とユカ以外誰もいない。文化祭も近いのに現音研の面々はのんきなもんだ。ガランとした部室の中でユカの大声が響いた。
僕たちは今日の教室で、朝からサナエちゃんを厳重に警戒していた。それこそ教室で抱き着きかねないと昨晩からユカは危惧しており、また早朝僕の部屋に突然来るかもしれないから、といつもより一時間半も早く僕は家を出てきた。さらにユカは、休み時間ごとにうちのクラスの教室に来ては、僕と表向き文化祭の準備の話をしながら、それとなくサナエちゃんをけん制しつつ監視する。このあたりまでは、昨夜焼きそばを食べながら打合せたとおりの行動だ。
しかし、僕たちの予想を裏切ってサナエちゃんの行動は落ち着いたものだった。ユカは、休み時間のたびにわざわざ僕のクラスに来て、文化祭の現音研ステージの準備話を大声でしていた。必要以上に楽しそうにしていたのは、おそらく意図的なものだろう。
ところが、わいわいと話す僕たちを横目にサナエちゃんは、余裕の表情で微笑み、軽くユカに向かって手を振ったりするだけ。むしろ、遠まきに時たま向けられるミハルの視線の方が、険しいように感じたぐらいだ。
そして迎えた放課後。これまたこれ見よがしに「カズヤ、行くよ!」とユカが誘いに来たのに対して、サナエちゃんは「いってらっしゃい。杉津君、またね」とにっこり微笑んだだけ。ユカは得心行かないという表情をちらっと見せながら、そのまま僕を引っ張って教室を出て部室に向かった。ここまでが今日の一日の授業中の話。
部室で僕は、テーブルの向こうに難しい顔で座って腕組みするユカに向かって、昨日の出来事を洗いざらい話した。校門で見かけたミハルとイインチョ―ヤロー。バス停でミハルから声をかけられたこと。マックでのミハルとのやり取り。その後のサナエちゃんとの行動。そして最後のサナエちゃんの家の前での出来事。
ユカは黙って聞いていたが、僕が話し終えた途端、あらん限りのボキャブラリーを駆使して僕を罵倒した。それがさっきのユカのセリフだ。
「まったく、普段は天然女たらしやってるくせに、イザというところでまるでダメなんだから!」
「なんだよ! ちゃんとユカの注文どおり手は出さなかっただろうが。俺、なんで罵声を浴びてんのか分かんないんだけど」
「だーかーらー、そこまで行ったんだったら、ホントにキスしちゃった方がまだましなんだって! 中途半端すぎて最悪だよ。最悪!」
ユカは立ち上がって、どん、と机に両手をついて興奮気味にまくしたてた。
「そんなこと言ったって、サナエちゃんがギョーザドッグ気にしたから……。あれ以上俺から迫ったら、もろセクハラだろ。犯罪になっちゃうよ」
「んなもん、それが女の子の体裁なんだって! そういうのは強引に行っちゃってください、お願いします、っていうサインじゃない! 分かってないなあ!」
ユカは顔を赤くしながら怒りまくっている。吠えてるユカを見ているとなんか無性に腹が立ってきた。なんで僕がそこまで言われなきゃならんのか。僕も立ち上がって、机についたユカの手をぎゅっと握った。反撃してやる。
「そうか。分かったよ、ユカ。じゃあ、強引に行っちゃっていいんだな?」
そう言ってユカをぐいっと引き寄せて顔を近づける。息がかかる距離。はっと息を飲んだユカの顔は、近すぎて目と鼻までしか僕の視界に入らなかった。突然の僕の行動に、ユカは戸惑った視線を見せて、途端に勢いのなくなった声で呻いた。
「カ、カズヤ……」
そしてユカの瞳に漂う色は、やがて何かを待つ様子に変わって……。
僕のみぞおちにユカの渾身のショートアッパーがめり込んで、派手な大音響とともに僕は後ろ向けに吹っ飛んでしまった。
◇
「えー、ユカが言ったんだろうが。絶対手を出すなって。だいたいサナエちゃん変に煽ったのはユカなんだぜ? あの電話でサナエちゃん、スイッチ入っちゃったし」
「いや、まあ、確かに咄嗟に煽っちゃったのは悪かったけど、しょうがないじゃん。ミハちゃんから気をそらせないと行けなかったんだから。ミハちゃんの後ろ姿はっきり見えてたんだよ。あー、これはヤバいことになるなあと思ってさ」
落ち着いたユカと僕は、部室のテーブルを挟んで座りなおし、やっと本題に戻ってきた。ユカの鉄拳を食らった腹と、吹っ飛んで床に打ち付けた腰を交互にさすりながら、僕は不満をこぼす。
「しかし、何も思いっきりぶん殴らなくたっていいじゃねーか。軽い冗談なんだから」
