第17話 県立西平高校第一体育館ステージ

 翌朝。


 今日は金曜日。

 勇ましいドラムのリズムは、さーみんたちの新曲。僕のスマホの目覚まし音でもある。それをフリックで止めてカーテンの向こうを見ると、昨日の雨っぽい空模様から一転して綺麗な青空だった。そのかわりに少し肌寒い。僕はベッドからもそもそと抜け出して、寝巻の上にパーカーを羽織ってダイニングに向かった。

 昨日の夜、小雨の中自転車でたぬき坂を強行突破して帰って来たので、今朝はバスに乗らなくてもいい。もう少し寝てられる。しかし、今日の僕は珍しく二度寝する気にならなかった。アヤネはまだ寝ているらしく、部屋で寝返りを打つ気配がする。


 キッチンに立って、冷蔵庫から牛乳を、食器棚の下の引き戸からサラダボウルを取り出した。シリアルとドライフルーツをサラダボウルにざらざらた乱雑に入れて牛乳をぶっかける。今日の朝食はこれとコーヒー。手抜きもいいところだ。

 弁当は炊飯器のご飯をおにぎりにしたものと、冷食のから揚げ。それをアルミホイルにぐるっと包んでおしまい。だんだん弁当箱に詰めるのがめんどくさくなってきて、最近の僕の弁当はこういうのが多い。


「だいたい弁当箱なんて、詰めるのも洗うのもクソめんどくせーよ。やっぱり男は黙ってアルミホイルおにぎりだ!」とか言ってイキがっていると、かばんの中に入れたまま忘れて腐らせてしまい、悲惨な目に合うことがある。それだけは気を付けないといけない。いや、まじだぜ? かばんの中から腐ったおにぎり出て来てみ? ホント生きてるのが嫌になるくらい絶望するから。


 今朝は珍しく時間に余裕があったので、ゆっくり制服に着替えてマンションの外に出た。


 自転車置き場の屋根から滴る朝露が、陽の光を受けて輝いていた。頬に触れる空気が冷たい。そろそろ手袋がいるかな、と思いながら露で湿ったサドルを手のひらでぬぐって、僕は自転車に跨った。


 くよくよしててもいいことなし! さあ、今日も張り切って学校行くか!


 僕はペダルを踏みしめて走り出した。今日のような天気の良い時は、最高の気分だ。満員バスの人いきれとも無縁。たぬき坂の途中はほとんど自転車を漕ぐ必要がなくて、左手のブレーキハンドルの握り具合だけで自転車を操れるのがひそかに楽しい。手放し運転もやる気になれば可能だが、それはさすがに危険なのでやめておく。朝8時前のたぬき坂は、星ヶ丘ニュータウンから日ノ沢市街の中心部に向かう車で結構な通行量だし、歩道も狭い。


 ゆうゆうと僕を抜き去っていく自動車たち。

 木立から聞こえる鳥のさえずり。

 朝陽を浴びる色づく木々の葉。


 僕の不注意から渋々始めた自転車通学だったけど、通学路には今まで知らずに通り過ぎていたものがたくさんあることに、僕は気付き始めている。その一つ一つがとても色鮮やかに、そして艶やかに、僕に語りかけて来る。

 僕は多分、一七歳の秋に見たこの通学路の風景を、ずっと、ずっと忘れないだろう。それほど朝の自転車通学で見る風景は僕の五感に静かに刺さっている。それを体感できたのは、定期をなくした偶然の帰納、まさしく怪我の功名だ。


 人生、何に感謝することになるのか、分からないもんだ。



 たぬき坂を下りきってバス通りを進み、最後に校門へと続く通りへと曲がった。ここまで十六分。今日は一段と快調で快適な走りだった。


 すると、前方に女子が二人並んで歩いているのが目に入る。セミロングの黒髪と、少し茶色がかったミディアムウェーブ。ミハルとユカだ。


「よお!」とカッコよく手を上げてさっそうと通り過ぎようか、と思ってハタと思いとどまった。この二人は学校を挟んで正反対の方向から通学している。偶然バスが一緒になることはあり得ない。しかし、実際に並んで歩いていると言うことは、またユカがバス停でミハルを待ち伏せしていたのだろう。


―――ユカのやつ、またなんか企んでやがるな。


 そう言えばミハルの様子を探ってみると言っていた。間違いなく僕(とサナエちゃん)の話題も出ているに違いない。こりゃ、触らぬ神に祟りなしだぜ。僕は自転車を降り、二人に気づかれないように気配を消して、校門までの百メートルほどを二人に追い付かないように歩いた。

 手を振りながら楽しそうに話しかけるユカに、笑顔でそれに答えるミハル。

 なんか、アイツら楽しそうだな。


 チクショー、僕の話題で盛り上がってたら許さんからな。


 ◇


 教室に入ったのはミハルよりも僕の方が先だった。どこで抜かしたんだろう、と不思議に思う。トイレにでも寄ってるのかな?


