第5話 バス停 「梅谷総合運動公園」(降車専用)


「えー、それでは今日は正の整数を求める問題ですね。まず、プリントを一枚やってください。十分ぐらいでできるかな」


 数学の鈴原先生が落ち着いた声で生徒に声をかける。今日の五時間目は数Ⅱだ。


 鈴原先生は赤いセルフレームのメガネに白衣をまとい、いかにもリケジョの雰囲気を漂わせている知的な美人だ。生徒には結構カルトな人気がある。先生が数学でなくて地理とか音楽の担当だったら、僕もファンクラブにためらうことなく入会したのだが、数Ⅱを受け持っているとあれば、残念ながら僕にとっては不倶戴天の敵としかみなせない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。僕は昔から数学が大嫌いだ。数学のプリントも当然嫌いだ。数学のプリントやらされるぐらいならアヤネの焦げベーコン食べてた方が随分ましだ。


 僕は配られたプリントを、隣の席のサナエちゃんの手元をガン見して埋めた。要するにカンニング。サナエちゃんは僕の視線に気づいてたしなめるような視線を飛ばしてくる。そして少し顔を赤らめながらプリントでなくて、自分の胸元を手で遮った。


 いや、サナエちやん、僕が見たいのはサナエちゃんの胸じゃなくて、数学のプリントの答えだよ。勘違いしないでね、お願いだから。


 「そろそろできましたか。じゃあ、解説しますね。1番はルートの中のxを絞り込んでいくのがポイントなんですが ……」


 先生の解説なんかもとからあまり聞く気はない。頬杖をついて僕は、そう言えば昔数学のプリントでアヤネと喧嘩したことあったな、と思い出していた。



「アヤちゃん、私の志望校なんだけどね、西高と星高とどっちがいいかな?」

「えー、ミハ、なんで星高が出てくるのよ。レベル下がっちゃうじゃない」


 中3の秋のある日の夕方、ミハルは僕の家のリビングのピアノの椅子に腰かけていた。ダイニングテーブルには制服のままで大口開けてシュークリームを頬張っているアヤネと、その向かいでプリントの数学の問題を解いている僕。アヤネの隣の席には解き終わったプリントが伏せて置いてあった。


 うっ、わからん …… 。なんだこの問題は。問題文が僕の知らない古代語で書かれているみたいだ。


「カズ、そんなのも分かんないの? 姉として恥ずかしいわー」

「うるせー! 邪魔すんな!」

「ははあ、ミハはカズにレベル合わせてくれてるのかー。ミハさあ、もっといい高校狙ってみた方がいいんじゃない? とにかく、たぬき坂の外を見てみるといいよ。世界が広がるよ? アゼリアにおいでよ」


 アヤネの言うアゼリアとは、日ノ沢駅からさらに電車で二駅行ったところにある聖アゼリア女学院。県内では有数の難関女子校だ。昔から勉強だけはよくできるアヤネはそこに通っている。アヤネが通っているというだけで僕の中では「勉強はよくできるけど、根性が悪くて、性格がねじ曲がってて、料理音痴のクソむかつく女子が通う学校」というイメージができている。


「私、あんまり女子校ってタイプじゃないと思うんだけど …… 」

「ミハ、カズのレベルに合わせることないって。女子校って言っても男子が一人もいなくて、たまに陰険な女子がいるぐらいだからさ」


 …… 何言ってんだ、アヤネ。それ致命的じゃないかよ。案の定、ミハルは微妙な顔をしている。


「ミハなら光文館でもいいと思うんだけどなあ。先生に言われなかった?」


 アヤネは冷蔵庫からもう一つシュークリームを出してきて、平然と袋を破りながら言った。


「姉ちゃん、それ俺とミハルの分だろ! 勝手に食うなよ!」

「制限時間内に問題解けなかった罰だよ。それとも問題できたの? どれ。見せてみな。私が採点してやるから」


 うぐぐ。まだ半分もできていない …… 。ミハルは同じ問題を二十分も前に解き終わって、僕が終わるのを待ってくれていた。


「ほーれ見ろ、バカカズ。悔しかったらさっさと問題解くんだね」

「ちくしょー! 姉だったら煽る前に教えてくれよ!」

「教えたら意味ないじゃん。それでさ、ミハ、どうなのよ。光文館」


 県立光文館高校は毎年二桁の東大合格者を出す、全国的にも有数の進学校だ。ただ、中ノ沢駅から四十分も電車に乗って県庁所在地まで行かなければいけない。

 