「そういう冗談を軽くやっちゃうからカズヤはダメなの! どうせならチャラキャラ徹底させなさいよ、まったく。普段はしれっとしてるくせに、時折ああいう危険な冗談見せるから、サナエちゃんみたいに騙される女の子が出てくるんだよ」
「チャラキャラなんでガラじゃねーよ、俺は。どっちかって言うと地味で存在感薄い系男子って方がキャラに合ってる」
ユカはわざとらしく大きくため息をついて僕を睨んだ。
「どの口が言うかなあ。その自己認識さ、変えとかないと、いずれ第二第三の被害者が出てくるよ、間違いなく。カズヤ、ホントあんたって女子の敵だよね。あのイインチョ―ヤローと根はいっしょだよ」
「ええ? それひどくね?」
「私もクラスの女子に言っとく。杉津一哉には気を付けろ、ってさ」
「やめてくれ! 風評被害だ、風評被害!」
あのイケ好かないくそイケメンヤローと同列に扱われて、僕は喜ぶべきなのか、怒るべきなのか。とりあえずユカは僕の抗議をさらっと受け流して、難しい顔に戻って続けた。
「しかし、カズヤの話で分かったよ。今日のあのサナエちゃんの態度。カズヤはサナエちゃんの中では完全にもう『攻略済み』になっちゃってるね。だから教室で他の女の子と話していても余裕なんだよ。サナエちゃん的には『正妻は私。その辺の女子とは格が違うのよ』みたいな感覚のはず」
ユカは表情に深刻さを少しだけ足して、「これはマズいことになっちゃったなあ」と付け加える。
「そんなにマズいのか……」
思いのほかユカがマジになってるのを見て、僕も気分がヘビーになってきた。
「それとねえ。気になるのが、ミハちゃんの言ってたイインチョ―の話。私、自転車置き場のところで二人が話しているの隠れて見てたんだ。話声までは聞こえなかったけど、あのイケメンヤロー、随分しつこくミハちゃん誘ってたんだよ。イインチョ―、焦ってるなあと思ってね。最終的にミハちゃん、イインチョ―ヤロー振り切ってバス停の方へ走って行ったんだよね」
「どうしたらいいんだろう、って言ってたぜ。あと、城田さんの話もしてた」
「ああ、やっぱりリョーコの話になったんだ」
「ユカ、なんか知ってるのか? 城田さんの話」
興味本位で聞いてみたけど、僕はすぐ理解した。
ああ、これは聞いちゃいけない系の話なんだ。
ユカは苦虫を嚙み潰したかのような顔をして僕に告げる。
「……だいぶ知ってる方、かな。でも、それをカズヤに話す気はないよ」
「うん。別に聞きたくはない」
「ただね、私があのイケメンヤローのこと嫌いな原因の一つなのは間違いない。アイツさ、もともと私にも言い寄ってたんだよね」
「えー! まじ?」
と、僕は驚きの声を発したが、1秒ほど考えてそれもむべなるかな、と思い直す。とにかくユカは容姿も行動もいろいろ目立つ。そういうのをあのイケメンヤローが見逃すはずがない。しかし1年生のころにそんな動きがあったなんて知らなかった。
ん? 僕はふと時系列に違和感を覚えて問い返した。
「あれ? ユカがショウタローと付き合い出したのって秋ごろだよな?」
「えへっ。ばれた? あのクソイケメンヤローがどうしても嫌で、できるだけ近づかないようにしてたのに、あまりにしつこくてさ。それなら誰かとひっついちゃえ、ってことで、丁度その時告られてたショーと付き合うことにしたんだ」
「うわー、誰でも良かったのかよ。ドン引きするぜ。ショウタロー、めっちゃ喜んでたのに」
「ちょっと! ショーにはこのこと言わないでよね! もともとショーのこと嫌いじゃなかったし。ショー、いいヤツじゃん? ちょっとお人よしすぎるのが玉にきずだけどね」
「そこでノロケてもフォローにならんぜ? まあ、いいや。ということは、ユカを落とせなかったイインチョ―が次に目を付けたのが……」
「そう、リョーコってわけ。ちょうどその頃リョーコメガネやめてコンタクトにしたじゃん? 私、リョーコに何回も言ったんだよ。アイツには気をつけろって」
なるほど。イケメンクソヤロー、節操なさすぎだぜ。まあその後の話は聞かなくてもだいたい想像が付く。したたかなユカと違って、城田さんはコロッとイケメンイインチョ―ヤローの術中にハマってしまったんだろう。事実一年生の終わりごろはそれなりにいい雰囲気になっていた。でもそれで満足するようなイインチョーヤローじゃなかったわけだ。
「城田さん、フラれちゃったのかー。かわいそうだな」