 席に付くなり隣のサナエちゃんと目が合った。


「あ、杉津君、おはよう」

「サナエちゃん、おはよう……」


 なんか軽いトークを一発入れとくべきだと思ったが、何も話題が出て来ない。相変わらず自分の会話スキルのなさが痛い。というか地雷が多すぎてうかつに口が開けない。そこにミハルとユカが談笑しながら教室に入ってきた。ユカはカバンを持っていない。二人は先に4組の教室でユカのカバンを置いてから、連れ立ってうちのクラスに来たのか。なるほど。

 今日もユカは完全サナエちゃん監視モードらしく、いきなり「サナエちゃん、おはよう。今日のお昼ね、よかったら一緒に食堂行かない?」と声をかけている。サナエちゃんの意識は完全に僕から外れてユカに向かった。ユカは以前から頻繁にうちのクラスに出入りしていて、ショウタローと付き合ってるのは公知の事実。ユカが来ていることに違和感を覚えるようなヤツはクラスにはいない。

 ユカとサナエちゃんが話を始めたので、必然的に僕はミハルと向き合うことになった。


「キタウラさん、おはよ」

「おはよう。、今朝、何時に家出てきたの?」

「うーん、7時40分ぐらいかな」


 あれ? ミハル、今「カズヤ君」って呼んだよな?


「その時間に家を出て、もう教室に着いているんだ。私もしてみようかな、自転車通学。私7時10分のバスに乗ってこの時間だよ? 朝の時間に余裕があるの、うらやましい」

「え? 無理だろ、やめとけって。今日みたいなコンディションのいい日ばっかじゃないんだぜ? 昨日の帰りなんか、暗かったし雨降ってたし地獄だったぜ? それに女子には危なすぎるよ」

「私も大学生になったらアヤちゃんみたいにバイク乗ろうかな」

「それは止めないけど、夜道ですっ転んで歯を折らないようにしろよ」

「ふふふ、それなら大丈夫。お母さんが治してくれるからね」

「そうゆう問題じゃねーよ」


 ミハルはふふ、とにこやかに微笑んだ。相手がミハルだと異常にスムーズに会話がつながる。なんなんだ、この現象は。

 するとミハルはふっと表情に影を落とした。少しだけ迷った素振りを見せながら、声を落として僕に問いかける。


「あの……、カズヤくんは、その……サナエちゃんと……」


 ミハルの問いかけは、ちょうど鳴り始めた予鈴に消されて全部は聞こえなかった。担任の森藤先生が教室に入ってきて「みんな、おはよう。日直、号令を」と快活に教壇から声を上げた。


 今日の日直はミハルだった。



 1時間目が終わって休み時間になった途端、またユカが教室に飛び込んで来た。小走りに駆け寄ってくるなり、僕と教科書の片づけをしているサナエちゃんの間にぐいと割り込み、背後のサナエちゃんを遮りつつ、なおかつサナエちゃんに聞こえるように、声を上げる。


「カズヤ、今日の放課後、ダンスの全練全体練習だよ。サボっちゃだめだからね。たとえデートが理由でも今日は許さんぞ!」

「分かってるって、ユカ。そんなでかい声出さなくても、俺にデートの予定なんてあるわけない。場所は? 校庭?」

「ううん、今日は体育館ステージ取れたから」

「ほお? 競争率十倍のステージの抽選を当てるとは、やるな、ユカ」

「まっかせときなさい。私のゴールデン左腕がハズレを許さないのよ。ふふふふ」

「んなこと言って、今まで外しまくったクセに」

「気にするな! そういうとこ気にするヤツはモテないぞ! 一時間半だけだから絶対遅れないようにね。そんでさー、ステージの音響なんだけど、スピーカーにCDの音出すの、どうすればいいのかな? 部室のラジカセ持って行く?」


