第3話 市バス38系統 「星が丘ニュータウン循環(左回り)」


「ただいまー」

「遅いなあ、カズ。今日はエビチャーハンね」


 ミハルと別れて家に帰ると、ソファでだらしなく寝転んでテレビを見ていたアヤネがぶっきらぼうに声をかけてきた。


「んなもん、食材がねーよ。ベーコンで我慢しろ」

「イヤだ。今日はエビ。それとも、なに、私の言うことが聞けないの?」


 アヤネが「エビチャーハンね」と言ったのは「エビチャーハンを作れ」という意味だ。食べたいものを言えば当然弟が作ってくれるはず、というこの唯我独尊の姉思考、まじでぶち殺したくなる。


「んなこと言ったってないもんは作れねーよ。我慢しろって」

「買ってくればいいじゃん、Yマートで」


 自分で買いに行くという発想がまるでないのがアヤネらしい。いや、世の中の姉ってこんなもんだろ? それともうちのアヤネがおかしいのか? ともかく、僕にとってはやさしいお姉ちゃんなんてものは、異世界の都市伝説でしかない。


「やだよ。アヤネが原付乗って買ってこいよ。そしたら作ってやるって」

「イヤよ。もう私はくつろぎモードに入ってんだから」

「俺だって帰ってきたばっかだろうが。まったく、先に言っといてくれればついでに買ってきたのに……。さっきYマートの側まで行ってきたとこだぜ?」

「ん? Yマート近くまで行ってたの?」


 あ、やべえ。また余計なこと言ったかもしれん、と思った時は遅かった。


「ははあ、カズ。あんたさてはミハの家ストーキングしてたな? イヤだあー、犯罪者の姉とかなりたくないなー」


 ――― 果てしなくウザい。しかも無駄に察しがいい。


「誰がストーキングなんかするかよ。たまたまバス停で会ったから送って行ってただけだ」


 アヤネはよっこらっしょとソファに座りなおして僕の顔を正面から見据えた。


「ほほう、この未練たらたらのフラれ野郎。いつまでもミハのお尻追っかけてるとか、女々しいことばっかしてんじゃないよ?」


 そしてトドメの一言。


「悪いのはカズなんだから」


 ――― くそウゼー! …… そんなこと、言われなくても分かってんだよ!


 僕はアヤネをひと睨みして、これみよがしにチッと舌うちすると、制服のまま踵を返した。これ以上アヤネと言い合っているとどんな精神汚染攻撃を食らうか分からない。的確にこっちの急所を突いてくるから全部クリティカルヒットだ。


 しょーがねー、買ってきてやるか。ちくしょう。


「カズ! 待って!」


 リビングを出ようとする僕をアヤネが呼び止めた。振り向いた腹にボスッと何かが当たって、あわててそれを受け止める。


「それ、持ってけば?」


 アヤネの財布だった。


「ついでにケーキかなんかも買ってきなよ」


 僕は黙ってアヤネの財布を学ランの内ポケットにしまい、既に日も暮れきった中、再び自転車をYマートに向けて走らせた。





 僕とミハルは、幼馴染でただのクラスメートだ。

 ただ、かつては「ただのクラスメートではない」時代があった。





 ミハルと初めて会ったのは、小学校に入学する直前の春休みだった。


「ただいまー。ママー、ミハちゃん連れてきたよー」


 当時小学校三年生になる直前のアヤネは、ある日、目元のきれいな見知らぬ女の子を連れてピアノ教室から帰ってきた。女の子は目を赤く腫らしている。


「お帰り、アヤネ。その子はだれなの? お友達?」

「この子ねー、ミハちゃん! 同じピアノ教室の子だよー。バス停でね、青の38が来ないって泣いてたからね、アヤネの家だったら、赤の38でも行けるからね、連れてきてあげたの」


 アヤネはバスに乗ってたぬき坂を下りたところにある梅谷町のピアノ教室に通っていた。たぬき坂の途中にはバス停がない。たぬき坂上と梅谷町は隣同士なのに、ニュータウン内のバス停四つ分ぐらいの距離があった。当然ながら小学生が歩いて行き来することは、距離的にも勾配的にもまず無理だった。


 しかし、アヤネの話だけでは何が起こったのかまったく分からない。当時一時的に専業主婦をしていたうちの母親が膝を曲げて、ミハルの大きな目を見つめながら、ゆったりと話しかけた。 


「あなた、ミハちゃんって言うのね。どうしたの? 迷子にでもなっちゃったの?」


 ミハルはまた半べそになって一生懸命うちの母親に事情を説明する。


「ううん、あのね、うちのママも働いているの。だからね、ミハル一人でピアノ行っているの。行きはどのバスでもいいけど、帰りは青の38じゃないとだめってママが言ってたのに、全然来なかったの」


 いくら待っても乗るべきバスが来ないので、いい加減不安になってバス停でべそをかいていたミハルに声をかけたのが、ちょうどレッスンを終わって帰ろうとしたアヤネだったらしい。

