第12話 バス停「橋塚別れ」


「ユカ、なんか、悪かったな。歩かせちゃって」


 僕は自転車を押しながらユカに話しかける。夕暮れにはまだ少し早い時間だが、空気がひんやりしてきた。道の反対側の星ヶ丘ニュータウン方面行のバス停を横目に見ながらそのまま通り過ぎる。いつもの帰り道とは違う道に足を踏み入れていた。


 今日は自転車を持って帰らないと、明日の朝また早起きしなくちゃならない。それもイヤだったのだが、サナエちゃんが連日押しかけて来るのを阻止するために、今日の昼休みに僕は「明日からまた自転車だから、朝うちに来ても一緒に登校できないぜ?」とサナエちゃんに予防線を張っていた。今日はどうしても自転車を持って帰る必要があった。


「ん、いいよ、別に」


 ユカは通学かばんを後ろ手に持ったまま、さらっと笑った。


「私、毎日歩いて帰ってるから」

「え? バスじゃなかったのか?」


 ユカはにやっと笑った。


「へへへ、実は今年の春からバス乗ってないんだ。ちょっとお小遣いが足りなくてねー」

「あー、定期代使い込んだのかよ!」

「ばかっ、声が大きいわよ。うちの両親にはナイショなんだから」


 バス通りは市民が「本通り」と呼ぶ片側二車線の大きな道路に突き当たる。「橋塚別れ」という県内でも事故が多いことで悪名高い交差点だ。ここから行き交う車の通行量が一気に増える。交差点の歩道を左折すると、すぐ「橋塚別れ」のバス停だ。買い物や仕事帰りの人がたくさんバスを待っている。僕は通行の邪魔にならないように、ユカと縦に並んで歩道の隅を自転車を押しながら通り過ぎた。


「……ドン引きだぜ」

「でもさ、三か月我慢するだけで二万五千円だよ? ちょっとしたアルバイト感覚ってやつ? それにうちからは歩いても大して距離ないからね」


 それはまあそうだろう。距離的にはユカの家最寄りのバス停日ノ沢本通りからは、うちから学校までの距離の半分くらいだ。ユカの家のマンションの細かい場所は知らないが、きっとうちからYマートまでの距離よりも少し遠いぐらいだろう。


「それじゃ、自転車通学にすればいいじゃん。俺ですら自転車で来てるのに」

「自転車はね……、危ないから絶対ダメって親が許してくれないんだ。……ほら、三年ぐらい前、本通りで塾帰りの自転車に乗った中学生が交通事故で亡くなったの知らない?」

「あー、知ってる」

「あれね、私の中学の同級生だったんだ」


 僕ははっとしてユカの顔を見つめた。


「結構仲いい子だったのよ。自転車通学がいいのは分かっているんだけど、それ以来私もちょっと自転車は怖くて乗れない、かな」


 いわし雲が並ぶ青空は澄み切っている。その透明感をそのまま声色にして、ユカは話している。しんみりした空気になったユカに、僕はなんて声をかけたらいいか分からなくなってしまった。怖いもの知らずで、常にはしゃいでいる印象のユカの沈んだトーンは、僕を大層戸惑わせる。切ない表情をしたユカの横顔は夕陽を浴びて、これ以上ないくらいの透明感があった。