 見事にサナエちゃんに付け入る隙を与えていない。大したもんだ、と感心していると、ユカが片目でウィンクした。話を合わせろというサインだ。僕はユカの多少誇張気味な業務連絡に付き合って、体育館のスピーカへの音の出し方を教える。


「いや、CDだけ持って行けばいいよ。体育館の音響室にCDプレーヤーあるから、そこで再生するとステージのスピーカーから音出せる」

「あ、そうなんだ。音響室のカギ借りとけばいいのね?」

「でも、バレー部とかバスケ部とかの練習中に音出すと嫌がるぜ?」

「それは大丈夫。女バレの部長にOKもらってる。あの部長も実はさーみんファンなんだよ」

「へー、そうなのか」


 実は、僕もユカも体育館の音響盤の操作は何回もやってて、慣れたもんだった。わざわざ打ち合わせなくても、音量の調節も接続の仕方も全部分かっている。女バレ部長がさーみんファンなのも当然知っている。つまりこの会話はサナエちゃんに喋らせないためのおとりデコイってことだ。

 関係ないけど、男バスの部員にもさーみんとちせっぽのファンがたくさんいる。しかし「気が散って練習どころじゃないからやめてくれ」とクレームが来て以来、男バスの練習中にはステージで音を出さないようにしている。

 体育館のステージは演劇系、音楽系、パフォーマンス系の十あまりの部活で取り合いになっていて、競争率十倍というのは本当の話だ。ユカがヒキが弱いのも本当の話。文化祭本番まであと二週間で三回しかステージ練習ができない。言われなくても今日の全練全体練習は気合い入れて行くつもりだった。


 ユカの背後のサナエちゃんをちらっと目をやると、淡々と次の授業の準備をしているが、僕との間に壁のように立ちふさがるユカに対して、明らかに迷惑げな視線を向けている。とは言っても、文化祭前でクラス全体が落ち着かない雰囲気の中、部活の文化祭準備について業務打合せをしている僕たちに対して、帰宅部のサナエちゃんが文句を言える立場にない。ユカはそのあたりも計算済みだった。女の世界は怖いぜ、まじで。敵に回したくないな。

 ユカはさんざん喋った後、チャイムの最初の一音を聞いてやっと教室を出て行った。


 その次の休み時間、ユカのクラスは芸術の選択科目。音楽を選択しているユカは、移動の途中にうちのクラスに立ち寄ると、廊下からそおっと僕を手招きした。僕は、机から身体を乗り出して僕に話しかけようとしていたサナエちゃんに気付かないフリをして、廊下のユカのところに小走りで駆け寄った。


「カズヤ、今日はさ……」


 教室の扉を出た廊下で、ユカは周囲に聞こえない程度の声で話し始める。さっきと違って割と真剣な顔をしている。こういう表情の切り替えには、ユカは天性の才能みたいなもんを持っている。


「ああ、ユカ、言わなくても分かる。隔離作戦なんだろ?」

「そう。いつかはサナエちゃんフラなきゃいけないけど、まだその時期じゃない。かと言ってサナエちゃんにこれ以上幸せ気分に浸られちゃうのは、フラれた時のダメージが増えるだけ。不本意だけど、物理的に距離を取っちゃうしかないのよ」

「俺、もう覚悟はできてるから。今すぐ言ってきてもいいぜ? その方がはっきりするなら」

「ダメだよ! 今はダメ! 今サナエちゃん的には幸せ絶頂じゃない? そんな時にカズヤにフラれたら、なんて言うと思う?」

「『私を捨てないで!』かな?」

「全然違うわよ。バカじゃないの? 今時そんなこという女子高生がまじでいると思ってんの?」

「うーん、分からん。なんだろう。『殺してやる!』とか?」

「サナエちゃんなら言いそうだけど、それも違うかな。いい? カズヤ。サナエちゃん的には、今の二人は付き合い出したばっかのガチガチの両想いなわけ。それなのにカズヤから突然別れのセリフが出たら……」