「先生にも 『受けてみるか?』 って言われたけど、さすがに遠すぎて通うの大変だと思うんだよね ……」

「そっか。そうだよね。私の星中の友達のお姉さん、光文館行ってたそうなんだけど、毎朝五時五十分のバスに乗ってたらしいからね」

「毎朝!?  そんなの絶対無理だよ」

「じゃあ西高一択だね、ミハ。迷うことないんじゃない?」

「うーん。そうなるかなあ」

「だーかーらー。バカカズのレベルに合わせなくていいって。こいつはプリントも解けないバカなんだから。カズはバカだから星高もやばいんじゃない?」

「アヤネ! バカバカいうな! 俺だって頑張れば西高行けるって先生に言われてんだよ! アヤネが邪魔するからプリントできないじゃねーか!」

「相当頑張らないと行けないってことでしょ。それで、できたの? どれ。お姉ちゃんが採点してやるよ?」


…… まだできていない。僕はふくれっ面のまま再びプリントの問題に取り組んだ。


 星が丘中学校からは、星が丘ニュータウンの僕たちの家とは反対側の端にある市立星が丘高校に約半分、市内の他の私立高校に約三割、たぬき坂を下って県立西平高校に約二割が進学する。


 僕もミハルも星高よりも西高の方が距離的には近い。ただ、間にたぬき坂が挟まる関係で通学時間はどちらも同じぐらいか、むしろ西高の方が時間がかかる。レベル的には少し西高の方が難しい。ミハルは西高はもちろんのことアゼリアも余裕の成績だったが、僕は悔しいけどアヤネの言うとおり西高ですらギリギリラインだった。


 結局ミハルがシュークリームにありつけたのはさらに二十分後になってしまった。ミハルはさんざん待たされたのにイヤな顔ひとつ見せずに、しかも僕にシュークリームを半分分けてくれた。


「いいよ、ミハル。全部食べてよ。アヤネが悪いのにミハルが割を食らうことない」

「ミハさ、カズに甘すぎるぞ。そのうちこのボンクラに泣かされることになるよ?」

「え? カズヤ君に泣かされることなんて想像できないけどなあ」


 ミハルは涼やかに笑って、半分にしたシュークリームを器用にクリームが落ちないように傾けながら食べていた。


 しかし、この時アヤネが言った言葉はある意味正しかった。

 それから半年後に僕たちはその言葉の正しさを知ることになる。



 県立西平高校の入試も終わった三月、ミハルは順当に合格、僕もなんとか合格していた。


「カズヤ君、おめでと。良かったね」

 

 合格発表の日、ミハルは半分涙ぐみながら僕にそう言った。

 ちょっとそこで涙ぐむのやめてくれよ、と僕は思った。まるで奇跡がおきたみたいに泣かれると、自分の成績の不甲斐なさが情けなくなってくる。ま、たしかにギリギリだったことは否めないけど。


 そんな合格発表からしばらくしたある日、中学校からの帰り道でミハルは言った。


「カズヤくん、あの、今度の土曜日、運動公園行かない? 天気も良さそうだし」

「運動公園? いや、だめだよ、その日は。ショウタローたちと遊びに行くかもしれない」

「決まってるわけじゃないんでしょ? ショウタロー君たちとは別の日にして、運動公園行かない?」


 ミハルは珍しく食い下がってくる。しかし、この時の僕は少し虫の居所がよくなかった。


「だめだって。先にショウタローたちから話が来てたんだから。別の日ならいいけど」


 だいたいミハルがこういう主張をするのは珍しい。というか、そもそもほとんど毎日一緒だった僕たちは、「出掛ける約束」をすること自体が珍しかった。いつも土日はぶらっとミハルがうちのマンションに来て、アヤネと世間話した後「カズヤくん、Yマート行こっか?」と言って二人で食材を買いに行き、二人で料理してアヤネに食べさせる。それが僕たちの休日のパターンだった。ミハルと付き合い始めて一年とちょっと。僕はそんなペースのミハルとの付き合いを不満に思っていなかった。

 そう。

 少なくとも僕は、不満に思ったことは一度もなかった。ただ、世話好きなミハルを少しだけ、ほんの少しだけ鬱陶しく思える時は、確かにあった。


「…… 分かった」

 ミハルは出掛ける日の変更を了承した。ただ、なんだか少しいつもの朗らかさがない気がする。


「じゃあ日曜日は?」

「日曜日ならいいよ。でも運動公園行ってどうするの?」

「なんか久しぶりに行ってみたくなったの。それじゃあ、運動公園のバス停に十時三十分に集合ね」

「え? うちから一緒に行かねーの?」

「あ、私直接行って待ってるから。運動公園のバス停に十時三十分だよ」


 梅谷総合運動公園はたぬき坂を下ったところにある大きな公園だ。小学生低学年のころ、うちの両親にアヤネ、僕、ミハルの三人でよく遊びに連れて行ってもらっていた。中央の芝生広場にあるアスレチック遊具がアヤネとミハルのお気に入りで、行くと必ず二人で歓声をあげながら遊具にしがみついていた。アヤネはともかくミハルがああいう高いところが好きなのは意外な感じがする。


 え? 僕? 僕は大の苦手だったよ。もともと高いところ苦手だった上に、何度もアヤネに蹴り落とされたら、そりゃあ苦手にもなるって。その話は置いておくとして。


 この時、僕はもう少し考えるべきだった。

 ――― ミハルが土曜日にこだわったことについて。


 そして、僕はもう少し慎重になるべきだった。

 ――― ミハルが普段はしない約束をしたがったことに対して。

 

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