 

「どうしたの? なんで泣いているの?」

「青の38が来ないの …… ぐすっ。…… 赤の38ばっかり来るの」


 日ノ沢駅から出る38系統 「星が丘ニュータウン循環」 には左回りと右回りがある。赤で38と書いてあるのが左回り、青が右回りだ。ミハルが待っていた青の右回りは、梅谷町、たぬき坂上、月の瀬神社、星が丘中学前、星が丘六丁目、星が丘ニュータウン中央の順に止まっていく。ミハルの家は星が丘六丁目が最寄り、うちはたぬき坂上と月の瀬神社のちょうど中間あたりだ。


 しかし、赤の左回りは月の瀬神社を出ると、星が丘中学前の手前の交差点を右折してニュータウンの外側を反時計回りにぐるっと迂回する。星が丘ニュータウン中央や星が丘六丁目に止まるのは一周回った最後の最後だ。


 実は、我慢して乗り続けていれば、三十分ほど余計に時間はかかるが、赤の38でも星が丘六丁目に一応は到達できる。しかし小学校一年生がそれを理解するには、さすがに難しかったようだ。


 ミハルはバス停でかたくなに青の右回りのバスを待ち続けていたが、レッスンが伸びて遅くなったせいで、すでにラッシュ時に差し掛かっていた。ラッシュ時間帯は青の38系統は運転されない。慣れた人たちはその時間帯は同じルートを走る47系統奥平団地行きとか、72系統森山寺行きに乗っていたが、幼いミハルがそんなことを知るはずがなかった。ひょっとすると引っ越してきたばかりで、普段の移動は車ばかりだったミハルの両親も知らなかったのかもしれない。


「夕方に青の38は来ないんだよー。別の番号のバスに乗らなきゃいけないんだよー」

「青の38しか乗っちゃダメってママが言ってたの!」

「じゃあ、アヤネの家においでよ!アヤネの家はねー、どのバスでも行けるんだ。あなた名前なんていうの?」

「ミハ …… ル」

「うん、ミハちゃんね。うちにおいで!」


 こうして半べそかいていたミハルは、アヤネに半ば強引に連れられて、うちのマンションにやってきたのだった。


 結局その日、ミハルはうちで夕食まで食べて、うちの母親から連絡をもらって迎えに来たミハルの母親の車で帰って行った。玄関先で頭を下げるミハルの母親と、にこにこ笑顔になったミハルに向かって、アヤネは大きな声で手を振りながら言った。


「ミハちゃん、また来週もピアノ一緒に行こうねー! アヤネ、これからミハちゃんと一緒にピアノ行くー!」


 それ以来、アヤネはピアノ教室の帰りは必ずミハルを連れて帰ってくるようになった。一人っ子でかぎっ子だったミハルは、すぐにアヤネと本当の姉妹のように、いや本当の姉妹以上に仲良くなっていった。


 さて、そうやって知り合った僕たちは、同じ小学校に通い出した。割とよくある幼馴染の関係と言ってしまえばそれまでだ。ただラノベによく出てくる幼馴染とは違って、ニュータウンの小学校は5クラスもある大規模校。小学校では一度しかミハルと同じクラスになっていない。

 しかし、週ニ回のピアノ教室の日は、ミハルは小学校から自分の家に寄らずに直接僕のマンションに来て、僕たち姉弟と遊んで、そこからアヤネと二人で教室に行き、一緒に帰ってきてミハルの母親が迎えに来るまで遊んでいくのが日常になった。


 アヤネが中学生になったころからは、ミハルはピアノのない日もうちのマンションに寄っていくようになっていた。もはや小学校からミハルと一緒にうちのマンションまで帰ってくるのは、僕の当たり前すぎる通学風景になっていて、それを疑問にも思わなかった。学校から一人でうちに帰ってくると、恐ろしいことに先に来ていたミハルが僕の帰りを待っていた、なんていうことも割と頻繁にあった。


 そんなことを繰り返して七年、ミハルは小学生のころのちょっと頑固でやんちゃな面を残しつつ、おっとりとした世話好きで明るい少女へと成長していた。中学ニ年生になったミハルは、ニ月の寒い中、マンションの前でチョコレートを持って僕の帰りを待ってくれていた。彼女がくれたチョコレートと一緒に入っていた手紙には 「カズヤ君のことが好きです」 と書いてあった。特有の丸っこい字で。シンプルに。ガキだった僕は大層戸惑ったが、断るという選択肢はまったくなかった。


 こうして「幼馴染でアヤネのピアノ友達」だったミハルは「僕のカノジョ」になった。


 僕たちは、初々しくも一途に、戸惑いながらも着実に、それでもそれまでとさして変わらない日常を、中学生カップルとして続けて行ったのだった。


 ところが、…… 僕たちの「ただのクラスメートでない時代」は長くは続かなかった。






 

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