「……ごめん、ユカ。俺、余計なこと聞いちゃったな」

「ふふふ、そこでさらっと謝れるのがカズヤのヤバいとこだよね」


 ユカは今度はからからと屈託なく笑って、僕の方に振り返る。


「ま、私はそういうのには騙されないけどね。サナエちゃんが引っかかっちゃったのもしょうがないかもね」


 ユカはそう言って僕を見上げた。その視線は直前のセリフの内容と違って、非難の色はなかった。


「べ、別にだましてなんかいねーし。人を女たらしみたいに言わないでくんね?」

「あらー、自覚症状ないんだー。ホント罪作りなヤツだよね、カズヤは」


 ユカは再びにんまりと柔らかく僕を睨んだ。


 いつもと違う人と、いつもと違う帰り道。

 いつもと違う街並みの中を、僕はユカと並んで歩いていく。

 これから僕は、僕たちみんなは、どうなっていくんだろう。

 すっかり陽が傾いた大通りの歩道には僕とユカの影が並んでいた。


「もうすぐだよ、ほら、あそこの信号の角を曲がったところがうちなの」


 いつもの快活な笑顔でそう言うと、ユカは前を向いて歩いて行った。


 ◇


「まあ、ゆっくりしてよ。カルピスとコーラあるけどどっちがいい?」


 ユカの部屋で、私服に着替えたとユカと話をしていると妙に落ち着かない。ユカの部屋は白い勉強机と薄いブラウンのカーテンが印象的な、明るいトーンの部屋だった。うーん、落ち着かない。


「ありがと。じゃあ、コーラを。ユカの部屋、思ったよりも、なんていうか、ファンシーじゃないんだな。なんか無印良品のショールームみたいだ」

「私、あんまりファンシーなの好きじゃないのよね。って、それ誉めてくれてるの?」

「いや、まあ、どちらかと言えば誉めてる、というか。ちょっと意外だったから」


 ユカの部屋に通された僕は、居心地悪く部屋の中のあちこちを見回す。ユカが真ん中の妹ミホちゃんに言いつけると、しばらくしてお盆にコーラのペットボトルとグラスを載せて持ってきてくれた。

 ユカの下の妹、小六のエリちゃんはユカをそのまま小さくしたような活発な子だったが、真ん中の妹、中二のミホちゃんは全体的に落ち着いたゆるふわの雰囲気を醸し出したかわいい子だった。姉妹での性格の違いはグラスをテーブルに置く所作だけでも感じ取れる。これがユカだったらペットボトルをほい、と投げてよこして終わりだっただろう。


「……なににやにやしてるの?」

「いや、真ん中の妹さん、落ち着いててかわいいよな」

「あはは、そーだね。わりとゆるふわな感じだよね。あの子モテるんだよ? ラブレターとか私の三倍ぐらいもらってるもん」


 ユカの三倍! そりゃ相当すごい。学校一の美少女ってやつなのか。


「ほお。そうなのか。俺、口説いちゃっていい?」

「冗談に聞こえないからやめて。そういうこと言うからカズヤは……」


 テーブルの上のグラスに差されたストローに口を付ける。別に飲みたかったわけではない。間が持たなかったんだよ。同年代の女子の部屋なんてアヤネの部屋とミハルの部屋しか僕は知らない。アヤネの部屋はもっと殺伐としているし、ミハルの部屋はファンシー満開だ。それと比べるとユカの部屋はおそろしくシンプルで機能的、というかスタイリッシュ、そうスタイリッシュなんだよな。


「だいたいさ、ショーもこの部屋に呼んだことないんだから。ありがたく思いなよ?」

「え? ショウタロー、ここ来たことないの?」


 そんな話聞いたら居心地の悪さが倍増するじゃないか。ユカは少しはにかんだ表情を見せて、目を伏せる。


「んー、なんかショー呼ぶってなるとさ、両親に言わないわけに行かないじゃん? 一大イベントになっちゃう気がしてさ」

「なんだよ、俺だったらどうでもいいってことかよ」

「まあ、カズヤならそのあたりの気は使わなくていいわよね」


 ◇


 その日、ユカの両親になんて言って挨拶しようかと悩みながら、ゼンマイ人形のような仕草でマンションのエントランスをくぐった僕だったが、「カズヤのばーか。なーに緊張してんのよ。今日は親いないから」と、ユカがさらっと言ったせいで、別の方向で余計に緊張を高める羽目になった。

 そりゃそうだろ。親のいない家に男子を呼ぶって、つまりそういうことだろ? どーしようどーしようと狼狽する僕を尻目に、乱暴に「ただいま」とユカは玄関の扉を開ける。僕はぎこちない動きでそれに続いた。そんな僕たちを出迎えたのは、ステレオに反響する二人の少女の元気な声だった。