「ううん、ちょっと違うと思う。リョーコはさ、あまり話したがらないんで詳細は分かんないんだけど、クソイインチョ―ヤローね、思わせぶりな態度散々取って、最終的に女子から告らせるようにしてたみたいなんだよね。私の時もそんな感じだったし。女子から告られないとイケメンのプライドが許さないのかな」
「なんだよ、それ。最悪だな、あのクソイケメン」
「いや、カズヤ、あんた人のこと言えないから。知っててやってるか、天然かの違いなんだからね。だから気を付けろって言ってんのよ」
話しているうちにドヴォルザークの新世界が聞こえて下校時刻を知らせる放送が入った。話に熱中していて気が付かなかったけど、外はもう陽が落ちかけている。秋の夕暮れは早くて短い。
「あれ、もうこんな時間なの? まだ作戦考えてないんだけどなあ。とりあえず、私はミハちゃん探ってみるよ。カズヤのデートに割り込もうとした理由がイマイチ見えないんだなあ」
「サナエちゃんはどうするのさ?」
「あー、もう手遅れだねー。ホントにキスしたかどうかに関係なく、彼女の中では自分だけがカズヤのカノジョ、と思っちゃってるからねえ。しばらく二人きりにならないようにうまく時間稼ぐしかないかなあ。カズヤ、歩きながら話そっか」
そう言うとユカはカバンを手に持って部室のテーブルから立ち上がった。
◇
「ユカ、今日バス乗って帰るだろ?」
「そうだねー。そうしようかな。もう暗いしね」
手に持った傘を振りながらユカは一瞬思案顔をしたが、結局僕の言葉に従った。僕たちは昇降口を出て、校門に向かって並んで歩いている。雨はぎりぎり降っていない。でもいつ降り出してもおかしくない。実際さっきまで少し降っていたのか、校門までの校庭は少し濡れていた。
「カズヤもバス?」
「いや、昨日置いて帰ったから、今日は自転車乗って帰る」
「え? まじで? この暗いのにたぬき坂自転車で行くの? 危ないよ。置いて帰りなよ」
「大丈夫大丈夫。暗くなったら自転車乗らないで押していくからさ」
「気を付けなよ? 自転車で怪我しないでね」
珍しくユカは不安丸出しの表情で僕に言った。心配なのは分かるし、不安に思ってくれるのはとてもありがたい。けど今朝アヤネに「カズ、ここんとこバス乗ってばっかじゃん。それで自転車通学してますとか片腹痛いわ」と煽られたばっかりだ。今日は意地でも自転車で帰る。それとバス代を払う小遣いがもう足りなくなってきている。バス、高すぎ。
「カズヤさあ」
ふと真剣な声色でユカが話しかけてきた。
「思ったよりも早くなったけどさ、遠からずサナエちゃん、泣かさなきゃいけない」
「……うん。分かってる」
「お互いツラいかもしれないけど、もう中途半端には……、できないから。……しっかり、ばっさり、すっぱり、フッてあげないといけないんだよ。その覚悟、できてる?」
ユカは普段のおちゃらけを1ミリも交えずに話し続ける。僕は自問するが、それは答えの再確認にしか過ぎなかった。僕の隣にいてほしいのはやっぱりミハルだ。サナエちゃんには申し訳ないし、一瞬心が揺れたのも事実だけど、やっぱりそれが僕の本心だった。
「これからだけど……必ずする」
「報われないかもしれないよ? ミハちゃんだめだったらサナエちゃん、とかはできないからね?」
「当然じゃないか」
ユカは校門に向かって二、三歩走ると、通学カバンを振りながらくるりとターンして僕に向き直った。
「よし。さすがだよ、カズヤ。カズヤがそこまで誠実になれるなら、サナエちゃんもきっと振り切れると思うよ。そこなのかな。カズヤとクソイインチョーとの違いってさ」
そう言ってユカはにこりと笑った。
「私、
敬礼っぽい仕草を残して、ユカは回れ右してバス通りに向けて走って行った。
秋の夕暮れ時は短い。
今日みたいな雨が降りかけた日はなおさらだ。
一瞬の余韻もなく夕暮れ時は終わり、夜のとばりが静かに、しかし着実に、その陣地を広げていく。
僕は自転車置き場から引っ張り出してきた自転車に跨った。
僕の眼前に広がる薄暗がり。
それを抜けた先に何が見えるのか。
それは行ってみないと分からないだろう。
薄暗がりにじわじわ侵食される僕の帰り道に向けて、僕は一人ペダルを思い切り踏みしめた。
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