「ああ、分かった。『なんで? なんで別れなきゃいけないの?』か」

「当たり。あまりにも前兆のないところにそういう話をいきなり出したら、理由を聞きたがるに決まってる。どうせカズヤのことだから、上手にサナエちゃんが納得できるような理由なんて言えないでしょ? 逆に咄嗟に『悪いけどサナエちゃんのこと、元から好きでもなんでもなかったんだ。俺が好きなのは昔からミハルだけだ!』とか口走って、余計にサナエちゃん傷つけちゃうんだよ。もうね、手に取るように分かっちゃう」


 ユカは、さも見て来たかのように僕の口真似をして断言した。なんか腹立つ。しかし残念ながら、そんなこと言わねーよ、とは言い切れないのがツラいところだ。むしろトークに詰まって本当にそう言ってしまいそうだった。


 僕は慌てて遠くの山並みに目を向けて話すユカの口をふさいだ。


「ばか! 声に出して言うなよ、ユカ! 人に聞かれたらどうする!」


 しかしユカは落ち着いて僕の手を振りほどくと、僕の顔を正面から見て言った。

 

「カズヤ、恋の別れ話にはね、予兆とか予感が必ずあるものなのよ。分かってるんでしょ?」

 

 妙にしんみりとした固い口調だった。

 僕ははっと息を飲む。

 分かってる。確かにそうだ。別れ話には、予兆がある。僕の時にも確かにあった。

 あの頃の僕は、その予兆をきっちり分かっていた。気が付いていた。

 このままでは、ミハルと恋人同士としてうまく行かないって。

 分かっていて何もしなかった。何もできなかった。


 あれを別れの予兆と言うのならば、僕とミハルはそれぞれの予兆に背後から睨まれながら、少しずつ、少しずつお互いの時間を削り取られていたのだった。


 ◇


 昼休みになると、すぐにユカはサナエちゃんとミハルを連れ出して、食堂へと向かって行った。正直、これは助かる。いつサナエちゃんが顔を赤らめながら「杉津君、こないだの続き、いつにしようか?」みたいなことを言い出すか分からない。そして、それにどう答えたらいいのか、僕にはまるで分からない。それこそいきなり別れ話を暴発させてしまうかもしれない。


 物思いにふけりながらおにぎりのアルミホイルを剥いていると、ショウタローが弁当箱を持ってサナエちゃんの席に来た。どかっと座って弁当を広げながら、すでに食べ始めている僕に向かってぼそっと囁く。


「なあ、カズヤ」

「ん?」

「最近さ、ユカさ、よくうちのクラスに来るよな?」


 ショウタローは、さすがによく観察しなければ分からないはずの、ユカのきわめて些細な行動の変化に気が付いたらしい。

 ユカはここ最近のサナエちゃんがらみの騒動について、ショウタローに話していないのか。ユカのことだから何か戦略があってのことだろう。ここは僕が口を割るべきではなさそうだ。


「そうかな。前からショウタローのとこにしょっちゅう来てたじゃん」

「うーん、そうなんだけど、なんか最近さあ、ユカ、うちのクラスに来ても俺の事、あんまり気にしてないみたいでさ」

「あははは、なんだよ、構ってもらえないから拗ねてんのかよ。だせー」


 僕はショウタローの話に思わず吹き出してしまった。なんか小学生みたいでかわいいじゃねーか、ショウタロー。しかし、ショウタローは僕の冗談にはまったく反応しなかった。自分の弁当を無造作に頬張りながら何気ない風に話を続ける。


「カズ、俺さ、思ってたんだ、前から。カズヤとユカ、お似合いだな、ってさ」

「はあ?」


 なに言ってるんだ? コイツは。


「ユカもカズと話していると楽しそうだし」

「な、なに言ってるんだよ、ショウタロー」

「とにかく、俺、アイツが楽しそうにしてくれてるなら、それでいいんだよ。それだけでいいんだよ。別に俺の傍に居てくれなきゃイヤだ、とかじゃないんだよ。だから……俺よりもカズといる方が楽しそうなら、アイツは俺じゃなくてカズと一緒にいるべきなんだ」

「待て。何言ってんだ、ショウタロー、やめろよ。これにはちょっとした事情があるんだって」

「いや、いいよ、事情なんてどうでも」


 ショウタローはまだ残っている弁当箱に蓋をした。

 ふうとため息を一つついて、僕に向き直ってこう言った。


「カズヤ、俺さ、ユカと別れるから。幸せにしてやってくれよな、アイツを。カズならできるからさ」

「待て待て待て待て、ショウタロー。そりゃあ誤解だ!」



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