「お姉ちゃんおかえりー」

「ユカ姉ちゃんおかえりー」


 ユカを一回り小さくしたような女の子が玄関に顔を出す。


「ふふふ、なーんかよこしまなこと考えてたでしょ? この変態! でも、ざーんねんでした。これ私の妹。小六のエリ。向こうにいるのが中二のミホ」

「えー、ユカねーちゃん、カレシー!? きゃー! ミホねーちゃん、ユカねーちゃんがカレシ連れてきたあ-!」


 ユカの妹のエリは僕を無遠慮に指さして珍獣でも見つけたかのような声で絶叫した。


「エリ、残念ながら、これはカレシじゃないんだよ」


 これってなんだ、これって。

 僕はむっとしながら、一方で心の底からほっとした。

 しかしユカ、三姉妹の長女だったのか。うーん、意外な気もするし、なんとなく分かる気もする。そんなことを考えながら、僕はできるだけ愛想よく「こんにちはー、お姉さんの部活の友達なんだ。お邪魔するよ」と少女たちに声をかけてユカの家にあがったのだった。


 ◇


「でさ。カズヤはサナエちゃんとどうなりたいの」

 ユカはテーブルの向かいにちょこんと座ると、ストローをくわえたまま不躾に言い放つ。


「……ああ、サナエちゃんか。できれば」

「できれば?」

「もう少し距離取りたい。少なくとも付き合う気は、……ないな」

「ふーん。アヤネさんが昨日言ってた元カノさんに未練があるんだ」

「え? いや、あー、それは」

「あるんでしょ? 誤魔化したってダメだよ」


 ユカはストローでグラスの氷をつつきながら、逃がさないわよ的な雰囲気で突っ込んでくる。ユカの踏み込みはいつも鋭い。降参だ。


「ある! 滅茶苦茶にあるよ! 悪かったなあ、未練がましくて」


 気恥ずかしさを誤魔化そうとしてつい語調が荒くなってしまった。しかし、ユカはそんな僕を慈しむように見つめると、落ち着いた声で続けた。


「でもね、カズヤ。未練あるのは分かるけどさ、いっぺんフラれちゃったのに元通りになるのは相当難しいよ? その元カノさんもね、どれぐらい付き合ったのか分かんないけどさ、カズヤのことフるのにそれなりに覚悟がいったと思うんだよね」


 ……イヤなとこ突いてきやがる。ミハルが僕をフッたのは、それなりどころか相当な覚悟のはずだった。家族同然の付き合いを放棄することになるんだから。


 それだけ、ミハルには重みのある別れの言葉だったんだ。

 それだけ、僕がカレシとしてダメだったんだ。


 自責と悔恨の念で僕は押し黙ってしまった。ユカは露骨に落ち込んだ僕をフォローするかのように言葉を続ける。


「せっかくサナエちゃんがカズヤのこといいって言ってくれてるんだからさ、もう少し前向きに気持ちに応えてあげたら?」

「そんな簡単に言うなよ……」

「そもそもさ、元カノさんにフラれたのって、いつの話? 一年の時? 二年になってからじゃないよね? 全然そんな雰囲気なかったし」

「うん、高校入る直前」

「そんなに前なの……。それ、もう、戻れないかもよ? 時間たちすぎだよ……。あれ? そしたらショーもカズヤの元カノさんのこと知ってるの?」

「……知ってる。全部知ってる。でもアイツはそういうこと他人に話さないだろうな」

「あー、そうなのか。確かにショーなら私が聞いても教えてくれないだろうね。ショーらしいよね。あら? じゃあミハちゃんも知ってるの?」


 突然出てきたミハルの名前に僕は思い切り動揺した。


「ミハ……、キタウラさんも、……知ってる。全部、知ってる」


 知ってるも何も、当事者だよ。

 僕の返答の微妙な間と、表情に浮かぶ狼狽をユカが見逃すはずがなかった。僕はここで抵抗するのを諦めた。これはもう、隠しきれない。


「……カズヤ、もしかして、元カノってミハちゃん、……なの?」


 僕はうなだれた。沈黙は肯定のしるしだった。ユカは心持きっちり座りなおすと、長いまつ毛を伏せてふうっとため息をつく。


「……そうだったのね。それでいろいろ納得できた気がする」


 そしてかわいそうなモノを見る目で僕に言った。


「でも……それ、ハードル高すぎるよ。だって、ミハちゃんってさ、文実のイインチョーヤローと噂になってんじゃん。あの品行方正、成績優秀なイケメンヤローとカズヤじゃあ、ちょっと勝負にならないかもね。ま、私は、あーいうのはパスなんだけどさ」


 ぐへっ。コイツは手加減てもんを知らんのか。


「んなこたあ、言われなくても分かってるよ!」

「ばかっ、妹たちがびっくりするからおっきな声出さないの!」


 そして、今度ははっきり居住まいを正して、凛とした声で僕に宣告した。


「カズヤ。あんた、サナエちゃんと付き合う気はないんだね? んで、ミハちゃんとヨリ戻したいんだね? 上手くいかないかもしれないし、失敗するとどっちもダメになっちゃうけど、それでも後悔しないね?」


 僕は半ばユカの勢いに気圧された。そしてじっと考え込む。


 ミハルと、昔の恋人同士に戻る。それはとても魅力的だ。気の置けない、遠慮もいらない、お互いを良く知っている者同士、昔からの幼馴染の関係。言ってみればぬるま湯の関係だ。それはとても心地よい。

 ただ、そこに戻れたとしてもまたダメになるであろうことは想像に難くない。ただ戻るだけじゃダメなのだろう。僕たちはもう子供じゃない。お互いが成長した上でお互いを認める。そういう関係をこれから作っていかなきゃいけない。僕にそれができるんだろうか。ミハルがそれを受け止めてくれるんだろうか。


 僕はユカの言葉に、曖昧に頷くしかできなかった。


「ん。そういうことなら、ちょっとやり方を考えようよ。ただね、どう転んでも誰かが泣くことになっちゃうけどね。それは覚悟しておいてね」


 ◇


 翌朝。


 学校に来ると僕の隣の席に座っていたサナエちゃんが、待ってましたとばかりに口を開いた。


「杉津君」

「あ、おはよう、サナエちゃん」

「昨日ユカちゃんとどこ行ったの?」

「え? 部室だけど」

「嘘! なんか二人で学校出て帰って行ったって聞いたよ!」


 サナエちゃんは珍しく怒った顔で僕をなじった。

 あらら、こりゃいきなりだなあ。こんなに早く昨日ユカが言っていた「指定局面」に出くわすとは思わなかった。なんとも形容のし難い表情を、僕はしていたと思う。


「ああ、確かに部室行った後、二人で帰ったよ」

「なんで? 私と一緒に帰ってくれると思ってたのに! それにユカちゃんとは家の方向逆じゃないの?」


 このサナエちゃんのセリフは、ユカがばっちり想定済みだった。しかし、アイツよくこんな展開が読めたなあ。ラブコメ脳だとか昼ドラ脳だとか馬鹿にしちゃいけないな、と僕は思った。それよりも目の前の「浮気亭主を咎める若奥さん」になりきっているサナエちゃんの対処が先だ。


「サナエちゃん、それを非難されても、俺、困るんだけどさ」

「え?」


 僕は平静を装って、昨日ユカからレクチャーされた方向に話の舵を切る。「イケボでやると効果高いよ」とユカは言っていたが、無理な注文するな、と言いたい。サナエちゃんに悟られないように深呼吸して、あくまで冷静に僕は口を開いた。


「昨日は、別にサナエちゃんと帰る約束なんてしてなかっただろ?」


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